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両生学講座 第三回(両生精神医学)
 


       
うつ病論 “仮説”


 私は精神科医ではありませんので、以下に述べる私の見解は、むろん医師の立場として述べるものではなく、患者として、あるいは「健常者」としての、一種の健康上の経験や自己健康管理法としての視点で、私なりの「うつ病論」の “仮説” を述べて見るものです。言ってみれば、私の「うつ」との、付き合い方、といったところでしょうか。


 自己責任としての精神健康管理
 私がまず、第一に申し上げたいことは、現代の医学全般に、「薬主義」というか、「物質主義」というか、人間の健康や病気にまつわる現象を、そうした物的分析主義に頼りすぎているのではないか、という疑念を持っていることです。
 自然科学の発展の成果としての医学の、当然な到達点とも言えますが、狭い意味での医学の立場はそれで充分かも知れませんが、代理のきかぬひとつの身体と命をよりどころとするひとりの人間にとって、それだけでは充分ではありません。
 そこで、そうした分析主義に頼るいわゆる医学に対し、より全体的な視点を重視する医学も発達しているようです。ことに、東洋医学の分野では、そうした傾向が強いように理解しています。
 しかし、それが精神にまつわる病気である場合、身体的疾患とは違って、その因果作用はいっそう複雑で、それをつかさどる臓器としての脳の働きのみならず、その機能として生じる、意識や心、人格といった次元にもわたります。従って、客観的出発点としての物的分析主義の役割は認めますが、それにのみもとづく単線的成果に、すべての精神作用を依拠して考えるのは、はなはだ不十分と考えます。
 また、最近は、よく効く薬も開発され、実用化されているようです。しかし、脳の働きはまだ未解明な部分も多く、ある特異な症状にある薬がよく効くとしても、その服用作用の長期的影響など、まだ不明な部分も少なくないはずです。
 精神の健康とは、臓器としての脳の生理学的な働き、その人をめぐる環境、そしてその人の性格的特性などが複雑にからみあった結果によるものです。まして、生き方という面まで含めれば、そこには選択といった要素も入ってきます。
 ともあれ、最終的には、自分が自分の医者であるばかりか、主となることが求められるわけであり、そうした意味で、自分の精神的健康に、仮説を含めても、全知全能を注ぎ込む必要があるのはいうまでもありません。厳密な意味での「自己責任」です。


 予防が第一
 「うつ病は心の風邪」、といった言い方があります。
 うつ病が、治癒可能な病気との認識が普及していないため、あるいは、精神の病気というものに偏見が伴うため、こうした、婉曲的アプローチが試みられているものと思います。
 うつ病を、早期に医療のルートに乗せるという意味で、私は、そうした言い方に異論はありません。
 しかし、別にも記したように、私は労働衛生にたずさわった経験があり、また、私たちが働く環境、ことに精神的なそれは、近年、ますますと「不衛生」に向かう状況が見られ、私には、「うつ病は心の風邪」といった認識どころか、「うつ病は心のガン」と言ってもよいような、そうとう深刻な状況認識があります。
 たとえば、インターネットで、うつ病に関する様々なサイトが閲覧できますが、その闘病記の多さに驚かされます。ですが、それにもまして驚かされるのが、うつ病にかかった原因が、仕事がらみのものが目立ち、いわば極限の労働状況を経験した結果による発症例が、数多く発見できます。
 おそらく、初期的なうつ症状に罹患していながら、仕事への責任感のあまり、あるいは他に選択がなく、無理にむりを重ねて、そうした極限状況にまでいたったものと推測されます。
 そうした患者が、医師から薬を投与され、劇的な改善を見せた体験をつづっているのは、それはそれで意義あることとは思いますが、ちょっと待ってくれよ、との感は否めません。
 つまり、そこまでいたる前に、また、薬に頼る以前に、自分の自然な回復力を駆使し、精神の自己健康管理ができたはずです。また、純粋な医療問題からはやや離れますが、労働環境の健全化の問題も指摘できます(もちろん、今日の仕事をめぐる現実が個人の力ではどうにもならないことは承知しています)。つまり、精緻な医学問題以前に改善できる余地は多く、むしろ、「風邪扱い」されることにより、本質的な原因がすり替えられている可能性も多いと思います。
 ある意味で、うつ病の発症メカニズムは、さほど複雑ではありません。もっとも有力な治療法は、その多くのケースで、充分な休養なのです。


 活用できる「うつ」状態
 さて、つづいて、うつ病の自己管理についてへと話を進めたいと思います。
 私の「仮説」は、こうした環境においてのもので、上記のような、強いられた極限環境では、緊急避難的に、薬品の使用は避けられないでしょう。
 私のように、60にも近い年齢になると、うつ的状態は、あるサイクルをもってやってきます。若い時にも、気分の起伏はありましたが、サイクルとも言えず、また、山と谷の落差が少なかったのか、あるいは、サイクルの波長がうんと長かったのか、その到来に、さほど難儀した記憶はありません。それでも、ことに、オーストラリア居住をはじめた20年前ころから、意図的な精神健康管理はこころがけてきています。
 そのようにして、この「季節」の到来とは、長いつきあいを重ねてきたわけですが、そうした体験から、私は、この「うつ」というものに、ある種の《役割》を発見しています。
 やや比喩的に言えば、私は、うつ的になった自分を、自分のある種の感覚の敏感化ととらえ、象徴的に表現すば、芸術家化現象とでも言えるかと思っています。。
 それがなぜかは解りませんが、ある周期をもって、脳の働きに質的変化が訪れ、たとえば、季節が、夏から秋に移るように、「わたし」の何かが変化してゆきます。
 そうした変化は、たしかに「心の風邪引き」とも言えるようなもなのですが、どうも、病気としてとらえるには、あまりにいとおしいところのあるのも事実です。それにまた、それは、自分に負荷されるストレスの強さにも絡んでおり、それは多分に、選択の問題であることも事実です。
 つまり、こうしてやってくる感度の良い季節を、苦痛は苦痛として忍びつつ、積極的に活用しない手はないと思っています。
 繰り返しますが、私は、こうした状態と、明らかな病的症状とは、スペクトラム状のものとして連続的につながっているとは思いますが、働きとしては異質なものです。
 私は、こうした、活用できる「うつ」状態があることを、ともあれ、うつ病にかかわる「仮設」として提示したいと思います。
 すなわち、手に負えるうつ状態と、手に余るうつ状態があるということで、繰り返しとなりますが、私たちとして努力すべきことは、自身の状態を、後者にはいたらさない取り組みが肝要です。ただし、もし、そうなってしまったら、ただちに医師の診断を仰ぐ必要があります。
 
 繰り返し運動の大事さ
 私は、ほとんど毎日、何らかの運動をするようにこころがけています。
 その証とでも言えるのですが、オーストラリアに20年以上も住んでいながら、車の免許をとったのは、2年3ヶ月前で(日本でもなし)、それまでは、車には頼らず、遠出は公共交通機関、近出は自転車としていました。
 その原則を修正したのは、ひざに生じた故障がゆえにでしたが、最近はそれも軽快し、再び、 “人力” に頼った生活スタイルに戻しつつあります。
 私の運動の三本柱は、ランニング、サイクリング、そして水泳です。このうちのどれか一つを、毎日することにしています。不可能な場合でも、早足の散歩をします。
 運動にあてる時間帯は、夕食前。一日の仕事が終わって、頭も働かなくなった夕暮れ、ひと汗流します。その効果は抜群で、私はこうした運動を、わたしのドクター、あるいは向精神薬と呼んでいます。
 こうした生活は、もう20年以上も続いており、もし、こうした生活習慣を持っていなかったら、私は、かなり重いメンタル障害をわずらっていたかもしれません。それは、やむを得ない理由から、仕事はきつかったのに運動ができなかった日に、如実に証明されます。
 ここでは詳しく述べませんが、こうした運動、つまり筋肉を繰り返し使う運動が、精神活動、ことにうつ病予防に極めて効果的であることは、有田秀穂著『セロトニン欠乏脳』(生活人新書、NHK出版)に詳しく述べられています。この本には、日本の禅の修業法が、そうした脳の健康管理の上でも理にかなっているとの見解もあり、興味が深められます。一読をお勧めします。

 驚くべき偶然
 ところで、ここまで、この原稿を書きあげていた時、当地の新聞に掲載された「Culture of Melancholy」と題した特集記事と出会いました。米国の精神医療の専門家によって書かれた記事ですが、うつ病との取り組み方について、私の言いたかったことを、その専門家としての知識と経験にもとづいてズバリ論じられていて、偶然とはいえ、そのタイミングの一致にびっくりしています。

 ことに、上に「仮説」として提示したように、うつ状態は、病気なのか、それとも、人間の精神のある洗練された状態なのか、といった問いは、まさに、私をずっととらえてきた疑問ですが、この記事の中心にすえられて、論じられています。
 さらに、この記事には、たとえば、「ゴッホがもし今日の抗うつ剤を服用していたら、彼の芸術が生まれたのか」といった、私にはショッキングな質問もあります。
 そこで、抄訳ながら、急いで翻訳することにし、この「両生学講義」の第四回として掲載いたします。
 ぜひ、あわせて、ご一読ください。
 蛇足ながら、ことに、「うつ病」か「疎外」か、のくだりは、熟考するに値する議論と思います。
  
 そのような次第で、唐突なしめくくりとなりますが、ひとまずこの講義を終わります。
           
 
   (松崎 元、2005年11月11日)

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