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修行第十九風景
先日、寿司バー (寿司のカウンター式の席を英語ではそう呼ぶ) に立つと、見かけぬ魚に気付きました。もう下してあり、切り身になっていたのですが、一見ハマチのようでありながら、その色がちがいます。そこで先輩にたずねると、
「天然のキングフィッシュですよ、日本でなら寒ブリかな。いい形でしたよ」 と、答えてくれました。
キングフィッシュとはハマチ(ブリ)の英語名です。つまり、それまで私が接していたのは、養殖もののハマチで、それがハマチの色や形と思ってきていたのですが、その日はじめて、本物のハマチに接したというわけでした。
そう言えば、何週間か前のことだったのですが、その日は私は休みでその機会を惜しくも逃したのですが、板長が釣ってきたというハマチの姿造りが、店の豪華なまかない食として出されたことがありました。彼が前日に、ボタニー湾にボートを出し、大漁だったことから、そのおこぼれにあずかったというわけでした。このボタニー湾は、ハーバーブリッジやオペラハウスのあるシドニー湾の南となりの湾で、東京でいえば相模湾とでも言いましょうか。シドニー空港が面している大きな入り江で、二百四十年前、キャプテン・クックが上陸した場所としても知られています。そこで、生きたイカを餌にして釣ったのだそうです
(ハマチは食通で、冷凍のイカでは絶対に釣れないそうです)。
彼もそうで、前の板長もそうでしたが、日本料理に長年に携わってきた人には、釣りを趣味にする人が多いようです。どうもその理由は、その仕事柄、魚の本当の味を知っているからです。前の板長も、自分の夢は、自分でボートを持ってその上で暮らし、毎日、自分で釣った本物の魚を食うことだ、と言ってました。今の板長も、何日か前、私が前日の刺身を使ってまかない食を用意していると、彼は
「俺のには、サーモンはいらんぞ」 と言うのです。養殖のサケは、脂臭くて食えないと言うのです。ハマチもサケも同じだとも言ってました。つまり、彼の舌には、養殖の餌として大量に与えられている、ことに脂身を増やす飼料のため、どちらの魚も同じ臭さがあるのだと言います。ということは、私はどうやら、その人工の味の方を、それらの魚の味として受け取ってきていたようなのです。
ところで、今でも尾を引いているアメリカ産牛肉の輸入について、人工飼料を原因とする狂牛病議論があります。考えて見れば、そのように、今日私たちが口にする、牛肉に限らず豚や鶏もみな、言うなれば牧場や養豚(鶏)場産という
「養殖」 ものです。そして、その人工的に飼育された動物の肉しか、もはや私たちの口には入らなくなっています。かくして、陸の自然は、海の自然よりはるか先に採り尽くされたため、肉はもう、その天然ものの味を知る人は居なくなっているとも言えましょう。そして、鹿肉など、今でも手に入る自然の味を、野生臭くてまずい、という始末です。
海についても、すでに相当種の魚の養殖が事業化されており、身の6、7割がトロという養殖マグロ――肥満マグロ!――が出始めていると聞きます。今に、あらゆる入り江や沿岸が、海の牧場として人工魚の生産基地と化してゆくのも、そう遠い将来のことではないように思われます。
私たちには、陸の食のそうした人工化の過程はすでに過去のことでしたが、いま、海の食については、その変化の過程をもろに目撃し、実体験しているわけです。
さて、そのようにして、その日、私は天然の 「オージー寒ブリ」 との初対面となったわけでしたが、営業の合間、先輩が、「はじめさん、試してみます?」
と言うので、その切り身を握ってそっと味わってみました。
するとどうでしょう、そこには違った魚の世界がありました。いままでのハマチの味ではない、歯ごたえはもっとこりこりとし、その色も霜降り風に白っぽく、その味も、あの粘りつくようなこてっとした脂身の味ではない、もっとさらっとした清涼感のある、トロっとしたうま味でした。
たしかに、一度この味を体験してしまうと、あの人工の味はいただけなくなります。
そうした時代に、私は寿司の修行をしています。はたして、こうした偽の味を握っていていいものなのか。私も釣りを趣味にするか、それとももっと徹底して、今度は漁師に入門しなくてはならない時がくるのかも知れません。
(2008年8月11日)
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