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連載
僕は今、初老の彼方から、36年前の、新婚5ヶ月目に生じていた、僕のノート付けの習慣の中断を発見し、それを考えている。
ノートが存在するならば、それは饒舌にその当時の様子がそこに残されており、それから当時を解釈するのはさほど困難なことではない。だが、これはその中断であり、それは、沈黙以外に何も語ってくれない。無の意味を探らなくてはならない。
そしてその中断は、その4ヶ月後、かろうじて終了してノートが再開されるのだが、それはそれまでの大学ノートへの記入としてではなく、携帯式の小型ノートへのそれとしてである。
こうした中断や、その変形した再開は、いったい何を物語っているのだろうか。
1972年の夏のころ、彼女の健康への変化がおこり始め、それが月日を経るに従って、じわじわと重篤化していた。その際の僕の心中、誰にも告白できぬ思い、僕だけしか知らぬ世界は、四十年近くをへた今となっても、記憶としてもはっきりと残っている。そういう明瞭な記憶と対比させながら、こうして古い記録を改めて注意深く読んでみるのだが、再開された小型ノートのそれにも、僕の記憶に明らかなそうした秘された思いは、片鱗も表わされていない。
どうも変なので、それは僕の時期についての記憶違いで、同じ夏でも次の年のことではないかといぶかり、そういう前提で、ノート類を読み直してみるのだが、それではなおさら辻褄が合わない。
残されている他の資料からしても、やはり、その健康上の変化は、結婚後半年ほどでおこったことは間違いないと結論を下さざるを得ない。
そこで改めて、ノートの中断とその再開を考え直してみるのだが、まず、少なくともその中断には、この健康上の問題以前の、もっとデリケートな二人暮らしの問題が潜んでいそうだ。
たとえば、小型ノートに記された、こんなメモが読める。
- ぼくが机に向って文字を追っている時、その横で彼女が手持ぶさた気にぽつりと座っている対称は、そのぼくの気持ちを奇妙に不安定なものへと導く。六畳一間のアパート暮らしのぼくらには、書斎でゆっくりと本の頁をくるなどといった条件のよい自分と自分たちの時間は得られない。ことに仕事後の帰りがぼくの方が早く、すでに机に向かったぼくの時間ができたころ、あとで帰宅した彼女が、ゆっくりとくつろぎたい、いこいの場としたい、そうした六畳とはなっていない夜など、そうした不安定はひとつのピークをなしてくる。
つまり、六畳一間という狭い空間を二人して占めている時、そこで一人が自分の世界に閉じこもってノートに向かうというのは、他方にしてみれば一種の無視であり、取りようによっては背信行為とも受け止められる。むろん、それが習慣とわかっていても、仕事に疲れて憩いがほしい時、他方が何かへの没頭をしている時、一人テレビを見てくつろぐとの行いもはばかれ、いどころのない思いにさらされよう。そうした時は、互いに共通であれることをし、共有し合うお互いになるべきなのだ。
それに、僕らにとって、こうしたノートの存在は公然の秘密で、時には読んでもらったり、あるいは、書きっぱなしのノートが机の上に放置されたままになっていたりして、その中身についても、相手の目に触れることや、少なくともその可能性は前提となっていた。つまり、自分の独白ではあっても、それでも書けない世界が別に存在していた。
だから、ノートの中断は、住宅事情からのそうした相手への配慮からのようだし、小型ノートの登場は、電車の中でも、仕事場での休憩中でも、自宅外で思いついた時に書き込める、そうした便宜さのゆえだったのだろう。
だが、そうでありながらも、73年4月18日から、従来形式のノートが本格的に再開されている。これはなぜなのか。そればかりか、その 「No 10」
のノートを開いてみて、とっさに目に飛び込んでくるのは、その最初のページから、おそらくその行為の実行日だろう、9月18日までのノートのいちいちのページに、赤々と書きこまれた、紙面全面への大きなバツ印である。あたかも、その記入全体を否定しようとの狙いかのように見える。
いまとなっては、その “攻撃的” 行為が行われた直接のきっかけは思い出せないが、何かの思いが彼女をいたたまれなくさせ、それが限界をこえて爆発し、ぼくのノート――そう、そうやって公然と再開されたノート――に向かって、そのようにぶつけられていた。それもそのはず、もうその頃には、その悪化する症状からくる彼女の心身上の苦痛は限度レベルに達していたはずだし、僕の方も、そうした苦しむ身内をかかえて、自分をなんとかしっかり保たせるためにも、そうした自分の場を必要としていた。さもないと
「共倒れになる」 との危機感すら抱いていた。それが、その再開の意味だろうと推測する。
つまり、中断の開始は六畳一間がその原因だったのだろうが、その本格的再開を必要としたのは、ただひとりの身内を襲う健康上の変化が、いわば、自分の再武装を求めていたためであろう。それなくして、自分も潰れてしまうと考えたのだろう。
ともあれ、残されたノートは、第三者の目には不親切だ。自分だけにわかる内部符丁でつづられているようなところがある。たとえ、同じ僕同士であっても。
その、僕らの新婚生活を脅かしはじめた健康上の変化とは、彼女をむしばみはじめた異様な症状が発端だった。
それはまず、手に取ったものを落して壊してしまうという現象から始まった。本人に言わせれば、ちゃんととつかんだはずなのに、手に力が入らないで、ポトンとおとしてしまうという。ことに、台所で食器をあつかっている時、それがおこって物音をたてた。
そしてまもなく、背中が痛いと言い始めた。そして、その痛みは、背中だけでなく、肩から首や腕にも広がっているという。また、その痛みは、背中に鉛の板を張り付けられたような、重く冷たい痛みであるという。そしてついには、その痛みのため、夜もよく眠れないと訴えるようになった。季節は夏に向かっているのに、本人は寒い、寒いといって厚着をしていた。
それは、後に、その正体は判明するのであるが、僕たちにはそれが何か知る由もない、当時の電話交換手やコンピューターのキーパンチャーらを罹患させていた職業病であった。当時、時代の奔流となっていたコンピューターの導入が、それまでの産業と労働環境を激変させていた。彼女の職場でも、それまでの、手動あるいは機械式交換機を使っていた労働を根底からくつがえし、高能率化と緻密化をとげる労働とそれによって新たに発生してきたストレスにさらされて、まだうら若き女性たちの体からその貴重な健康を奪っていた。ことに、その肉体的痛みばかりか、周囲にわかってもらえない、時には医者すらからも仮病扱いされる精神的苦難に耐えきれず、自ら命を絶つ娘たちも少なくなかった。やがてその職業病は、
「頸肩腕症候群」 と呼ばれるようになった。これは、読んで字の如く、とくに原因には言及しない、症状が現れる部位のみを羅列した名称であった。
つづく
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