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 連載

相互邂逅 第二部




 僕は、ゴッホが自分を撃ったのと同じ歳、37歳で、日本を後にしてオーストラリアに渡った。
 この旅立ちは、その十年以上も昔からの隠れた願望であった海外体験の、その遅蒔きにしての実現であり、当然に、胸を躍らせるような期待と未知の体験への不安が、内に外に、交錯していた。
 だがその一方、それはいわゆる飛躍を嫌った自分の、そのこだわりが解けた結果の出立であったので、意識としては、それまでの道の延長であり、大海原を越えながらも、 「地続き」 の感覚を伴っていた。
 僕はいま、その日本を後にしたばかりの僕から、25年を隔てたところに居る。そして、その25年間に到達した地点から見れば、この四半世紀は、オーストラリアという選択した環境への自己移植のプロセスだった。そしてそれが、僕のこれまでの人生の、こちら側半分のメインテーマであった。
 僕の人生の、この前半と後半の主調の違いは、その生きる主環境が、前半が所与のものであったのに対し、後半が選択の結果であるという、まるで主と従が入れ替わったかの対比をなす。つまりその前半では、気が付いた時、僕は誰かによってそこに存在させられていたのだが、後半では、僕はもはや自分で好んでそこに居たことである。しかも、自己責任という方向付けを与えて言えば、前半に自己責任はないが、後半にはそれを伴う。つまり、前半では自分をすねることもありえたが、後半では、曲がりなりにも、自分は自船の船長である。
 もちろん、こうした対比は、わざわざ外国などに出かけなくとも、いわゆる 「成人して社会に出る」 という道順をへて一国内でも経験できないことではない。しかし、環境として、その自国社会はどこに行こうと実際に 「地続き」 であり、様々かつ緻密なしがらみが入り組んで、国境を越える異環境への 「地続き」 とは別物にならざるを得ない。しゃれではないが、この後者の 「地続き」 を前者のそれと区別して 「自続き」 と表現すると、この 「自続き」 では、確かに環境も異なり、かつ、そういう飛躍に惑わされず、 「自分」 を維持したままその異環境に自分を露出させることを意味する。
 そこでは自分の 「実存病」 も通用せず、ともかくやり抜いて行ける自分流の方式を編み出さねばならない。唐突だが、僕はいま、この前半と後半の違いを、 「東洋風」 と 「西洋風」 というように表現したい気持ちに駆られているのだが、その内容については、追って詳しく物語ってゆきたい。
 それに、当初から必ずしもそう計画していたわけではないのだが、こうした道行きをへて、自分の人生の無形の財産のようにそうして築き上げてきたものを、もう少々、輪郭のはっきりしたものにできるのではないか、との予感も携えている。
 また、この人生後半の自己移植のこころみは、自分の人生にひとつの実験的要素を持たせたという意味で、その前半の人生にはない設定がほどこされている。
 むろん、こうした視座も、その四半世紀のこちら側にあるからこそ持てるもので、いわば、それ自体もその実験の産物である。つまり、この実験はその実験の主にそういう反作用もおよぼしている。僕自身は、その実験を単に外から観察してきただけではなく、それを通しその当事者としてそう築かれてきた産物でもあるのだ。
 こうした諸点が、この 『相互邂逅』 の物語の第二部のモチーフとなってゆくだろう。そして、第一部においてはその舞台装置も比較的に単純であったが、第二部では、第一部で役立った回想の手法をさらに活用し、かつ、現在へと接近し収斂してくる二人の僕の物語を一点へと融合させなければならない。
 また、第一部で貴重な証言をもたらした 「みかん箱のノート類」 も、第二部ではその役を終え、新たに用いられるノートは、パース到着以来書きつなげられてきた、言わば現行資料としてのそれによる。
 そういう次第で、この第二部のステージは、もはや過去としては扱えない過去以後の世界で、それだけに、まだ生々しさが残り、僕の視点にも揺れや混乱の避けられないセクションである。
 そのような展望をもって、第二部――少々論文風な物語り――を始めたい。

 つづき
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