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修行風景
板長の口からこぼれる小言が、曲折をへながらも、しだいに減ってくるなかで、私のこなす仕事も,、わずかづつではりますがスムーズとなってきているようです。それだけ、仕事を
「覚え」 てきたと言えるのかもしれません。
しかし、そうした変化を、ふつうならば喜ぶべきではあるのですが、なぜか、ある一抹の 「さびしさ」 が伴うのです。
板長いわく、「見習いは 『見て習う』 のが見習いだ」。
「ハジメさんは、自分のやり方でやっていて、見て、習って、いない。私のやりかたをよく見てなさい」。
エビのてんぷらを揚げている時のことでした。もう、見ていられないとばかりに、彼は私の作業を止めさせて、手際よく、いかにもよくこなされた身振る舞いで、自分でエビを揚げ始めました。
「見習って」 いて判ってきたことは、習得すべき課題には、二種類のタイプがあることです。
ひとつは、食材のうまみをのがさず最大に引き出すよう、最適な調理法を実行することです。 “エビてん”で言うなら、油の温度とか、ころもの濃度や鮮度とか、揚げる時間の長さとか、もちろん、アツアツの揚げたてをサーブするなどなどです。
もうひとつは、いってみれば、よい “外見” を作るための技術です。エビをまっすぐに揚げるとか、ころもをうまく付けて、大きく、形よくみせるなどで、一見上の商品価値を最大化することです。盛り付け方も、あえて分ければ、こちらに入るでしょう。
また、てんぷらには重要な 「はな」 (ころも上の小枝状の突起) を上手に付けるというのは、これらの両方にかかわる技術でしょう。
それに、職人の世界は、すぐれて実用本位の世界です。実際の生活に直接役立たない技は、扱うべき対象とはされません。そこが、芸術家とは異なるところです。まして、食を商売としているレストランともなると、効率やコストという、経営上の配慮も欠かせません。個人としての強いこだわりは持ちつつも、その向かう方向は、実用第一です。
ちなみに、板長がしつこいほどに教え込もうとするのは、同時にいくつかのことを平行して実行できる技量です。たしかに、例えばエビ何匹かが揚がるまでには数分の時間を要します。その揚がり時さえこころえておけば、その間、他にできることはたくさんあります。
また、彼はくりかえし、こう言います。「手と目はてんぷらに、耳は入ってくるオーダーに、頭は次に何をするか考える。どのひとつも遊ばせるな」。
ついでに言えば、上記の諸点は営業が始まってからのことで、何十品にものぼるメニューには、それぞれ、何種類もの材料や調味料が用いられ、毎日、そのどれひとつをも欠かすことなく、しかも最大に新鮮に保てるように工夫し、また、最適のタイミングでそれらが使えるよう、店が開く以前における、それぞれの下ごしらえが欠かせません。
そうした無数の留意点の組み合わせの全身的実行、これが、今日、食の職人が携わる、通常の世界であり、毎日です (私の知る限りですが)。
そうした世界で、七年にわたって修行し、それ以後、豊富な板前経験を加えた板長は、それでも、自分の息子を、板前にはさせたくないといいます。
それだけではなく、自分が口にするもの、たとえば 「さしみ」 は、彼なりのこだわりを貫いたものしか、食べたくないといいます。
休み明けの先日、彼は、自分て釣ってきたカタのよい 「しまあじ」 を、自分で造りにして、店のまかない料理として皆に出してくれました。皿に盛られたその姿造りとなった 「しまあじ」 の目は、海の清さを漂わせるかのように、まだ黒々と澄んでいて、その鮮度の違いがひと目でわかります。彼は、釣り上げてからそうして料理されるまで、鮮度を保つための丁重な扱いをいかに与えてきたか、それを自慢げに話してくれます。
ところで、これは余談ですが、「しまあじ」 とは、日本では最高級魚にランクされる、数ある魚の中でも逸品です。ことに天然ものは、高級料亭にでも行かない限り口にはできない高嶺の花のようです。それがたとえばシドニーでは、街の魚屋でも、大衆魚のように手ごろな価格
(キロ5〜6ドル=450〜540円) で売られています。また、この板長のように、休日に、その意気込みは当然ながらも、容易に行ける埠頭などからでも釣れる魚の一種です。もちろん、それなりの釣りの技量は必要ですが。
そういう魚好きの板長の将来の夢は、自分でボートを所有してそこに住み、釣り三昧の生活をすることといいます。
食の職人になり切ればなり切るほど、その食から 「疎外」 されてしまう廻り合わせ。
私はここにも、「仮の姿」 にさらされる、ひとりの人間を見ているように思います。
(松崎 元、2006年12月4日)
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