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連載
当時の僕は、ある種の過敏現象と思うのだが、何かにつけて、自分の周囲の人々を、敵、味方に分けて見ないではいられなかった。僕が書いた 『病院断章』
も、そこで接した医師に、もろに敵意をぶつけている自分を描いている。そういう自分をヒーロー視している。
もちろん、病んだ妻をなんとか回復させたいのは第一の願望であり、必要であるはずなのだが、それを後回しにしている積りはないものの、そうした権威や権力への反発はおろか、その化けの皮を剥ぐことに使命感を燃やしているようなところがあった。まるで
「一人一殺」 の心境の如くだ。
ともあれその頃、僕は、他人、ことに年長者に対し、深い不信感を抱いており、彼らの言うことに貸す耳を持たないどころか、人間同士であるとすら思わないかの烙印を押していた。当然、そうした人生経験者たちが深い蘊蓄をたくわえているなどとは、文字の上では知っていたものの、この世の話とは信じておらず、
「蘊蓄」 という言葉にすら、どこか薄汚れた印象さえ持っていた。
だから、もし、その頃の僕が、今の僕と出会っていたとしても、きっと若き僕は、老いた僕をほとんど無視したに違いない。無視どころか、その一見から、老いた僕は、はなから毛嫌いの対象としかされなかったに違いない。それに、思い出そうとしても、そうしたことがあったという記憶もないのだが、年かさの人から親しげに近寄られたという経験もない。ひょっとすると、さわり程度のその幾つかはあったのかも知れないが、僕の方からの頑くなな姿勢がそれ以上の発展を妨げてしまっていたのかも知れぬ。今になって思えば、叔父からの申し出も、そうしたアプローチのひとつだったのだろうが、僕はすげなく断ってしまっていた。
また、当時の僕にとって、日々接する時間は、少なくとも受け止める主観の上では、そうした味の悪い疎外ごとばかりの連続で、そこから何かが得られるというような受容の世界ではなかった。しいて言っても、それは反面教師とすべき、反転した、あるいはねじれた対象であった。だから、刻々とおとずれる時間が、自分にとっての味方とは決して思えず、時間は敵で、年をとりたくはなかった。ゆえに、楽しい時とは、現在を共有する同年齢の仲間たちと過ごしている時のみで、その同朋意識は並大抵のものではなかったろう。つまり、
「時間が味方」 などとは、ようやくこのごろになって到達出来てきた心境で、それこそ、時間が作りだしたものである。言い換えれば、若き時代の、そうした逆説的な経験があってのゆえのものかも知れない。
だが、そうした隔たった二人の僕の間をつなぐ、確かな接点がある。それは、僕のノートのなかに発見した4ページにわたる記述に見出せる。それは、 「夢」 という特異なテーマについて、それとの時をまたいだ取り組みである。僕は今になっては、その、 「夢」 の持つ役割について、脳科学的にもかなり進んだ理解をすることができるようになった。それは、長年にわたる自分の体験にも基づいている。しかし当時、僕はまるで無知な白紙状態であったと言えるのだが、今から見れば、このテーマにかなり正確に焦点をあてている。
いうなれば、ここにその 「夢」 という名称の長いトンネルがあったとすると、僕はいま、その入口と出口の両方に同時に立つ体験を味わっている。そうして、ノートにあるその
「入口」 側での認識は次のようであった。74年1月4日との日付のある未明、夢を見ていたその夢が、突然に中断される描写からそれは始まっている。
- 耳に、大勢の人々の声が聞こえている時だった。そのシーンが突如、破られた。
異質の意味が僕を強く動揺させて、それはまるで異国語の理解による、新しい別種の経験のおどろきのような、何かの基軸に変換が生じた、位相の逆転が到来していた。
枕もとの妻のしかけたメザマシ時計のけたたましい音の膜が、その変換の境界を形成して、僕をもうひとつの意味の世界によびもどしていた。
目覚めによって、僕は眠りにつく。
現実に覚醒することによって、意識においては睡眠する。
僕は必死になって急激に薄れつつある夢からの残像を追う。そこに意味され、その意味によってのた打ち回っていた僕の僕たるものを、せめて、現実の、こちら側の世界での言葉に翻訳しておこうと思ってノートする。
それは確かに実体だったのだ。メザマシ時計というあらゆる非情を機械化したような残酷の執行命令以前の “おきている” 時、僕は何かを感覚していたのだ。
そのひとつの恐れの感覚が、置き去られた遺失物のように現実の側のほとんど閉じられんばかりの意識の中に残されていた。それはあまりに無関係にそこにあるのみだ。異国語の中の自国語のように、そしてまたその逆のように、ただ、ポツンと置き忘れられて行っていた。
もうすっかりと僕の意識は眠りきってしまった。
朝があわただしく活動をはじめ、それら弱々しく淡きものは、夜の後退と歩調を同じくして消失していってしまった。
僕はその恐れの感覚のみを手がかりに、去っていった世界の探索をはじめる。
僕は昨夜、眠りにつく前の数時間を二人の友人との会話に費やしていた。三人は酒を飲みつつ、思いおもいに杯を傾け、そして話をした。
僕と一人はよく話した。しかしもう一人の友人は、終始、寡黙だった。そして数少ない会話のうちにポツリと言った。あと数ヶ月のうちに、彼は彼の子供を持つだろうこと、そしてその為に、あらゆる現実をその方向にむけねばならぬだろう、と。
その時、彼の言った意味は、僕にこれほどの恐れの感覚をよびさましはしなかった。しかし、眠りと、饒舌であった長い夢を経験してきた今、僕は確かに昨夜の僕ではないのだ。そして、僕は忘れ去っていた、少なくともその体験としての内実は記憶の外であったものを、こうしてよびさまされている。
自分の子供ができたと宣告されること。それは何と異質な体験だったことか。
それは、他人によって、他人におこった事実変化として、僕に報告されることだった。僕に、それによる実質的な変化は何もおこっていないにも拘わらず、しかし、僕はそれらすべての変化に少なくとも道義上の責任はあるのだ。
あの思いつめ、やせ細った決意の実質は何であったのだろうか。僕にとって、あれほど孤独を意識した決心はなかった。ひとつひとつ積み上げられてきた価値の堆積が、その宣言を境にして、まるで無意味を形成してしまう。しかもその無意味は、みずからが求めてそう欲した構造を持っているのだ。
僕は一種異様な恐怖の意識にとらわれるしかなかった。肉体的な身を震わせるという恐怖とは本質的に異質な非身体的な恐怖である。
肉体的にこれほど健康なことはないだろう。しかしそれが健康で、そして全く自然でもあるがゆえに、それほどにも恐ろしい感覚。それによってあえての精神的去勢を受けるような。
僕は今、夢を思い出すような気持ちで、その恐怖の体験を再現しようと試みている。そしてその作業が、二つの言語間の翻訳作業にも似ているように思っている。
その時の恐怖が夢の中の恐ろしさと同じものであると言ってしまうのはあまりにも非現実的であろうか。しかし単なるレトリックとしてではなく、夢を現実的に考えた上で、夢という言葉は現実的無意味の代名詞のように考えられている。
今、それらの正負関係を逆転はできないだろうか。少なくとも人間構造の上で、この逆転関係はあながちの思いつきに終わらないだろう。現実的に目覚めている世界が、意識的には眠っている世界であり、目覚めの世界での意識作用は、意識の世界への夢であり、二つの世界間の変換作用として、そのパイプ役を果たしているものこそ夢であり、その言葉であること。
このノートは、急いで書かれたためか、乱雑な字でつづられている。それをこうして読み解きながら、夢をめぐるこのトンネルの入口と、そして現在というその出口を体験している。この両者間には、およそ34年間の隔たりがある。その隔たりを越えて、僕をつなげるものがある。それが夢というテーマでなのである。
僕は、僕自身が、それほどの長きにわたって、同じテーマがかく追跡されていたことの発見に驚かされると同時に、その大きな時間的隔たりにも拘わらず、そのとらえ方の質が均質であること、そして当時でもすでに極めて精密に視点を定めてていたことにさらに驚かされる。そして、夢は言葉である、という。言い換えれば、夢を見るとは、そういう言葉を聞くということであるという。僕は確かに、長きにわたって、それを聞いてきた。つまり、このテーマの質は、時間的隔たりを越えた普遍的と言ってもよい質にもなっている。
つづく
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