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 連載

相互邂逅


15

 当時の僕は、ある種の過敏現象と思うのだが、何かにつけて、自分の周囲の人々を、敵、味方に分けて見ないではいられなかった。僕が書いた 『病院断章』 も、そこで接した医師に、もろに敵意をぶつけている自分を描いている。そういう自分をヒーロー視している。
 もちろん、病んだ妻をなんとか回復させたいのは第一の願望であり、必要であるはずなのだが、それを後回しにしている積りはないものの、そうした権威や権力への反発はおろか、その化けの皮を剥ぐことに使命感を燃やしているようなところがあった。まるで 「一人一殺」 の心境の如くだ。
 ともあれその頃、僕は、他人、ことに年長者に対し、深い不信感を抱いており、彼らの言うことに貸す耳を持たないどころか、人間同士であるとすら思わないかの烙印を押していた。当然、そうした人生経験者たちが深い蘊蓄をたくわえているなどとは、文字の上では知っていたものの、この世の話とは信じておらず、 「蘊蓄」 という言葉にすら、どこか薄汚れた印象さえ持っていた。
 だから、もし、その頃の僕が、今の僕と出会っていたとしても、きっと若き僕は、老いた僕をほとんど無視したに違いない。無視どころか、その一見から、老いた僕は、はなから毛嫌いの対象としかされなかったに違いない。それに、思い出そうとしても、そうしたことがあったという記憶もないのだが、年かさの人から親しげに近寄られたという経験もない。ひょっとすると、さわり程度のその幾つかはあったのかも知れないが、僕の方からの頑くなな姿勢がそれ以上の発展を妨げてしまっていたのかも知れぬ。今になって思えば、叔父からの申し出も、そうしたアプローチのひとつだったのだろうが、僕はすげなく断ってしまっていた。
 また、当時の僕にとって、日々接する時間は、少なくとも受け止める主観の上では、そうした味の悪い疎外ごとばかりの連続で、そこから何かが得られるというような受容の世界ではなかった。しいて言っても、それは反面教師とすべき、反転した、あるいはねじれた対象であった。だから、刻々とおとずれる時間が、自分にとっての味方とは決して思えず、時間は敵で、年をとりたくはなかった。ゆえに、楽しい時とは、現在を共有する同年齢の仲間たちと過ごしている時のみで、その同朋意識は並大抵のものではなかったろう。つまり、 「時間が味方」 などとは、ようやくこのごろになって到達出来てきた心境で、それこそ、時間が作りだしたものである。言い換えれば、若き時代の、そうした逆説的な経験があってのゆえのものかも知れない。

 だが、そうした隔たった二人の僕の間をつなぐ、確かな接点がある。それは、僕のノートのなかに発見した4ページにわたる記述に見出せる。それは、 「」 という特異なテーマについて、それとの時をまたいだ取り組みである。僕は今になっては、その、 「」 の持つ役割について、脳科学的にもかなり進んだ理解をすることができるようになった。それは、長年にわたる自分の体験にも基づいている。しかし当時、僕はまるで無知な白紙状態であったと言えるのだが、今から見れば、このテーマにかなり正確に焦点をあてている。
 いうなれば、ここにその 「夢」 という名称の長いトンネルがあったとすると、僕はいま、その入口と出口の両方に同時に立つ体験を味わっている。そうして、ノートにあるその 「入口」 側での認識は次のようであった。74年1月4日との日付のある未明、夢を見ていたその夢が、突然に中断される描写からそれは始まっている。
 このノートは、急いで書かれたためか、乱雑な字でつづられている。それをこうして読み解きながら、夢をめぐるこのトンネルの入口と、そして現在というその出口を体験している。この両者間には、およそ34年間の隔たりがある。その隔たりを越えて、僕をつなげるものがある。それが夢というテーマでなのである。
 僕は、僕自身が、それほどの長きにわたって、同じテーマがかく追跡されていたことの発見に驚かされると同時に、その大きな時間的隔たりにも拘わらず、そのとらえ方の質が均質であること、そして当時でもすでに極めて精密に視点を定めてていたことにさらに驚かされる。そして、夢は言葉である、という。言い換えれば、夢を見るとは、そういう言葉を聞くということであるという。僕は確かに、長きにわたって、それを聞いてきた。つまり、このテーマの質は、時間的隔たりを越えた普遍的と言ってもよい質にもなっている。

 
つづく
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