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私の健康観
私にとっての 「健康」 とは、もちろん、病気にかかっていない状態を言うのでもなければ、最近とりざたされる“メタボ”数値の安全圏を指すのでもありません。
他方、若者顔負けにスポーツ熱心なタフじいさんというイメージでも、フィットネスクラブの会員権や色とりどりの健康商品に群がる、健康消費者に仲間入りするものでもありません。
もちろん、悪者を退治してくれるという範囲では医者の世話になり、そのための保険料も必要対価とは考えますが、現代医療技術への信頼には限定を置いています。
つまり、健康とは、ただ、自分に備えられているものを、大事にそつなく活用したいとする、 《自頼》――これは私の造語ですが――の問題です。たとえ、自分に不健康な部分があったとしても。
私は自分の健康を、二つの対象を想定した、エコロジー的な調和状態と考えています。
第一の対象とは、身体という、心身ともの内的環境です。そして第二の対象とは、その自分の身体がその一部である、社会や自然をその例とする、外的環境です。そしてもちろん、こうした二つの環境における調和状態は別々にありえるものではなく、その両者が力を合わせて、自分の健康が維持されてゆくと考えます。
ですから、健康とは、オリンピックの記録のように、そこにはない樹立されるべき目標ではありません。また、それをエコロジーととらえるように、その森羅万象は意味深遠ながら、すでに静かに、そこに存在しているものと考えます。
とはいえ、今や、病的状態が身辺にあふれているのは事実で、健康な状態がすでに存在しているとは、この世界どこを見渡しても、ちょっと考えられません。そういう意味では、それは切り拓かれねばならないものでもあります。
そうした不健康状態について言えば、私の経験では、それは、ある、本来そなわっていたものを喪失してしまった――少なくとも減らしてしまった――がゆえの結果で、その多くが、無自覚でいた、あるいは、誤った見方を、させられていたことによる、その本来の機能の無力化の産物のようです。
たとえば、私はこれまで一年半、ほぼ毎日、片道30分ほどの自転車通勤をしてきていますが、この自分の身体を規則的に使った毎日の生活が、いかに、自分の健康レベルを高めてきてくれていることか、じみじみと実感しています (両生学講座第10回 「自転車通い」 、第11回 「自転車通い(補講)」 参照)。つまり、私は、たとえば足を二本もっており、それなりの筋肉もそこにはついていたわけです。それをこれまでに私は、もっともな理由はあれ、通勤には交通機関を使用することを常とし、日常的にその両足とその筋肉をフルに使うことは、あえて行うスポーツ活動を日常化しない限りは縁の無い、“異”日常的なことでありました。しかし、生活のひとつとしてそれが組み入れられ、しんどいなと思いつつも、ハーハーと息を荒げ胸の早鐘を打たせながらも坂道を登る毎日を繰り返すうちに、身体の働き全体に活性化がはかられ、自分の意欲度も向上するという、心身両面への効果が感じられ、総合的なレベルアップがはっきりと意識できるようになってきています。それは、ひとことで言って、すでにあるものを使ったがゆえにのもので、新たなものを購入したとか取り入れたとかという性質のものでは決してありません。ある意味では、
「復古」 のような傾きもあります。
こうした状態をもって、それを私は、健康である、と呼びたいと思っています。
また、毎日 (休日以外) の組み立てという意味では、私は一日を二つの時間帯に分け、午前中を主に精神労働に、午後から宵を身体労働をあてるようにし、一日のサイクルに心身両面にわたる活動を含めるように心掛けてきています。
こうした二股かける生活は、その切り替えの際、ことに午前の頭脳活動が好調な時など、時間が来たからと打ち切りを強いられることには一種の憤懣をおぼえることもあり、また逆には、その午前の精神的充実感が午後の肉体労働によい気概を供給することになったりもします。
そうした両面の生活を一定期間続けるうちに、自分の心身共の働きが相乗効果をなす、あたかも、自分のなせる総容量の拡大といったような、うれしい感覚が見出せるようになっています。
そういう意味では、1+1 は 2 以上であり、決して、互いに足を引っ張り合うということはありません。
こういう面でも、それを、身体と精神の両分野の二股かけという意味で、 「両生」 方式の実践のひとつと言えるかと思います。
さて、上記のような、心身両面の働きにまつわる健康状態のレベルアップは、冒頭に述べた、 「二つの対象を想定した、エコロジー的な調和状態」 という視点においては、その第一の、自分の身体の内的環境におけるエコロジカルな調和のそうした達成状態といえます。
そこで、その第二の外的環境についてですが、こうした、自転車通勤を例とした自分の身体機能により多くを頼る生活は、一見、古臭い時代錯誤の生活様式のようにもみえます。しかし、たとえば、地球温暖化ガスの排出量といった観点では、私のそうした生活はきわめて環境負荷の低いものといえ、そういう意味では、もっとも時代情況にそくした生活スタイルともいえます。ただし、それは時宜にかなっているとはいえ、こうした位置づけは、ほんの小手先です。
むしろ、もし私に、上に述べた第一の点のような自分内の 《宇宙》があるとするなら、その世界は、一見、自分ひとりでこしらえたようでもあります。だがしかし、それは、長い、長い、生命の営みのその最後の頂点において出現している、人類という一つの生物種における、その一個体としてのもの、ということであり、それは、文字通りの
「宇宙」 の誕生に始まる、遠大な大自然界の発生、進化の奔流の産物であるはずです。
親なくして自分なしと言うのであれば、それこそ、祖先なくして私なしであり、その意味で、日本という島国なくして私なしでもあり、地球なくして・・・、そして、太陽系なくして・・・、ひいては、宇宙なくして・・・、というところに至るはずです。
そういう、気の遠くなるほどに膨大な連鎖の、しかも、そのどこかで一度たりとも断ち切られたことのないつながりの末端に、いうなればまるで奇跡のようにもして、私がここに存在しているわけです。
そういう意味で、この私の存在は、繰り返されてきた、そして無数の、外界への 《適応》 の結果、つまり、その被造物です。そういう、密接な関係性の存在です。
ただ、そういう 《適応》 については、それを、適応すべき本来の状態がそうあらかじめ存在し、それへの到達をもってそう言い表わそうとするのであれば、それは――宗教的、社会的、世俗的権威に頼るのではなく――、この想定しうる最大の外界である、大宇宙という “巨大エコロジー環境” にてらしてのみそう表現されるべきものでありましょう。さもなければ、たとえば、環境汚染によって死滅した生物種とは、あるいは、過労自死した誰々さんとは、まるでそうした権威の神託による定めの一例 ( 「適応失敗という自己責任」 などと命名され)
であったかのごとくされてしまいます。宇宙にそうした権威や目的が存在するとは考えられません。ただ、ある、だけです。
そういう 「大宇宙」 とは、禅でいう 「無」 あるいは 「空」 の世界のことかとも私は理解するのですが、もし私がそこへの到達に触れえるなら、それは、私が、深遠なやすらぎの拠りどころに達した瞬間のことかと思われます。
私にとっての健康とは、そうした遠大な広がりとの共存の中で、いきいきと生きている存在感であり、それへの 《適応》 感覚であり、そして、上述した 《自頼》 という姿勢のことです。
それはもう、 「健康観」 ではなく、ほとんど 「人生観」 ではないか、との声も聞こえそうですが、その両者が一致した時こそが、我が至福の時、ではないでしょうか。
太陽の光も雨の水もいずれただの(無料の)ものですが、健康も、本来、そういう 《ただのもの》であるとの実感です。だからと言って、お金を出せばそれらがよりたくさん得られるというものではありません。
(2008年3月5日、5月7日下線部修正)
(2015年7月22日加筆)
【上記見解の7年後の発展が以下のページで見られます。ご参照を。】
私の健康エコロジー実践法 =長期戦編=その20 「 『草枕』の心境」
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