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私共和国 第10回
この 「知価社会」 という言葉を、私は堺屋太一の文章から借りました。彼の言う意味は、たとえば、 『近代工業社会が今度こそ終わった―― 「ドル支配」
終焉後を読む――』 (中央公論 2008年12月号) でいうと、以下のようになります。
今度のサブプライムローン問題に端を発したアメリカの不況は、その脱出にこの先三年は要し、 「そしてその後では、生産力に見合った消費をする均衡経済に戻るでしょう。借り手拡大によって、増加するペーパーマネーの需給を均衡させるのではない、新しい均衡経済を構築していくことが必要です。/その過程で、近代工業社会の残渣は完全に消えるに違いありません。今からの1000日間は工業化社会の
“終わりの終わり” なのです。/2011年頃に現れるのは、まったき 『知価社会』 でしょう。すなわち、従来の物財が豊富であることが幸せと信じた社会から、満足の大きいことこそが幸せと考える世の中に、変貌を遂げるわけです。物財の多寡が客観的で科学的なのに対して、満足の大小というのは主観的で社会的です。そうした
『社会主観』 に依存した世界が定着することでしょう。」
私も先の 「「産地偽装」 あれこれ」 の最後に、 「ひょっとすると、このアメリカ発の世界経済システムの危機を変曲点として、世界は 《背-グローバル化》――ある種の非-《お金化》
とローカル志向、そして国際政治的にはブロック(多極)化――に向い始めるのではないでしょうか。」 と書きました。
彼は新たな時代の到来を予言し、私はそれを予感しているのですが、ともあれ、そういう、今とは違った社会が到来するとしますと、その中身は何なのでしょう。
私はそれを、まず、それでも、一方でのお金の君臨は決して弱まらず、また、そういう新味な社会になったからといって、いわゆる平等で貧富の差のないフェアーな社会になるのであろような、そうした歓迎できる変化をもたらすものでもないと確信します。
結論を急げば、それはむしろ、新手の 「偽装」 の登場ともいうべきもので、今日までの日本の工業化社会の 「偽装」 が物品の産地や品質のそれであり、他方、アメリカのそれが金融社会におけるグローバル
「偽装」 であったように、今度やってくるそれは、さらに抽象化された価値にまつわる 「満足」 にかかわるものになると思われます。むろん、その変化は目先のもので、そうした
「偽装」 を必需とする社会構造の本質――支配と搾取――は維持されてゆくでしょう。というより、その維持のため、そうしたリニューアルが必要なのでしょう。
ところで、そうした、堺屋の言う 「社会主観」 に左右される時代の到来は、すでに、ある世界では始まっています。それがたとえば 「唯脳論」 潮流である、と私は見ます。つまり、世界はすべて、脳に映じた幻影=主観である、とする思潮です。それは結局、これまでの個人間の違いという論調を、脳間の違いと言いかえるもので、舞台に少々変化はあるものの、中味に本質的な変化はないものでしょう。
時代の権威が、この脳の時代をどう操作してゆくのかは見ものですが、どうも私の脳は、それでもなお、私をめぐる現実を反映したプロレタリアートであるしかない構造のようだし、気持としても、そうありたいと願っています。
(2008年11月23日)
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