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     感じ記憶



 私には、若いころからの自分認識として――時にはある劣等感として――記憶力の悪さがあります。
 むろんこの年齢 (60歳) にいたっては、それには輪にまた輪がかかっているのですが、ともあれ、英語でいう 「写真に撮ったような記憶 (photographic memory) 」 というやつとはとんと縁がなく、その分、あまたの 「試験」 の際には、それなりのおかげを頂戴してきました。
 ただ、その一方と言っていいのか、そうした数字や語句の記憶に威力を発する “いわゆる記憶力” といったものではない、何かちょっと違った記憶の世界を持っているようで、齢を加えるに従って、その感を深くしています。
 それは、数字や語句の記憶というのとは明らかに異なり、ある 「感じ」 や 「印象」 、あるいはそこで生じた 「情緒」 や 「自分にとっての意味」 といったものを保存、記憶していること、とでも言ってよく、ここではそれを 《感じ記憶》 と呼ぶことにします。
 たとえばそれは、味や臭いの記憶とも似ていて、はっきりと言葉で再現できるものではなく、その輪郭はぼやけていながら、ふと嗅いだある臭いがある過去のシーンを鮮明に呼び起こすと言った風に、強さという面では、「いわゆる記憶力」 にも、優るとも劣らぬものがあります。
 今日のコンピュータ用語で言えば、「いわゆる記憶力」 をデジタル的記憶とすれば、それはアナログ的であり、ファジーなところをもっている、と表現してもいいでしょう。
  (日ごろの生活で、思い出そうとして思い出せなく、よく、「あれ」 だの 「なに」 だのと口をついてしまうものは、その何かが消えてしまった、抜け殻状態の記憶です。ですから、これと、この 《感じ記憶》 とは同じものではないでしょう。)

 そういう 《感じ記憶》 のことを、ことさらに意識するようになったのは、オーストラリアにやってきて、英語圏文化に接しはじめたことがきっかけとなっています。
 ことに、私のオージーの友人で、ユダヤ人の血を引き、文字通りの photographic memory を地で行く人物がいるのですが、その彼と接していて、そうした思いを強く意識しはじめました。
 ことの始まりは、彼の私についての認識です。つまり、私に関する彼の認識に、どうも、少なからぬ 「ずれ」 や 「かいかぶり」 があるように感じられたことが発端です。
 当初は、いわゆる初期的誤認もしくは一種の外交辞令かとうっちゃっていたのですが、時を経るにつれて、どうもそういう類のものではなく、何か、本質的に異なものがあるように思えだしました。そしてついにある時、彼に、「過剰評価があるようだから、もっと真実を見てくれないか」 と、一度ばかりでなく、注文をつけるまでになりました。しかし、それでも、彼の態度は 「我関せず」 そのもので、いまだに、大なり小なり、そうした関係は続いています。
 つまり、彼の頭の中には、あたかも、無数のファイルが詰まっていて、入ってくる情報はすべて、そのいずれかに収容され、整然と効率よく処理されているようなのです。したがって、私という情報も、その中のあるファイルに入力されているはずで、それがどのような見出しが付され、いかなる内容であるのか、もちろん知るよしもありません。ともあれ、そのファイルへの彼自身の信頼は絶大な様子です。ですから、こうした私からの注文にも、いっこうに頓着しない風なのです。そういう、すごく強力なファイリングシステムを彼は常用しているようなのです。
 その後年月をへるうちに、しだいに私は、彼のそういう特性や、ことに、私にとっては軽視できないある湿気や奥行きを欠いている傾斜、そして、おそらくそのカメラのような記憶力も、ものごとの 《概念化》 からくる実用本位の産物なのではないか、と考えるようになりました。つまり、あることがらを、それを指し示す何らかの 「標識」 つまり 「概念」 に置き換え (決して同等置換ではない) 、それをもって頭脳活動、ひいては、人間活動をしているのではないかと。

 私が、彼ばかりでなく、オーストラリアや広く西洋社会そのものにも、そうした考え、つまり、向−概念化というひとつの仮説に達しかけていたところで出合った見解が、先に翻訳した 『西洋にとっての禅』 です。私はそれを読み、私の仮説への、大いなる賛同者を発見した思いにとらわれました。しかも、私たち非−西洋人=外部者にではなく西洋人自身の中に。それはもう、うれしく、感動的とも言ってよい出会いでした。(私がなぜそれを翻訳したか、これでお判りでしょう。)

 そこで話は 《感じ記憶》 にもどるのですが、どうも、私のその 《感じ記憶》 は、私たちのもつ直観と関係がありそうです。つまり、あるものごとに出会った時、直観的に何かを感じ取り、それが直接、頭に入力された場合、それには名前も、標識も、ましてや概念もなく、ただ、ある感じとして、記憶に留められるしかないと思います。
 そして、こうして脳に入力されたその 「感じ」 は、しかしながら、もしそういう表現が許されるなら、概念という 「デジタル」 化されたものではなく、 「アナログでファジー」 なものだけに、脳においての情報処理も敏速ではなく、したがって、記憶という面でも、「いわゆる記憶力」 の回路には乗らず、その処理速度も低速なもののようです。そういう、別回路の人の脳の働きというものと直観とは、深く関連しているのではないかと思うのです。
 おそらく、芸術家といわれる人々は、こうした 《感じ記憶》 の王者なのではないかと、思われます。

 ここで、この 《感じ記憶》 について、その道の専門家の見解をひとつ、取り上げてみたいと思います。
 脳科学者の茂木健一郎は、こうした私の言う 《感じ記憶》 がとらえているものに相当するものを 「クオリア (質感)」 と呼んで、人間の芸術活動の源泉と考えているようです。
 彼は、その著 『脳と創造性 : 「この私」 というクオリアへ』 (PHP研究所、2005年) において、まず、記憶についてこう述べています。

 我田引水を許していただければ、茂木の言う 「エピソード記憶」 が私のいう 「いわゆる記憶」 に相当し、同様に、「意味記憶」 が 《感じ記憶》 にそれぞれ相当すると見ることができるのではないか (ただ私は、 「エピソード記憶」 の算術的合計だけではないと見るのですが)。それは、彼が、 「文学においても、ある作品の価値は、(略) その曰く言い難い感覚自体に気がつくこと (メタ認知すること) によってしかとらえられない」 (p. 181, 下線同) と言っていることからしても、この相当関係は妥当と言えるかと思います。ちなみに、この 「メタ認知」 こそ、直観によってなされるものです。
 そして茂木は、それが、創造性へと結びついてゆく脳活動のさまを、このように説明しています。

 この 「新しい意味を獲得する」 ことこそ創造であり、それは、機械的な記憶の処理によってなされるものではないものです。
 
 厳密に言って、私のいう 《感じ記憶》 は、通常でいう記憶の範囲をこえた、より広義な何かであるのかもしれません。ともあれ、それは、私にとって、実にかけがえのないものであり、永年の友人のように、私とともにあり続けています。

 「記憶力の悪さ」よ、万歳。
 
 (松崎 元、2007年6月9日)

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