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私共和国 第11回
前回、 「知価社会」 という言葉を堺屋太一から拝借して使いましたが、どうもそういう言葉にあるうさんくささを感じ、一種のパロディーの意味も含めて、タイトルのように、
「体価社会」 という用語を新造します。
「体価」 とは、健やかな身体のもつ価値ということで、むろん、そうした健全なる身体にやどる健全なる精神も含みます。つまり、どんなに立派な知性であろうとも、身体なくしてその知性存立の源はありえません。
確かに、商品のレベルではすでに物品への魅力はうすれ始めており、欲しいもの、買いたいものがない時代に入りつつあります。そして、それに加わる今日の世界同時不況は、必要なものへの需要をも収縮させています。そうした折、
「知価社会」 という主張は近代を特徴つけてきた工業社会が完全に終わり、その後の社会は、魅力を薄れさせた物財にではなく、知や情報を価値とした主観的満足が主体となるとの見解です。
そこでですが、もし、本当に人々が自分のそうした満足を追求しはじめたとするなら、これまで、物財への欲求のため、自分を殺し自分を商品化して働いてきたプロセスにも、当然、見直しが始まるものと思われます。どうして自分の満足が問題なのに、自分を殺し自分を商品にして働くという考えを受け入れられるのでしょうか。きっと、そうした満足への欲求の移行は、どうしても、自分を生かし、主観的満足の主である自分性へのこだわりやその掘り起こしに向かわざるを得ないと思われます。その際に最終的に行きつくのは、そういう自分の根拠となっている自分の身体性のはずです。
これまで、リタイアメントと言えば、そうした近代工業社会を前提に、現役の生産する物財の余剰を、自分のそれか、次世代のそれかの違いはあれ、ともあれ蓄積して、それを退職後に利用するとの年金システムを基盤としてきました。
そうした年金システムが、ただ、世界的不況による株価の下落のみならず、その回復後に予想される微成長、あるいは無成長社会時代にあっては、働かない大きな人口を支える生産性の維持は困難になるでしょう。つまり、今日言われているような――自国か、それがだめなら世界のどこかの低物価国にでも移住した、ともあれ
“悠々自適” 生活を想定した――リタイアメント生活自体が、もはやありえなくなってゆくことを意味します。実際、すでにじわじわと、退職後も何らかの形で仕事を続ける、リタイアなきリタイア生活が常識化――花のリタイア生活の逃げ水現象化――しています。
つまり、近代工業社会の終了とは、年金に裏付けられたリタイア制度の終了でもあり、人間、生きている限り、何らかの働きを続けるという社会の到来です。
そうした永働社会にあっては、ますます、体が資本の鉄則は生きてくるでしょうし、その体を健康に維持することがが、近代工業社会で貯蓄が必要だったように、必要となってきます。
つまり、健康ではつらつとし、意欲あふれる生活を、若い時代はもちろん、年がいっても一生涯続けてゆけるような、そうした社会、それが 「体価社会」
です。もちろん、それは極めて知的な社会のはずです。
その社会では、リタイアメントはありえず、あるいは、ゆりかごから墓場まで、いつもがリタイアメント生活かもしれません。
(2008年12月14日)
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