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 第二期・両生学講座 第3回


移動性向


 前回で、オージーのもつ、 「超‐移動性向」 について触れました。
 まず、この 《移動性向》 とは、私の場合、父が企業のサラリーマンであったことから余儀なくされる 「転勤族」 としての私たち家族が身につけたような、特定の土地への非定着性からくる移動可塑性、いわば柔軟性のことをいいます。
 そうしたフレキシブルさは、特定の慣習やしきたり、方言、食べ物、そして独特の物の考え方等々といった、私たちに影響している地方性をいろいろ通過体験することにより、世界を見る際のある種の多様な視点を育てます。
 子供のころは、そうした体験はけっこう辛いことで、異質な外来者であるその体験者は、仲間外れにされたり、いじめられたり、笑われたりすることは日常茶飯事で、ですからそれを避けるために、土着への適応にことのほかのエネルギーを注ぐこととなり、ある種の感覚を育てることになります。
 ただ、そういう子供にとって、そうした移動は、親の必要によって生じる、いわば所与の環境で、自分の選択ではありません。それは、土地に拘束された前近代にはありえなかった、多分に人工的ながらも、近代的移動民に与えられる環境であり、その産物としての性向と言えます。

 私の父の場合、父の働く企業は日本国内企業でありましたので、その移動の範囲も、日本国内に限られていました。ですから、私に与えられた環境としてのそうした移動性は、国内的なもの、それも企業のオフィスがある日本の主要都市に限られていました。
 そういう私が日本を出国し、オーストラリアに住みついたのは、私にとっては自分の選択です。ですから、そこにはここでいう所与の環境といった条件はありません。ところが、そうした国際的な移動を、所与の環境としている人たちもいます。私がここオーストラリアで接した一部の人たちのことです。

 彼らは、私が当地で取り組みはじめた小さなビジネスコンサルタント業を通じて接するようになった人たちなのですが、そうした人たちは、多国籍企業といわれる国際的にビジネスを展開する企業に雇用されている、ことにその幹部クラスの人たちです。私が体験した 「転勤族」
といったセンスでいうと、この場合、 「国際的転勤族」 とでもいえるような人たちです。 
 最近でも、こんな経験がありました。以前から顧客であったオーストラリアのある大手建設会社がカナダ基盤のある多国籍企業に買収されたのですが、そうして、カナダから新たな役員が派遣されてきました。ある日、その人と初めての会合を持ったのですが、初対面ということで、互いの簡単な自己紹介があり、それにより、彼が子供のころ、日本にいたことが話題となりました。そこで私が日本のどこかと尋ねたところ、神戸の御影であるというのです。御影とは、僕が小学校のころに居た岡本と、住吉川を境に隣同士の地区です。そんな偶然の話ではあったのですが、そうしたちょっとした共有が、それ以外でもの共有に広がる気配があり、その人に何か近しいものを感じた次第でした。彼は、お父さんが国際的銀行に勤務していたための日本居住であったようですが、父親の転勤に伴って移動する家族の様子は、移動規模の違いはあれ、共通していたはずです。
 私はその彼に、ある清涼感を感じるのです。それは、おそらく、特定の土地や国に縛られない、また、企業という極めて合理的判断に支配された環境に馴染んできた――もちろん必要な教育も身につけた――スマートさ、そして、その親もまたそういう企業の幹部職員であったという経済的な裕福さからくる大様な立振舞いなどがもたらす、こだわりのない、見栄やけれんを感じさせない人となりが、そういう清涼感を与えているようです。むろん、その彼の人柄もあるのですが、それを包む一定の環境要因のもたらす影響も決して軽視はできないと思うのです。
 もし彼が、伝統的な有資産階級の子息であるなら、彼の身の振る舞いには、どこか傲慢で保守的なものがうかがえるはずです。また、もし彼が商家の息子なら、もっとすばしこい計算高さが滲みあふれているでしょう。また、もし彼が知識階級の生まれなら、ある種の厳格な思考枠への固執を表しているものと思われます。
 ともあれ、そうしたいずれでもない、一種開かれた、伸びのびとした世界を、そうした 「移動」 がもたらし、それによる産物を 《移動性向》 と見たいと思うのです。
 日本社会でも、いまや多くの日本企業が国際企業化し、そこに勤務する社員が国際的転勤をする例も少なくないはずです。
 つまり、人の自然な必要によるものではなく、勤務する企業の必要によって居住地までもが変えられる、そういう条件のもとに暮らし成長し、人格形成をする、そういう近代的ノーマッド人種があるということです。
 そういう人たちが身につけた傾向を 《移動性向》 と呼びたいと思います。

 ただ、私は、そういう道をあるところまで進みながら、そこで自分の選択を強くねじ込んでしまい、結果、そうしたルートからは外れることとなりました。
 それは、 「子は親の背を見て育つ」 とも言われるように、その 「背」 にある限界を見出したからではあります。そうではありますが、その親が与えてくれた、教育熱心で、保守性に縛られるほどの資産もなく、比較的自由なものの考え方は、今の私をもたらす重要な基盤となっていたのは間違いないと思っています。そして、そうした環境に育った結果として、いま、こうしてオーストラリアまでにやって来ています。
 そして、そういう私も、前回に述べたように、オージーや、ある意味で、多くの西洋人に見られる、根を失った、と私には受け止められる 「超‐移動性向」 には、ある種の行き過ぎたものを見出してしまっているのです。
 この、 「移動性向」 と 「超‐移動性向」 というぶれにはどういう意味があるのか。今回はその詳細には立ち入りませんが、そうした人為的、経済社会的、あるいは歴史的移動性を基盤として形成された私を含む人たちには、ある種の抽象性を自分の具体性にせざるをえないところがあるように思われます。

 (2008年9月29日)


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