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  戦争と私


 昭和21年(1946)8月20日生まれの私は、戦争が終り、父が中国大陸より生きて復員した、その結果の生命です。私の兄は、昭和17年12月4日生まれ。つまり、真珠湾攻撃の一年後のことです。この私と兄との3年9ヶ月の年齢差は、まさに戦争による父の不在がゆえで、私の誕生の1年5ヶ月後には妹が生まれています。もし、戦争がなかったら、おそらく、私と兄の間にもうひとり、兄か姉がいたのは確かでしょう。

       兄、私、妹 

 「もし」はともあれ、戦後の焼け野原で、こうして両親と三歳の兄とで再開された三人家族に誕生した四人目の命である私は、この家族にとって、まさしく平和の証であったことは確かでしょう。

 私はかくして、戦争を知らない世代に分類されるわけですし、たしかに、直接の戦争体験はありようもなかったのですが、しかし、上記のような私の誕生をめぐるいきさつに想像をめぐらせてみるだけで、私と戦争が無関係でなかったことは、はっきりとしています。

 私は、子供のころ病気がちだったためか、全体におくてで、少年スポーツを始めたのも、中学生になってからでした。それも、平均以上の背丈がありながら、何の運動経験もないという一種のうしろめたさを抱くようになり、その克服のため、おそるおそる足を踏み出したというのが実情でした。
 読書についても、熱心に取り組み始めたのは、大学受験寸前の頃でした。高校生活は、思い切って飛び込んだバレーボールの部活動が成功し、自分の運動能力に自信を得つつ、それに没頭していました。そして、大学受験も間近となった三年の秋口、クラブ活動から受験勉強に切り替えるべき季節に、東京から帰省してきた兄が、「何のための勉強か、何で工学部か」などと、せっかく受験勉強を始めようかとしている矢先にそんな横槍を突っ込んでくれて、またしても勉強を後回しとするきっかけをくれたのでした。


 高校2年の頃、部活中に

 大学は工学部土木工学科に入りました。授業にはほどほどの熱の入れようでしたが、他に、初年はワンダフォーゲルの部活動に、その後は同学科に、「学生会」という半学研半自治会運動志向のカメレオンのような組織を設立し、期せずして、やがてやってくる「大学紛争」の時代の前兆を形成していました。
 そうした一方、自身では、急速に文学や思想の読書に親しむようになりました。ことに、入学後すぐに出会った、河合栄治郎の『学生に与う』には大きな感銘をうけ、その後、彼の『学生と〇〇』と題したシリーズの著書を、神田の古本屋をあさって見つけては、熱心に読んだ記憶があります。それらの著作は、傾向としてはバンカラ風で古臭いながら、その各分野にわたるすきっとした論理の組み立ては、教養としての自身の骨格造りに、大いに役立ってくれた思い出があります。

 思い起こすと、20歳を挟んだ数年の期間、私が選択した読書傾向には、大きく分けて、二つの流れがありました。
 ひとつは、日本という同一の文化・社会環境を共有する作家達で、ことに私に影響を与えた作家達は、広い意味の戦中作家たちでした。つまり、実際に戦闘を体験した世代を挟み、それ以前の主に転向作家から、終戦を十歳そこそこで迎えた若手の戦後作家たちでした。
 なかでも、大江健三郎は、私が初めて出会った書籍を通じた先達で、学生作家としてのデビューから、愛媛山中の故郷を題材とした異色な土着歴史小説に傾倒するまでの初期の諸作品は、私の精神形成にとっての必須栄養源でもありました。
 また、大江の、ヒロシマ、沖縄へのかかわりから、親友に導かれるように、私の関心が戦争被災の問題へと連続的に発展する、その糸口となりました。
 そのようにして始まった私の「戦争体験」は、まずその導入部として、昭和初期までの大正デモクラシーの繚乱の後、ファシズムへと向かう社会の中で、左翼思想や自由主義思想に傾倒する知識人たちが、権力の弾圧下、「社会」と「私」の間に揺れながら、志を曲げさせられ、筆を折ってゆく様は、ことに、就職後の、良心と仕事の要求とのいたばさみを噛み締めているなかでは、時代こそ違え、身につまされる相似形の遺産を感じていました。
 ましてや、戦場経験を、自己の良心の呵責の灯をともし続けてつづられた作品は、読みつづけることすら苦しくなるような体験で、想像力の回路が焼き切れるかのような、(読書上の)極限体験とでも言ってよいものでした。
 誰しも、戦争には反対でしょうが、たとえ戦死者を出さない戦争があったとしても、そこに人間としての良心がむごたらしく踏みにじられない戦争やそれへの準備はないと、私はそれらの作品を自分の時代にあてはめて、読んでいました。

 もうひとつの流れは、海外の作家達の作品で、はじめは手当たりしだいに読破していましたが、やがて、近代の潮流のなかで、一種の発展経路があるように思われ、おそらく小林秀雄の影響でしょう、対象をフランスの作家達に絞り込み、若き自我をルソーの『エミール』や『告白』とともに確認することに始まり、ボードレール、フローベル、モーパッサン、ゾラ、、ジイド、などをへて、現代の不条理をサルトルに見るに至る、一連の作品を系統的に読みました。それは、言ってみれば、「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物学の法則を、期せずしてたどったものともなりました。
 この後者の流れは、言わば、近代の人間がたどる普遍的合理性発見の過程と受け止められ、そういう意味では、一般的教養の域を出るものではありません。
 他方、前者の流れは、私が日本人として形成した、私自身のアイデンティティーと連動し合うもので、一般に対する特殊なものと言うことができます。
 こうして、自然発生的ではあるにせよ、結果として、二系統の読書体験として、組み立てることができたのでした。

 私はここで、その一系統である、日本人としての世代的意味を探る仕事に有用なテキストとして、2002年10月に出版された、小熊英二著『<民主>と<愛国>』(新曜社、6,300円)を取り上げたいと思います。
 その値段から想像できるように、この本は966ページにわたる大冊ですが、私あたりの年齢の人には、この本は、自分が生きた時代の研究として読め、興味がそそられるはずです。
 この著者は1962年生まれですから、私と16歳違いで、ひと世代ほど下です。その著者が、自分の父の生きた時代を探る意味も含めて書いた、戦中から戦後世代の物書きたちの作品をめぐる文献研究書です。分類としては学術書のひとつではありますが、そこに取り上げられている作家のいく人かは、きっと、読者もかって読んだことのある作品の著者たちでしょうし、そうした作家たちについての分析は、個人的にも、新ためて興味を引起されるものがあると思います。

 ところで、この『<民主>と<愛国>』で、著者は、1960年代末の、いわゆる大学紛争時代を風靡した作家として、吉本隆明を全一章をあてて論じています。当時、私もその渦中にあり、その過激な著作を、いきなり作品のディテールとして接し、その熱気に触れたのですが、その著者自身の背景への理解はうとく、同書により、「皇国少年」期を過ごした後期「戦中」作家の一人としての、吉本の世代的位置を改めて知り、当時私が抱いていた彼へのある種の距離感の出所を発見した思いをもちました。
 また最近、その吉本と辺見庸の対談、『夜と女と毛沢東』(文春文庫、2000年)を読み、今や吉本バナナの父親としての方が有名ともなった、晩年の彼の生な声にも接しました。
 こうした二冊の読書を通し、吉本の主張の深層心理的、あるいは、精神分析的土台を垣間見た気がしています。つまり、吉本は、世代としてはもっとも戦死率の高い、終戦時21歳というジェネレーションに属しながら、志願する同僚を見送りつつ、工科系大学進学を選択して徴兵をまぬがれ、生きて終戦をむかえました。当然に、彼に、その自分の選択に執拗なわだかまりを持たないはずはなく、吉本は、それを自分より先の世代への攻撃にふりむけ、「戦後民主主義」への強烈な批判者となったのではのではなかったのか、そうした視点をいだく読後観となっています。
 戦後生まれの私は、そうした戦中世代の「わだかまり」からは当然に無縁で、その一種の客観性は、転向世代の苦悶、戦闘に参加した世代の生存のための自己欺瞞、そして、大江のような、終戦時十歳だった世代には予期もしない敗戦に伴う価値観の挫折などなどと、それぞれの世代の事情がそれぞれに理解され、どの世代をも、まっこうからは批判も、また傾倒もしにくい、ある “なまぬるさ” を自認していました。
 もちろん、私は、「戦後民主主義」への幻滅感は共有していましたが、しかし、たとえば、大学紛争への参加も、当時の、定員を何倍も上回る数の学生を入学させる、いわゆる「マスプロ」授業への不満と、安易な大学側の授業料値上げ決定への憤りという具象的理由がありましたので、吉本のような、深層心理的動機には、理解がとどかなかったようです。
 そうした彼が、いまや親父として娘の話をするようになり、私にとってはあまりに普通な印象で、彼の剛と軟の両構造を見た気がしています。

 以上のように、私にとって戦争は、たしかに間接的な体験にすぎませんが、それでもそうした確かな体験をへて、現在へと達しています。

 (松崎 元、2005.12.14))
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