紙一重の違い
まずは、ちょうど二年前に掲載した、「日本人に生まれてよかった」 と題した以下の記事を、再度、ご覧いただきたいと思います。
日本人に生まれてよかった
20年ほど前、筆者(松崎)が、オーストラリアでの生活を始めたばかりの頃、ある胸を突かれる経験をしました。そして、それまで、そうした思いなど抱いたこともなかった、「日本人に生まれてよかった」
との気持ちを強くしたことがありました。
その経験とは、ふとしたことから知り合いとなった、私の父の年齢にもあたる、ある退職技術者のお家に招かれた時のことでした。居間の暖炉の上の棚に、一枚の写真が飾ってありました。ひとりの若者が、手にしたカードを燃やしている写真でした。
私の質問に答えて、彼はおしえてくれました。「それは私の息子でね。徴兵カードを焼いているところですよ」。ベトナム戦争への兵役拒否を決心した息子さんの、その決意の行動を撮ったものでした。
その息子さんは、私とはほぼ同年齢でした。
私も、ベトナム戦争激しい頃、反戦のデモや集会などに参加し、米国の同盟国として日本がその戦争へ間接的に加担していることへの罪悪感を強めてはいました。しかし、自分が戦場に駆り出されるとの危機感を持ったことは決してありませんでした。自国の若者を兵士として外国へ送り出すという選択は、当時の日本の政策としては、なかったからです。
その一枚の写真によって、同世代の若者同志でありながら、生まれた国の違いによって、かくも決定的な違いを体験することとなる、その分かれ目を目の当たりにしたのでした。
そして、平和戦略をともあれ選択している当時の日本の政策がこの違いをつくり、私がそうした国に生まれたことに、万感をもって、「よかった」と実感させられたのでした。
話は転じますが、昨夜、もし、その息子さんがその兵役を拒否しなかったなら経験したであろう、そうした経験をつづった、あるドキュメンタリー番組が放映されました。
幾人かの元ベトナム戦争退役兵の一行が、終戦30年を機会に、そのトラウマをおして、亡くした戦友を弔うため、かっての戦場をたずねた記録です。
かれらも、頭髪に白いもののめだつ、私と同年配の人たちで、それぞれ、奥さん、あるいは別離後和解した元奥さんを伴っての旅でした。
その一行のなかで、元砲兵であったという、バーロウさんとフレイザーさん。当時、その砲撃の正確さから、「9マイルの狙撃手」とよばれたといいます。
去る6月19日、私のオージーの友人で、やはり、ベトナム帰りの元兵士、アンディーが、59歳の生涯を閉じました。彼は、のどに生じた癌が全身に転移し、長い闘病をへて、その二度目の戦いに、今度は生還することなく終止符を打ちました。私も含め、彼の癌は、ベトナムのジャングルに散布された枯葉剤に含まれる発ガン物質によるものだと考えています。ベトナム戦争が――より正確には、ベトナムへのオーストラリアの参戦が――彼の人生を変えました。
彼は徴兵カード (国民の適合者リストからランダムに必要数が選ばれ送付されたといいます。つまり、彼はくじに当たったわけです) を受け取るまで、建設産業で働いてきており、積極的な労働組合員でした。
この4月の末、私の別の友人の携帯に送ってきたテキストメッセージ (のどを侵されて話せないため) に、あと数ヶ月の命と宣告されていた彼は、こう書き残していました。
そして、6月25日に行われた彼の葬儀の席上、私はある思いがけない発見をしました。彼の誕生日が、私と同月同日で、一年だけ私が先でした。私は、生涯で初めて、同じ誕生日を持っている、しかも同世代人と出合っていたのでした。
出生地がたとえ北半球と南半球に隔たっていたとして、それが何でしょう。
葬儀の一席をうめながら、またしても、紙一重な違いの感、を強くしていました。
(松崎 元、2007年6月30日)
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