両生学講座 第20回(両生哲学)
様々な勝利
それが誰だったのか定かではないのですが、まだ子供のころ、おそらく母方の祖母からだったとおぼろげながらに思い出すのですが、ある時、 「負けるが勝ちだよ」
と、諭されたことがありました。ただ、なぜ私はそう諭されたのか、その脈略はもう忘却のそのまた彼方ですが、何か、そうするいきさつがあったのでしょう。ともあれ、その諭し主はきっと私の祖母であったに違いないと、今となって思いおこされるのです。
と言いますのは、その言葉を、本で読んだのでも、学校で教わったものでもないようで、誰か身近のお年寄りが私の耳元でそう語ってくれた、ふくよかで親しみある肉声の感触がそこに伴っているからなのです。もちろんそれ以降、幾度となくこの言葉とは出会い、世ずれた平板な意味がその他方にあるのですが、その言葉との、私の人生における初めての出会いは、そうした体験としてでした。つまり、建築職人を夫とし、そうした世界に生きてきたその祖母の、こう言ってしまえばいかにも不似合いなのですが、ある
“思想” がそこににじみ、祖母の人生によって裏打ちされた説得力が伴なっていたように思われるのです。
私にとって、 「負けるが勝ち」 という言葉には、少なくとも、そうした含蓄があります。
人は、誰でも、負ければ悔しいし、勝てばよい気分になれます。そこで、切磋琢磨や競い合いがおこり、勝者となることが定石のように追求されることとなります。ことに昨今、そうした勝ち負けへのこだわりは極致に達したかのごとくで、そのいずれかを判明させないではいられない苛烈さがあり、まして、どちらでもない大様な態度など、その発想すら難しいご時世となっています。
むろん、ちょっと教養がある人となれば、まして、暮らしが邪魔をせぬとあらばなおさら、そうした争いごとは下々の話と距離を置き、自らは、その深き思考が薫陶する高邁な見解をしたためることとなり、それは文学なり思想界なりでの、数々の作品となって世を導いています。
しかし、それでも、たとえば誰かが賞を獲得したとなれば、さしもの高所にも秋波はおよび、それを競争とは呼ばずとも、旺盛なライバル意識は頭をもたげ、無賞の主などは、いかにも肩身の狭い思いを抱かされることとなります。まして無名の輩なぞ、そんな世界の片隅にあって、まるで意識だけで膨れている、紙風船のような存在です。他方、そうした賞が世界的なものとなれば、そのウイナーの地位と威厳は不動と化し、歴史の墓標にも名をとどめることになります。
それでもなお、そうした事象は地球上のものと高をくくり、より崇高に至ろうと志せば、宇宙や神の世界に、いやでも触れてゆくこととなります。ただ、この世界でも俗界の侵略は避けられず、そのいわゆる宗教とは一線を画そうとして、科学や思想の衣をまとうこととなります。
かくして、こうしたいずれの次元を住処と選ぼうとも、すがたかたちは異なりながら、そこに勝ち敗けにこだわる品性は共通しています。たとえ無神論者として、神ならぬ
「神」 への不可達の道をめざそうとも、畢竟、何ものかにすがろうとしている姿勢に変わりはありません。
それを思うと、祖母の語った 「負けるが勝ち」 には、 「勝つが負け」 の含みも漂わせており、そうした勝ち負けへの執着をさらりとかわすばかりでなく、ことの一角に心身を奪われてはならぬという、無頼の心構えが控えているように思われます。まさに、
「神」 すら頭をたれるべき姿です。
(松崎 元、2007年5月3日)
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