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 私共和国 第7回



不思議な落ち着き


 ここのところ、メディアのどこを見ても、 「百年に一度」 とか、 「once-in-a-lifetime (一生に一度)」 といった表現が目につきます。
 確かに、 『シンス・イエスタデイ』 (筑摩書房)と題した、F.L.アレンというジャーナリストの残した1930年代のアメリカの記録を読むと、ラジオをテレビやインターネットにとか、国際連盟を国際連合にとかと読み替える必要はあるものの、金融市場のあこぎな増殖ぶりや、それが1929年9月3日に頂点に達した後の混乱の深さの様子は、昨年10月9日のピーク以後、今日、私たちが目撃してきている光景とそっくりです。
 だから、これは私の理解にすぎませんが、銀行業と証券業の分離とか、労働者の団結や団体交渉の保障などは、そうした経済的混乱が生んだ人類の体験的知恵の産物であったはずです。
 しかしながら、そうした苦く貴重な体験は、時の経過とともに忘れられ、あるいは意図的に無視され、そうした制限やバランス政策が、自由や規制撤廃の名のもとに取り払われ、同じ過ちをまた繰り返しているかに見受けられます。
 百年前 (正確には80年前ですが)、そうした株式市場の暴落の後は深刻な失業問題に発展し、さらにその後に、二度目の世界大戦を経験したのは、歴史に残された過酷な足跡です。
 今回の混乱が、そこまでに至るか否かについては、悲観論、楽観論さまざまですが、今日15日現在、各国の株価は記録的な復活を見せており、底入れの声すらきこえています。しかし、これで一気に回復に向かうと見るのは早計でしょう。今後も乱高下を繰り返しながら、おそらく、数年をもって、ようやくの回復の基調に乗るのだと思います。

 これは個人的体験に過ぎないのですが、私はこれまで、株式市場を含むお金の世界に、一連のうさんくささを感じ、その影響から、もちろんゼロには絶対なれないのですが、できるだけ距離を置く、自分の生活方法を組み立ててきたつもりです。
 ことに、近年のお金至上主義とでもいえる、金融上の手練手管で収入を上げる生活スタイルのはびこりには、ある種の嫌悪も感じてきました。
 たとえば、ここオーストラリアでは、ある種の賢い生き方として、 「ファイナンシャル・フリー」 といったことに焦点が当てられ、生真面目に働く姿を 「ネズミ生活」 と呼んで見下げる風潮が生まれています。そうした人々に言わせれば、お金に働かせて自分は働かない、そういう 「自由」 を得ることが、一種のゴールのように見られる価値観があります。
 たしかに、お金がお金を産むのは事実ですが、その追求あるいは最大化が、テクニカルな観点ならともかく、あたかも人生の目標であるかのごとく採り上げられ、それなしでは安泰な老後も送れないかの受け止め方も広がっています。そして、そうした喧伝に揺さぶられて、堅実な退職者も、知らずしらずのうちに、そうした、虚構とは言わずとも、危険と裏腹の世界に巻き込まれてきています。
 もちろん、人生に冒険はつきものですが、危険をものともしないで挑戦する、その決断の対象が、そもそも根本的に違っているのではないのかと思わされます。単なる方法上の危険の選択を、目標上の選択に代わって、押し付けられているのではないか。
 そうしたすり替わった冒険の饗宴の結果に至ったのが、今日の巨大な “二日酔い” のように見受けられます。
 
 そのような、負わずでも済むリスクを遠ざけ、負うべき危険を見据える心構えを持とうとする時、世界を騒がすこうした喧噪も少しも気にならず、不思議な落ち着きにひたれるところがあります。

 (2008年10月15日)

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