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        「角川漢和中辞典」


 昨年9月、母を亡くしました。86歳でした。
 今年4月、所用で日本に戻っていた機会に、母の遺品を整理しました。そしてその際、思わぬものを発見しました。
 わが家族は、先に亡くなった父の仕事の転勤の関係で、数年ごとに引越しを繰り返していました。そのため、いつも、押入れの奥には、不急の内容物のためにあえて梱包を解いていない、数回の引越しをかいくぐってきた数個のダンボール箱が仕舞い込まれていました。母の死は、そうした荷物を開けてみる機会となりました。そう、まるでタイムカプセルを開けてみるように。

 出てきたものは、思わず作業の手を休めて見入ってしまうような、なつかしさあふれるものばかりでした。
 もう、すっかりとかび臭くなった衣類箱の中からは、多数の衣類のうちに、一着の明るいプリント柄のワンピーススカートに目がとまりました。そしてそのとたんに、それを着た若い頃の母の姿となって蘇ってきたのは不思議でした。
 そうした中、私の高校1年の時の生徒手帳も出てきました。
 表紙に「生徒手帳 愛知県立昭和高等学校」とあり、裏表紙の「身分証明書」には、昭和37年4月6日発行とありました。初々しい顔写真もそのまま添付してありました。つまり、37年昔へのタイムスリップです。
 手帳の備忘録のページをくって行くと、へたな字で、「角川漢和中辞典 約1000円」とのメモに目がとまりました。「まてよ、この辞典はあれじゃないか」と、後でシドニーに戻って確かめると、私の書棚に、表紙のビニールもよれよれとなった、同じ名の漢和辞典がありました。奥付には、950円とあり、発行も昭和37年3月5日とありますから、同一物に間違いありません。
 その生徒手帳のメモには、ならんで「初歩の漢文 280円」ともありますから、新たに始まった漢文の授業で、教師から伝達された内容だったのでしょう。その辞典が、「随分高い本だな」と思った淡い記憶もよみがえってきました。

 この漢和辞典は、よく使うというほどではないのですが、読み方のチェックやら、熟語の語源や正しい意味の確認など、わざわざオーストラリアまで持ち込んでいるように、今でも必要としている辞書類のひとつとなっています。
 そうした40年近い付き合いのこの辞典を使う度に感じさせられることは、その一ページ、一ページにただよう、中国文化の香りです。言うまでもないことですが、日本語や日本文化にとって、数千年にわたる中国文化による薫陶なくして、いまのレベルはありえないでしょう。
 先日、そうしたこの漢和辞典が、あるプレゼントをしてくれました。
 「拙い」という字の熟語を検索していた際、その熟語群の最後に列挙されていた、「守v拙」と「養v拙」という二語がそれです。
 この二語は、ここに「v」の字で示したように、レ点を付けたままで示されており、「しゅせつ」とか「ようせつ」とかと音読はされていません。つまり、日本語となって日常に定着しているまでの言葉ではなさそうで、だからこそ、私もこれまで出会わなかったのかも知れません。
 当辞書によると、前者は「せつをまもる」と読み、「世渡りのへたな自分の性分を守って、むりにうまく立ち回ろうとしないこと」とあり、後者は「せつをやしなう」と読み、「生まれつきつたない自分の徳を養い保ち、むりに出世しようとしないこと」とあります。
 そして、出典として、古い漢文や漢詩、ことに後者には、杜甫(712-770)の詩の一片が添えられており、両者とも、故郷に帰った時の心境描写に用いられています。
 一見では、これらの言葉は、身分社会でのへりくだりの重要さを説いたもののように読めます。
 そうではありますが、ちょっと慎重に考えてみますと、こうした言葉には、千数百年の歳月と、中日の地理的隔たりをこえて、現代へのメッセージを含んでいるようにも思えます。

 話題は移りますが、最近、オーストラリアで、「Affuluenza」と題した本が出版されました。二人の経済系のアカデミックによる共著で、近年のオーストラリアの順調な経済成長にともなう社会動向に、一種の病的消費過多があるとして、Affluence (豊かさ)と Influenza (インフルエンザ)の二語を合成して、本のタイトルとしたものです。
 また、当地では最近、こうした社会動向のなかで、利益の極大化を追求するビジネス社会とその中でのストレスに切り刻まれる生活に一定の見切りをつけ、重責なポストからはずれ、収入は減ろうとも、より低いポストをあえて選ぶ人たちが増えている現象があります。こうした傾向はダウンシフト(Downshift) と呼ばれています。
 同書によりますと、2002年に行われた調査で、それ以前の10年間にこうした選択をしたダウンシフター達は、成人人口の23パーセントにもおよんでいたとあります。ことに40歳代ではその比率がもっとも高く、26パーセントを越えています。
 また、こうしたダウンシフター達がそうした選択をした理由を多い順にあげると、「家族との時間」、「健康なライフスタイル」、「バランスのとれた生活」、「いっそうの自己充足」、「脱物質志向生活」などとなっています。

 「守v拙」あるいは「養v拙」とダウンシフト。同じものではないとしても、同根のものがあるように思えます。

 まもなく予定されている母の一周忌の墓参りには、心のこりながら行けそうにありません。母の遺品整理から始まったこうした話をネットに載せて、身代わりのお墓参りとは、なりませんかな。

 (松崎 元)
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