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 連載

相互邂逅


18

 僕がその組合で最初に手がけた仕事は、組合員向け機関紙の編集であった。その組合は、時代の建設ブームを反映し、業界ともども急速に伸びていた。また、そうして強まる団結力をベースに、組合員の賃金も目覚ましく上昇し、以前の三年間でほぼ倍増となる急成長を獲得していた。そうした勢いに乗り、その機関紙の月刊化が目標として掲げられ、その実作業を引き受ける人材が必要とされていた。同業界出身で、しかも文章への関心も見せる僕は、いわばそうした役目には打って付けだったようだ。
 仕事の傍ら、編集者としての技量を磨くため、僕は、機関紙編集学校に通わせてもらう機会も得た。そこで受講者は、いかに易しく短く文章を書くかの技術を徹底して教え込まれた。学校の講師はこう力説していた。「君たちの書いた記事を読む人たちのことを考えなさい。彼らは、一日の仕事を終えた疲れた頭と目で、それでも君たちの文章を読もうとしてくれている。それが読みずらい、長ったらしく説教くさい文章なら、一目でゴミ箱行きだ」。そして、新聞記事は、頭で書くのではなく、足で書くのだ、という生きた取材の大事さも教えていた。
 この仕事に着いて数ヶ月後、開催された同組合の定期大会で、僕は事務局次長に選任され、僕の役目に、さらに 「労働安全衛生」 が加わった。この職務は、僕にとっては、妻の職業病に関わった体験から他人事の分野ではなかった。それに加え、今度は、労働組合役職者向けの労働安全衛生講座に通う機会も与えられ、この分野についての体系的知識を身につけることができた。そうして僕は、その被害者側の痛みや悩みも知る、いわばこの道の特異な専門家になろうとしていた。
 そうしてこの分野の全体的な視野が得られ始めると、僕は、漠然としたものではありながら、ある考えを持つに至った。それは、職業病や業務上災害というものが、歴史的に見ると、初期段階では事故や過失に伴う負傷として、言わば純粋に身体的なものとして始まり、それが、産業の発達につれ、化学薬品などの使用とともに、中毒や病気として現われるように変化し、さらに、生産が精神労働化するに従い、その病気が身体的病気からストレスなどによる心身的病気へと変質する傾向があった。そして、ここから先は僕の推測であったのだが、職業性の疾病は、現代のような高度に管理された職場環境、ことに精神労働の環境では、むしろ純粋な精神疾患として発生してくるのではないか、という仮説であった。この説には、妻の病気の体験からくる実感も反映されており、妻の場合は、その身体性と精神性の中間に位置する、ストレスによる心身疾患の段階である考えられた。

 そうして、その仕事に着いて3年目に入った夏のことだった。7月の暑い日の午前、組合の事務所に一本の電話が入った。組合員の一人が事故で重傷を負ったので、手術のための献血者を数人手配してほしいとの知らせだった。手配は直ちに整い、輸血をともなう手術は成功し、その組合員は命をとりとめた。しかし、彼は両足を大腿部から失うという極めて重い障害を負ってしまっていた。警察からの情報では、彼は、通勤の途上、進入してきた電車にホームから飛び込んだと言うことだった。警察はそれを自殺未遂行為と断定していた。一方、その彼の属す企業別組合の役員からの情報では、彼はそれまで、うつ病により数ヶ月間入院治療し、その日は、職場復帰をめざし、通勤訓練を始めていた矢先のことだったという。
 その報告を聞いた時のことだった。僕の脳裏にある直観が走った。これこそ、僕の仮説のまさに実例なのではないか。
 安全衛生担当の役員として、僕はさっそく、その企業別組合の役員を中心にこのケースを精査するチームを組織し、その真相の究明に乗り出した。
 さほどの日数を要することもなく、その役員たちは、彼がうつ病を発生する前、極めて過重な仕事上の負担を負っていたとの報告をあげてきた。彼は東北新幹線の上野地下駅の設計をその実務チーフとして担っていた。どうやら、彼の自殺未遂は外見上だけで、実はそれは、職業病として発症したうつ病に伴う症状のひとつではなかったのか――僕はこのケースに、そう、さらなる仮説を付け加えた。弁護士に相談すると、もし、このケースが業務上災害として認定されるならば、それは、自殺未遂事件が労災として認められる全国でも初のケースで、労災史にのこる事例となるだろうとの話であった。
 通常、こうした慣例をくつがえす新事例を築くには、行政ならびに司法機関の度重なる手続きをへる、最低でも十年の歳月は要する、実に長期にわたる取り組みとなるというのがその道の常識であった。
 僕は、事務局長に、組織としてこのケースに取り組むべきだと彼の判断を求めた。彼はこう言った。
 「成功するかどうか判らないが、全国初のケースに挑戦するロマンはいい。やってみよう。」 
 そしてそのゴールは、このケースを業務上災害と認定させ、国による補償をその被災者のために獲得することであった。
 こうして、僕を実務リーダーとして、この労災問題の対策委員会が発足し、組合大会の承認もうけて、八千人の組織をあげての運動が動き始めた。1979年9月のことだった。当時、僕はこの運動が、確かに大きな課題に向かっているのだとは認識していたが、どこか楽観的でいた。だが、他の役員から、「これは松崎さんのライフワークですね」 と指摘され、改めて問題の重大さを教えられもした。確かに、もし、十年以上も要する仕事だとすると、そう呼ぶにふさわしい、まさに人生上の大仕事だった。

 それまでの僕は、職業としての仕事に、常に燃焼しきれない空々しさを抱いてきていた。しかし、こうして始まったことに新たで重要な仕事は、それが 「ライフワーク」 になるかどうかはともかく、僕を心中から没頭させた。僕はまさに、水を得た魚のように、特殊な責務ながら、そう、社会との具体的接点を獲得していた。
 ところで、僕がそのように仕事を再開したことに、僕の母などは、内心は安堵していながら、それが労働組合の仕事であることには不満で、親戚などにはそのことを隠していた。母にとっては、社会の趨勢の意向を反映し、労働組合の仕事は、身内にはやってほしくはない、疎ましい職業の一つであった。
 だが、こうしてこの課題と取り組み始めると、僕は、この問題では、その実務リーダーとして八千名組織の先頭に立っていた。問題把握の専門性において僕の右に出る者はいなかった。そして、それまで内心に抱かされていた僕のいわゆる有名大学卒業者への引け目感――子供時代以来の “成績コンプレックス” の名残り――についても、僕は性格的には相変わらず人見知り風ではあったが、意識の上ではそういう比較視や自己卑下感をいつの間にやら卒業しはじめていた。
 その一方、僕らの家庭――といっても二人だけの家庭――内では、その構成員の一人のこうした精神的 “離陸” は、他の構成員を一種の置き去られ感にさらした。ただ、こうした見方は、あくまでも僕の解釈に過ぎなくその反論の余地も大いにありうる。そういう上での一方からの見解だが、妻は、勤務軽減や病気休職によって社会的には孤立しがちで、それを自分自身の不甲斐なさとして背負い込んでいた。病気の上に加わる二重の喪失感である。それでも僕が無職の時期は、少なくとも経済的には彼女の得る賃金収入が僕らの暮らしを支えており、彼女の役目は誰の目にも明白だった。それが僕の再就職により、しかもそう悪くはない収入――全組合員の平均と定められていた――も得るようになり、かろうじての彼女の優位も消え去ろうとしていた。
 そんな折、僕のおごりもあったのだが、ある日、何かの拍子に彼女に向かって、 「僕はこれまで、夫よりも看護人だった」 と言ってしまったことがあった。それが彼女にとってどれほどつらい言葉だったか、その時彼女は返す言葉もなく、ずっと後になってそのことを聞かされた。
 彼女は確かに、そのように療養のための時間は確保できていたが、わずかな家事以外には何もすることがなく、充実にはほど遠い日々を送っていた。それはあたかも、休養という名の静かな拷問だった。そうした彼女が、いつからか、早朝に放映されているテレビ英会話を見るようになり、前夜がどんなに遅くなろうとも、翌朝は必ず早起きし、文字通り一日たりとも欠かすことなくその番組を視聴し続けていた。もともと頑張り屋の彼女ではあったが、この番組への熱意には並々ならぬものがあった。そして後になって、そうした努力を生かし、自宅で子供向けの英会話教室を開いたりするようにもなっていた。そしてさらには、彼女のこの英会話への執念が、思わぬ突破口を開くことになる。
 と言うのは、そうした無為な毎日から脱出するため、彼女は自宅近所の煎餅屋で、老いた店主を助けてパートの店番をしはじめていた時だった。店を訪れたひとりの外人女性のお客さんと、その英会話を生かして顔見知りとなった。その人はオーストラリア人で、英語の先生をしながら、付近のアパートに住み、日本生活を体験していた。そうしたある冬の寒い夜、その彼女から僕らの所に電話が入った。寒さのためか、持病のぜんそくの発作をおこしていた。さっそく僕たちは彼女のアパートに駆け付け、救急車の手配をして急場をしのいだ。そしてこの事件がきっかけとなって、私たちは急速に親しくなり、相互に自宅を訪問し合うようになった。さらにその後には、こうした話を聞いたオーストラリアのパースに住む彼女の両親が、いつか機会があったらパースに来てみないかと、僕らを招いてくれたのであった。
 1982‐3年の年末年始、ほんの一週間だけだったが、僕たちはパースを訪れた。この訪問は、期せずして、後のオーストラリアへの旅立ちの現地事前調査の意味合いを持つことになった。そして、僕たちの、日本に釘ずけ同様にされている生活に、別世界の存在を文字通りに目の当たりにさせてくれる、言うなれば “窓開け” 効果をもたらしてくれるものとなった。
 さらに、1983年末には、その女性の友人たちが日本を訪れ、僕らは彼らに紹介された。その中の一人はオーストラリアで労働組合の仕事をしており、僕と話が合った。と言っても僕は英語がさっぱりで、会話らしい会話とはなっていなかった。それでも、その彼が、その年、オーストラリアの労働党が十数年ぶりに政権を奪還したとのニュースを誇らしげに教えてくれ――彼は持参した新聞の切り抜き記事も見せてくれた――、僕は、そのニュースをどこか他人事ではないような気持ちで受け止めていた。

 一方、僕の仕事、ことに、動き始めた労災問題については、その運動は僕の予想以上に順調に進展していたが、関門は多く、前途は多難で、油断はもちろん禁物だった。それに、その仕事は確かに 「ライフワーク」 と呼ぶにふさわしい規模と重さを見せており、たとえオーストラリアがいかに魅力的でも、外国の話に脇目をそらす余地など皆無だった。
 そのオーストラリア行きが、ほんの数年で現実のものとなるなどとは、そうしたパース訪問の後でも、思いだによらぬ話であった。

 つづく

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