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    修行第十四風景


 今回の日本行き(3月16日〜4月1日)の目的の一つに、本格的な包丁の購入がありました。
 築地のプロ用の包丁店に行って、ニ本の包丁を買いました。一本は、刃渡り9寸(27cm)の柳葉で、もう一本は、5寸(15cm)の出刃です。
 帰豪後、さっそくこの柳葉包丁を使い始めています。27センチと言えば、家庭用や一般の柳葉包丁より一回り長く、ふつうの台所では長すぎて扱いに困りますが、つけ場では、このサイズが役立ちます。その刃の長さを生かし、一気に切ることができるのです。一方、出刃は、魚のおろしをさせてもらっていないので、今のところ店での出番はありません。
 この大ぶりの柳葉を使い始めての印象なのですが、以前、手が鋏となっている「ハサミ人間」とかという映画がありましたが、私の場合は、右手の先に包丁が生えてきたような、何か、包丁と手が一体となったような不思議な感覚が出来はじめています。
 この少々高価な包丁は、一見、一振りの日本刀のようなあやしい雰囲気を持っており、その切れ味はさすがです。刃厚も十分にあって重みもあるため、軽く引くだけでスゥーと切れてくれます。しかし、その刃は相手を選びませんので、うっかり指先などを刃に触れさせたりすると、たちどころに切られてしまいます。
 ところで、私が包丁で指を切る時は、たいがい、つけ場でお客さんの前に立っている時ではありません。つけ場にいるそうした営業時間中は、それなりに緊張しているためか、そうした失敗はあまりないのですが、一通りの時間が過ぎ、いざ片付けとなってほっと緊張が緩んだ時、手や指が勝手な動きを開始して、自ら痛い目に会うこととなります。そんな時は、自分でも、「危ない動きをしているな」と感じてはいるのですが、そう思いつつも、つぎの瞬間、もう失敗が起こってしまっているのが常です。つまり、刃が“稼働”状態にある時とない時とを、つねにきっちりと峻別できるようにならなければ本ものではない、ということなのでしょう。
  こうして、私の右手の先に長さ27センチの刃があり、常にものを切れる状態にあるような感覚が、徐々にではありますが体得されつつあります。この、わが右手に、恐ろしく鋭いものをいつも携えているという感覚。こんな感覚は、わが人生で初めての経験です。そして、いま、こうしてコンピューターに向かいキーボードをたたいている間でも、右手の“圏内”に左手をさらすことに、何か怖いような感覚がふと伴います。
 思うに、かつての武士たちは、その全身から、こうした畏怖ある雰囲気を放出していたのでしょう。

 一方、日本からもどって、私がつけ場に立つ日は、週三日と一気に拡大しています。休暇をとっている例の兄弟子の穴埋めもあるのですが、多忙な日本での日程を終え、夜行便で戻ったその日の午後から、またまた、このチャレンジの毎日に突入しています。
 ただ、三日連続となりますと、不慣れの連続できついのは確かですが、毎日の積み重ねもはっきりと現れ、以前のような、週一日しか体験できないという機会不足の悩みは明らかになくなっています。
 そうした中、営業をしつつの訓練は、先輩――といっても私よりうんと若い――からの注意や叱られの繰り返しとなります。というのも、訓練とはいえ、作ったものは商品として役立つものでなければならず、しかも、注文に合わせた断片的指示の連続で、時には、なぜ最初からもっとわかりやすく体系的に説明してくれないのかと憤慨したりもします。
 もちろん、これが職人の世界というもので、学校の授業ではない、実際の商売を継続しながらの教育、訓練です。その任にあたる先輩は、それだけの責任も自分なりの流儀もあり、その範囲での実行であるわけです。逆に言えば、こうしたある種の無秩序を、こちら側で受け止め整理し身につけなければならないという工夫が必要とされています。確かにこうしたやり方は、一見、不効率のようにも見えますが、本人の創意工夫が不可欠という意味で、独特、確実な方法かとも思えます。
 ともあれ、必要とされる技は、求められるさまざまな動作の、正確さと速さです。それが未熟なため、ことに多忙な時間帯にはどうしてもあわててしてしまうために、注意も手わざも十分に行き届かず、自分でも恥ずかしい出来具合になっていまうこともしばしばです。さすがに、作り直せとまでは言われませんが、お客さんから何かクレームが付いたりすると、自分のせいかと、思わずドキッとさせられたりもします。
 お客さんの面前で、いつもきびきびと、いかにもその道のプロらしい仕事をなしてゆくには、そうした創意工夫に加えて、何よりも、時間をかけた慣れが肝要なようです。
 そういう意味では、時が助けてくれるとは言えるのですが、私の計画では、残されているのは、あと、11ヶ月です。

 (2008年4月12日)

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