修行第七風景
鉱物資源に恵まれたここオーストラリアでそうした風潮は見られませんが、日本では、その産業の使命として、「ものづくり」 という意義付けが、あたかも個人の信念であるかのように、熱っぽく語られない日はまずありません。その点、私も根っから日本人のようで、昔から、何かをつくることに、どこか自分の本性のようなものを感じてきています。
そうした 「ものづくり」 のひとつとして、食べものつくりの世界に、人生 「二周目」 のあらたな期待を託し、その可能性を発見し始めているところです。
そこで、この七月より、店が週休二日に移行したのに伴い、私は、その修行の比重を、週四日とすることにしました。つまり、修行を 「実業」 、もの書きのような他の取組みを
「虚業」 と呼べば、 「実」 対 「虚」 の比率は4対3となり、しかも、その3が連続して、つまり三連休で得られることとなり、一週間の中での分割がとみに明瞭となりました。
かくして、それぞれの追求が互いの混入によって中断されることなく集中でき、それは大きな利点ではあるのですが、その反面、その境目においての二者の与える距離感は大きく、週二回のその行き来に、言ってみれば、
「峰高ければ谷深し」 の感を深くさせられています。それは、実業日の中での、午前と午後の虚実の対比の延長したものとは言えます。しかし、そもそも、その日内混在の限界を越えるために、この三連日というまとまりを選択し、それにに期待している背景があるわけで、そのねらいのありうべき反作用が出ているのかもしれません。
ただ、興味深いことに、どちらか片一方の世界でスランプ気味な時でも、両者の距離が故にでしょうか、それが他方に波及することがないようで、病気でも患わない限り、両者共倒れとはなりにくい現象を発見しています。金融界でいう、
「リスクのヘッジング」 とでも言える効果が発生しているのでしょうか。
また、それをリスクというマイナスの面ではなく、成果というプラスの面で言っても、そうした対照性がゆえに、複眼的な視界の広さがもたらされているばかりでなく、互いのコントラストの深さも醸し出されているように思えます。
ともあれ、それは何よりも、退屈が生息できるような繭状空間ではなさそうです。
これも、もうひとつの 「両生」 的な生活法、と言えることかもしれません。
さて、そうした七月も末のこと、明日からの二連休を前にし、誰もがどことなく揚々と店の後片付けに当たっていた夜、例の兄弟子より、 「今日のしゃりは誰が切りました」
との声がかかりました。私は一瞬ぎくりとしつつ、 「いつも通り私ですが」 と答えました。すると彼は、 「今日のしゃりは最高。すばらしい」 と言って手を差しのべ、大げさにも握手を求めてきました。前回にも書きましたように、ここのところ、しゃりの表情が見えるようになっていたのは確かでした。
その一方、にぎりの修行は、苦労しています。何しろ、模型を使って練習するのと、本物のしゃりとタネを用いて実演するのとは、心底、天地の差があるからです。一かんのにぎり寿司をにぎることに、幾十、幾百要素の経験やこつや鍛錬が込められていることでしょう。私はまだまだ、それを口にできる立場ではありませんが、食べてうまいとは、そうした要素のすべてが、その一かんに、にぎり込まれていることの証でしょう。しかも、ほんの数秒のうちに仕上げてしまえる早わざで。
はやく、その足元にでも近付いてみたいものです。
(松崎 元、2007年7月31日)
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