「両生空間」 もくじへ 
 「私共和国」 もくじへ
 HPへ戻る



    
    修行第二十風景


 私が修行への通勤に使っている自転車の距離計が9600kmを超え、この調子でゆけば、十月中にも、一万キロの大台中の大台に達しそうです。
 一万キロと言えば、オーストラリア大陸のほぼ一周の距離です。
 この大台達成を、数字として見れば 「ちりも積もれば山となる」 とでも表現可能なのですが、私の実感は、そうした数量的な大きさ感というより、もっと実質的な、何か失っていた何かを取り戻したといった大きさ感です。
 たとえばそれを時間という面でいうと、片道30分、往復一時間の通勤を、仮に車かバスで行ってきたとします。すると、この毎日の一時間は、言わば消費された時間で、それは、ガソリン代とか運賃とかといった出費への領収書以外にはほぼ何も残さなかったでしょう。ところが、私にとってのその一時間は、この今となっては、一種の生産あるいは創造の時間であったのではないかと思えてきているのです。ことに、個々の一時間ごとでは微々たるものでも、その累積された成果として、何らかの変化を生んでいるのです。
 その変化とは、まず、自分の身体としての力が増しましたし、健康度といったレベルもそうとう高まった実感があります。また、そうした肉体面のみならず、精神面としても、毎日の爽快度、意欲度が増進したのは確かです。一言でいえば、心身のスタミナが高まったことは疑いありません。でなければ、くそ忙しい週末のキッチンにあって、動きの面でも気力の面でも、若者たちをリードすることは不可能です。
 この違いを、心身の活動量をカロリー(熱量)で計るという方法で比較してみます。私の体重で自転車(20km/h)に乗ると、1時間で約610キロカロリー使います。車の運転では130キロカロリーですが所要時間が半分ほどですので65キロカロリーと、およそ10分の1です。また、身体が運動をしている時は、こうした筋肉が使う熱量ばかりでなく、身体がそのように連携を取って動けるよう、脳も活発に働いているはずですし、ことに坂道を登る時など、確かに強い気力のようなものも必要という、計測外の活動量もあります。つまり、それらを合わせた心身の総活動量が、自転車と車の場合、10対1であるということではないかと思います。
 第二は、そのようにして変化つまり 「生産」 あるいは 「創造」 されたものとは、一体、何だったかということです。それを一言でいえば、 「足で考える」 あるいは 「身体が思考する」 とでも表現できるような、心身のトータルな能力の実在感です。言いかえれば、そのように心身健康であることのすがすがしさ、気持の良さです。そして、結果的ながら、もし私がこの年にしてこの心身壮健のレベルの存在を知らないで過ごしていたと想像すると、その損失はちょっとやそっとの程度のことではないかと驚かされるそのギャップです。
 第三は、そうであるからこそ注目するのですが、これほどに収穫のある行為が、それが車であるにせよバスであるにせよ、容易な代行法が存在し、きわめてたやすく失なわれやすいことです。そこで私が考えさせられるのは、もしお金がなければ、この代行法は得られないこと、つまりそれらが商品であることです。むろん、今日の社会でその値段は大した額ではないのですが、そのようにして、容易に代行法が 「買える」 という今日の社会、つまり、商品社会というありようです。日常感覚レベルで言えば、そういう 「便利さ」 がそれだけの値段で獲得できるということです。私が今、この大台達成で発見していることは、確かに便利なこの商品社会において、私たちは、本来、失わなくてもよいものを、その 「便利さ」 という呪文にあやつられて、簡単に売り渡してしまっているのではないかということです。繰り返しますが、この方法は、お金がなくともできるのです。
 第四は念のためですが、私は、雨の日は、しぶしぶながらでも車かバスを使用します。雨中の自転車通勤による危険と、濡れることの健康上の心配があるからです。ともあれ、この代行法の便利さを完全否定はしていませんし、極論を説いているつもりもありません。そこでおこってくる議論は、たとえば毎日、車で通勤している人が、スポーツとして自転車乗りをしたとしても、その効果は同じではないか、という話です。確かに、運動そのものとしては、通勤だろうがスポーツだろうが、同じコースを走っているなら、効果に違いはないでしょう。ただ、スポーツの場合、車やバスによる通勤時間に加え、日常の生活時間の中に、それだけの時間を作り出さなければなりません。私も、当初、この自転車通勤を考えた理由もそれが難しくなったからだったのですが、時間を作るとは、他の生産の時間を削る、つまり、時間を買い戻すという関係におかれざるをえないことです。畢竟、スポーツにせよ、それも、一種の商品になっていることです。むろん自転車も最初は商品ですが、それを購入しただけでは何の役にも立たない、これほど不便な商品もありません。
 結論。一万キロの大台達成で発見したこと、それは、商品を買わないで自力で済ませることには、往々にして、その払わずに済んだ金銭価値を遥かに上回る、宝がある、ということです。言い換えれば、便利とかスポーツとかいう商品からでは本当に必要なものが得られないということです。自分の生活を、 《少商品化》 したら、という発想です。

 (2008年8月22日)

 「両生空間」 もくじへ 
 「私共和国」 もくじへ

 HPへ戻る
                  Copyright(C) Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします