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 第二期・両生学講座 第2回


近代日本の落とし子


 この第二期両生学講座の前回では、今連載中の 『相互邂逅』 が、両生学のテトラ化、つまり四次元化の試みであると述べました。
 そのようにして、この小説もどき著作を書き続け、そうして自分のいろいろな時期を振り返っているうちに、早くも、このテトラ化の一成果が現われました。
 それがタイトルの 「近代日本の落とし子」 で、その 「落とし子」 とは、私のことです。
 ただ、今の段階では、これは仮説レベルのもので、それを実証できるかどうかはまだ課題が幾つも残っています。そういう次第で、今回は、その着想の説明程度に終わらせるつもりです。
 
 この 「近代日本の」 というタイトル前半が意味することは、日本社会が本格的に近代資本主義体制に突入したということで、タイトル後半の 「落とし子」 とは、そういう社会が生み出した一生産物がこの私であるということです。
 もちろん、日本社会がそうした変化に突入したのは、私の生まれるはるか以前で、時期としては、西洋の影響をもろに受けるようになった、黒船の来航から明治維新にいたる、1850〜60年代の開国をその区切りとすることができましょう。
 そういう日本の変化が私とどう関係しているのかといえば、私の父方の祖先は、その開国当時は、下野は四街道あたりの下級武士だったようで、明治となってその武士業が廃止され、その流れから、私の祖父は生涯、職業軍人でありました。大正2年(1913年)生まれの父も、一時は陸軍士官学校入学を目指したようですが、その競争率の高さからだともらしていたことがあったように記憶していますが、その陸士入学をあきらめ一般の大学に入ったようです。そして卒業して民間企業に就職、つまり、もっとも早い世代のサラリーマンとなって、これも、もっとも早いケースの職場結婚をして母と結ばれたようです。母は亡くなる前、回想法の治療の中の思いで話として、 「丸の内の恋だったのよ」 と言っていました。つまり、そのように、父方では、代々、給与生活者であったわけです。
 母方では、曾祖父の代までは房総の貧しい百姓であったようですが、明治維新の混乱もあったのでしょう、若い祖父は故郷を去り東京に出てきて左官となり、事業の才があったようで、後に請負業を始めて人も雇うようになったようです。そうした請負業者の長女として母は大正7年(1918年)に京橋で生まれ、子供のころから、周囲に雇われ人の、母の言う 「小僧」 が幾人もいる中で育ったようです。そうした母が京橋高女に入り、その当時、女子が働きに出ることなどもってのほかであった中、親に隠れて、いまで言うアルバイトもしたようです。そうして働くようになったのが、父の勤める丸の内の会社でありました。
 以上のように、私の育った環境は、父母ともに、まず、農業という土地に結びついた生活からは、代々、縁が切れており、さらに、給与生活者あるいは事業者として、その生活基盤は近代的な経済と密接に結びついてきました。つまり、今日の日本の社会で、私は、三代にわたる給与(現金)収入生活者の子孫であり、そういう意味では、日本でもっとも資本主義的に――資本家側というより労働者側として――進んだ世代のひとりであったということができましょう。
 しかも、父の代では、勤務の都合による移動、つまり転勤が不可避で、私たち家族は数年ごとの引っ越しを余儀なくされていました。かくして、特定の土地との結び付きはおろか、定まった場所への定着も断たれた転勤族として、いわゆる故郷を持たない世代として私は育ちました。
 そういう私が、移動に伴うさまざまな違い、すなわち 《視差》 に敏感となるのも当然で、そうした視差をその創造の原動力とする両生学の基盤も、そういう背景にあったのではないかと構想しているものです。
 つまり、もし私に、この世代の平均的日本人として、なにか異質なものがあるとすれば、それは、こうした三代にわたる “先進的” 近代資本主義的生活の結果と言うべきで、そういう意味では、私はその落とし子どころか、鬼っ子であるかもしれません。
 そういう鬼っ子であるために、私は、ある企業に生涯の根を下ろすような生活に馴染めませんでしたし、気安く転職もし、そして、それなりに深刻でしたが、国を飛び出す決心もしえたのだと思います。
 ただ興味深いことは、そういう私であるがゆえ、子供のころに故郷というものにあこがれたように、定着する場所をもつ人や、そういう場所に、なんとも切ない思い入れを感じてしまう感性は持っています。そういう意味では、近代と前代の両方を股に掛けた特徴を負っているとも言えます。
 そういうことからなのかも知れませんが、ここオーストラリア、つまり、移民の国に長く生活していると、オージーたちのもつ、私以上の 《超‐移動性向》 に、どこか強く反発を感じてしまうところがあります。たとえば、オージーにとって場所への愛着とは、それは、日本でいう故郷意識とは似て非なるもので、その場所が環境としてもつ、美しさなり景観なり快適さなり生産性なり、いずれにしても、そういう物的価値の所有感に極めて近いものです。ですから、容易に売買可能ですし、簡単にそして合理的に移動もしてしまいます。農業にいそしんでいる人でも、その土地への定着さえ、祖先へとさかのぼろうとしても、最初の移民船のボタニー湾到着(1788年)以前へは遡上不可能なわけです。
 来年、修行を終えた暁で、その腕をたずさえ、アメリカ大陸探究の生活を始める計画ですが、そのアメリカも、歴史的にはオーストラリアと同質のものを持っているはずです。
 ともあれ、この両生学のテトラ発展は、かく、興味深いさまざまなテーマを発掘しはじめています。この先、一つひとつ取り組んで行くつもりです。

 (2008年9月14日)

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