前回の今年初めての本講座では、「植民地」というキー概念を用いて、
と述べ、私なりの「人類学」、つまり、「両生人類学」を提唱しました。
今日、私たちの暮らす場は、まさしくグローバル化された世界で、西川長夫の用語を借りて言えば、「<新>植民地」の時代です(同氏著の『<新>植民地主議論』(平凡社、2006年)は、私がこの「植民地」というキー概念に達するにあたり、多大な触発を与えてくれた本です)。
ただ、西川氏の議論には、「反オリエンタリズム」の視点はありますが、「空アイデンティティー」という、いわば、《内なる「反オリエンタリズム」》の視点はありません。
しかし、この生活者の実用学たる「両生人類学」は、非アカデミズムな有用性を重視する議論であるがゆえに、生活者体験に基づく「空アイデンティティー」という視座を不可欠としています。
さらに、私の人生経験――日本の戦後の目覚しい経済発展における、ある「サラリーマン」=中産階級労働者の、多転勤家族とその次男の物語、つまりそういう時代性の表れとして繰り広げられたのですが――から見ても、前回講座に言う「私という植民地」に触れずして、一生活者としての全体像にはなりえません。
その意味で、「両生人類学」が「両生人類学」であるのは、「<新>植民地」という外的視角と同時に、「私という植民地」たる《内なる「反オリエンタリズム」》という内的視角を重ね合わせた複眼像として浮かび上がる、立体的視野=「空アイデンティティー」が重要な役目を負っているのです。
さて、そういう「両生人類学」 の今回の講義では、その各論の初回として、この複眼視野の産物である「空アイデンティティー」について、さらに踏み込んだ考察を始めてゆきたいと思います。
言うまでもなく、この「アイデンティティー」という用語は西洋からの輸入品で、その用語そのものはおのずから、西洋的発想を根幹としています。
しかし私は、この用語の語源に拘束されていては、現代の、それこそ「<新>植民地」の構造はとらえきれないと思います。つまりこの用語には、人間の存在の原初に、何かことさらの意味があるかの発想が含まれています(言い換えれば、本質的に、エリート主義、選民主義です)。私は、人間存在をもっと社会的、歴史的そして自然的なものと見ます。ですから、何か、その語源をひっくりかえす発想が必要と考えます。
それを私は「空アイデンティティー」と呼んでいるのですが、そこには、仏教のおしえに典型的に見られる東洋的発想が、どうやら役に立ちそうな気配です。
そこでまず、こうした気配の拠り所をめぐり、以下のような、二点の視界を提示したいと思います。
1
昔、オーストラリアで留学生活を始めて間もない頃、私はひとつの英語表現と出会いました。
留学生のための英語クラスに通っていた時、あるテーマについて討論をする場でのことでした。私を含む日本人留学生たちに向かって、教師が繰り返し言うのです。「Speak
up. Speak up.」と。
その辞書上の意味は、「大きな声で話しなさい」ですが、その場での教師の言わんとしていることにはもっと含みがありました。それが私にはこう聞こえました。
「君たち日本人は控え目過ぎる。もっと自信を持って、自分を言い表しなさい!」。
確かに日本人として、それまで私は、いわば「謙虚」であることにある肯定的意味合いを抱いてきていました。それが、この「Speak up.」という英語表現は、その長年の価値を否定するかのような、何か、異なった意味合いをもって私に迫ってきていました。
一年間の英語クラスを終え、大学院生となって奮闘していた最中のことでした。
私をいろいろと指導してくれていた先生が、勉学の合間のレクレーションとして、オリエンテーリングに誘ってくれていました。
その日は、子供向けの初歩のオリエンテーリングの係員として、コースとなった公園の一角で、参加した子供たちを手助けしていた時でした。
それが何であったかは忘れましたが、ある誤りをした男の子に何かを指摘した時のことでした。その子――小学2,3年生くらいだったでしょうか――が、私にしてみれば、何もそんなことを尋ねてもいないのに、つべのこべのと言い訳をするのです。まるで大きなへまをしでかした大人がするように。そうです。まさに、「Speak
up」するのです。
また、院生の各種セミナーにおいて体験したことですが、確かに皆、よく発言し、関心させられることも度々でした。
私は、ことに、その中でも良く発言する幾人かの学生に気を止め、その学期の終了後、張り出された成績結果リストの中に、そうした学生達のマークを調べてみたことがありました。しかしながら、そうした「Speak
up」な学生達の成績が必ずしもいいわけではありません。何人かは、私よりはるかに良くないマークしかとっていませんでした(そこには私の作戦もあったのですが、その詳細はまたの機会にします)。
そこで、少なくとも該当する学業成績に関する限り、「Speak up」な態度が、その科目の理解度とは無関係であることを発見していました。
それからはや二十年近くを、日豪間の往復はありつつ、こうした「Speak up」社会で過ごしてきました。
そんな折、先日、鈴木大拙の『東洋的な見方』(岩波文庫)に、こんなくだりを発見しました。そのエッセイ集の冒頭に置かれた、「東洋文化の根底にあるもの」と題された文章の書き出しです。
この「主客の分別」、それを出発点としている社会を、上記の「Speak up」社会と言い換えても、少なくとも日本とオーストラリアの違いを浮き立たせる眼目において、おおきな錯誤はないでしょう。
鈴木大拙のここでの議論は、このあと、「分けるものと、分けられたものの間に争いの起こるのは当然」とし、それが征服欲となって、「インペリアリズム(侵略主義)」となる、と続いて興味深いのですが、ここでは、鈴木大拙の言う、西洋の「分別知」に基づかない、「渾沌」のままの状態をそのまま受け入れるという、丸ごと受容の、東洋の発想に注目したいと思います。
ここで私は、こうした「西」と「東」の違いを、「別ける知」と「別けない知」と仮に呼んで対比させ、それを、冒頭に述べた「空アイデンティティー」の視野に結び付けてみたいとにらんでいます。
2
これも私の体験的視野なのですが、「空アイデンティティー」をめぐって、東洋的発想の有用性を見出す第二の着眼に、以下のような角度からの考察があります。
「宗教はアヘン」とマルクスは言いました。これは正鵠を射ています。
仏教でも、マルクスがそう指摘するはるか以前、紀元前後の頃のインドにおいて、従来の部派仏教が、衆生済度を忘れ、出家者中心、自利中心であったのを小乗仏教とよんで批判し、それに対し、在家を重視し、利他中心の立場を大乗仏教とよんで自らを分岐しました。以来、中国、日本、チベットなどの北方仏教はいずれも大乗仏教の流れをくんでいるといいます。
ただ、他者の存在を忘れ自己の解脱だけでいいのかと問う議論も、現実に目を向けず精神的「解脱」だけを問題としているとなると、いまだアヘンのそしりをまぬがれることにはならないでしょう。個人的アヘンか、集団的アヘンかの違いに過ぎません。
はたして、「解脱」とは「アヘン」なのでしょうか。
マルクスの思想にしても、それを金科玉条とし、ドグマ化してしまえば、それとて一種のアヘンであるに違いありません。
そういう目で見渡せば、この世のあらゆるものに、アヘンと呼べないものが存在しないことに気付かされされます。そういう依存こそが、「偶像化」とよばれる傾向です。
だからこそ、仏教は、この世にはそれに惑わされてはならない煩悩が百八つもあるとして、その克服を説いたのでしょう。
キリスト教やイスラム教という一神教にしても、全知全能の絶対神が、そうした無知蒙昧なる人間をひと時の休みもなく教示、監視しているはずです。
つまり、そういう境地にあっては、畢竟、何ものにもよらない無頼の自己を確立し、その不断の内的緊張をよりどころとするしかない姿勢が導き出されます。
そのような、限りない宇宙の空間のような何かに信念をめぐらす、永遠につきない追求のきわめて孤独な立脚点を、仏教では、「無」とか「空」と呼ぶのではないか。むろん、その空間には、まるではかない壊れ物となったかのような地球――繰り返される無理がたたって、闇の中に浮かぶこの青い水の惑星は
“発熱” を始めています――が、私たち個人のはかなさと重なるように、含まれているのですが。
以上のような二つの視点などを手掛りに、「空アイデンティティー」をめぐって、方や、西洋の「別ける知」に対する東洋の「別けない知」が、そして他方、その「空」や「無」の観念がおちいりやすい、アヘンとしての解脱や悟りの境地への疑問が指摘できます。
私は確かに、若いころに親しんだフランス文学や、ここオーストラリアでの十分長い生活体験をもとに、西洋の伝統である「別ける知」を駆使して、これまでの講義やエッセイを書いてきています。それは、明らかな、西洋文明の東洋での凱歌です。
その一方、「オリエンタリズム」に代表される西洋文明の害毒も明らかに感じています。
そうした、「東」「西」の、その双方であり、また、そのいずれでもない、という 《はざま》 が確かに見出され、それだけに、そのどこにも寄る辺のない、孤独な立場が発見できます。ただ、はたして、そうした微妙で困難そうな立場が、本当に維持できるのでしょうか。
そこで、そうした孤独な立場をいかに鍛錬、習得して行くのかという方法論として、聞きかじってきたさまざまな教えの、その奥義があるのではないか、と思いつかされます。
ただしそれは、あくまでも未完成な市井のひとりの人間の思索行為としてのものですので、そこに最初から絶対的存在である「神」といったような存在を前提とする議論は、(それが可能ならば話は簡単なことで)それゆえにそれは排除されます。それがたとえどんなに荘厳で権威あるものであろうとも、それこそ、アヘン吸飲行為にほかなりませんので。そういう意味で、むしろ東洋の教義のうちに、どこまでも人間サイズの、そしてそうした「分別」以前の思索のアプローチが、いっそう探れるように思っています。
次回以降、そうした東洋の「別けない知」の奥義を、私なりに見出してゆきたいと構想しています。
(松崎 元、2007年2月15日)
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