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 連載

相互邂逅 第二部




 僕の入学した大学院コースは、Master of Industrial Relations 、略して MIR と呼ばれ、日本語では、 「労使関係学修士」 とでも訳せた。
 その当時は、やがて一世を風靡することとなる俗に言う 「新自由主義」 の時代のひと時前で、同大学では、 MIR は MBA (経営学修士) と並んで謂わば双峰をなし、産業や企業における人間の問題を取り扱っていた。そして、MBA が企業経営の角度からミクロにそれにのぞんでいたのに対し、MIR は、労使対等な社会システムというマクロの角度からそれにのぞんでいた。それに、当時のオーストラリアは、1983年に返り咲いた労働党政府が、労使関係の安定を労資の社会契約において成し遂げようとの社会政策を実施しており、MIR はその学問的後ろ盾を提供していた。
 そうした時代のそうした MIR に僕は入学したのであった。
 そういう僕の留学体験を、今に至って、この 「新自由主義」 が “アメリカ式グローバリズム” と化けて醜悪な瓦解に到達した歴史的結末を知りつつ眺め直すのも、 「相互邂逅」 のまた別の味わいである。

 このコースは、論文課程でなく、幾つかの単位科目を授業によって修得するコースで、この分野に初めて首を突っ込む門外漢にとっては、その方が適していた。
 卒業までに修得すべき単位数は12あり、各1単位の修得にはそれぞれ半年を要した。コース概要によれば、そのどの科目も実に興味深く、しかも体系立っており、僕は、自分が同コースを選んだことに、どこからともなく湧いてくる誇らしさすら感じていた。それは、こうまでしてここにやって来たのだから、それ相応の実りぐらいはつかみたいとの気負いと裏腹ともなっていたし、またそれが MBA ではなく MIR であることにも因っていた。
 そして僕はその12単位を、予定とした2年間で終わらすために、最初、各年6単位、つまり、半年で3単位づつのペースでのぞんだ。
 各授業は夕方5時30分から始まり、途中、30分ほどの休憩――この時、誰もが軽い夕食を摂ったので、後半の授業は散漫化しがちな気力、時には眠気との戦いだった――をはさんで3時間にわたり、終了するのは9時頃だった。その3時間がひと科目、つまり、毎日、ひと科目づつ提供される授業だった。したがって、3単位づつとは、週3日の授業に出席するだけだった。
 このコースには30人ほどの履修者がいた。そのほとんどが社会人で、大学卒業後いったん就職し、それぞれの仕事上の必要に応じて、再度、大学にもどってきている人達だった。そうした彼ら彼女らが各自の仕事を終わらせてから参加できるよう、授業はこうした時間帯に設定されていた。日本のように、学士からストレートに進んできている学生はほとんどおらず、大半は、そういう大学復帰型だった。また、留学生は僕以外にはいなかった。ただ、そうした履修者は、コース途中で姿を見せなくなる者も少なくなく、最後まで漕ぎつけるのは半数ほどだった。当時は授業料の有料化が始まっていたがまだ無料に近く、その経済的気安さが多くの脱落の理由のように僕には思えた。その後、授業料は年々引き上げられたが、それでもその後払い――卒業後、収入が増えて一定額を越えると、税金として徴収される豪州版 “出世払い” 制度――が可能で、学生中の本人への負担はなかった。僕の奨学金もその例だったのだろうが、とにもかくにも、オーストラリア政府というのは、僕や国民に、そのように気前の良い政府だった。
 授業は、前半が講師によるレクチャーで、後半が、それに基づく討論をおこなうセミナー形式で行われるのが通常だった。あるいは、初めからその両方がミックスされて進行する科目もあった。また、科目によっては、大教室で MBA の学生と合同して行われる授業もあった。
 ちなみに、その修得すべき12科目とは以下のような諸分野だった。

 そのようにして、いざ実際の授業にのぞんでみると、この週3科目というのが、自分にとって途方もない負担であることをさとって、呆然としてしまった。
 まず、ひと科目の授業にのぞむとは、その延々たる3時間、集中し続けなければならないことは言うまでもなく、次に、最初に渡される科目案内には十数回の各授業ごとのテーマとポイントが説明され、あわせて、あらかじめ読んでおくべき参考文献が各授業ごとに幾冊もあげられ――最初、その一冊々々、ことに特定の雑誌記事を、図書館の膨大な蔵書の中から見つけ出すこと自体からして一苦労だった――ており、それらを事前に辞書を引きひき目を通すだけでも幾日も要した。さらに、講義のノート整理や提出すべきレポートもそれに加わった。しかも、各講義にあっては、ノートを取ろうとすると聞き取りがおろそかになり、聞き取りとノート取りの両立は無理だった。やむなく、僕は小型のテープレコーダを買い、それを授業に持ち込んでノート取りはそれにまかせた。つまり、後日には、そのテープ起こしの仕事が残ったのだった。
 そのようにして僕が覚ったことは、もはや 「小学生扱い」 されることはなかったが、だと言って “成人” であるわけでもなく、ともあれ、外国語で学ぶとは、あらゆることすべてに時間がかかり、また、何事も時間に解決を求めるしかない、ということだった。なにしろ、単位時間に処理できる情報量が極端に乏しく、母国語でなら、聞くにしても読むにしても、ほぼ瞬時に理解し反応できることが、それが極めてスローか不完全で、せめてそれを記録に残し後回しにしてでも、それが何であったかを時間に任せて後処理するしかないのである。むろん、討論のような瞬間勝負の場ではただ傍聴者に徹し切るしかなかった。要は、言葉によるハンディーを乗り越えるには、あらゆる困難を可能な限り時間の問題に変換し、あとは、寸暇をおしんで、そうして変換された時間と取っ組むしかないのである。そして、この時間変換方式は有効で、これが僕の留学の極意であり鉄則となった。
 たとえば、半期ごとに試験があったのだが、このコースでは、それは科目によったが、ペーパーテスト方式かレポート方式か――選択のできるものもあった――に分かれていた。ところが、このペーパーテストはすべてが論文記述回答で、言うまでもなく、所定時間内に効率よく、意味なしかつ正しい内容の英文回答を書き上げなければならない。留学生には辞書や単語帳の持ち込みは許されていたが、まさに言葉上のハンディーがまともに出てしまう。パスぎりぎりのCマークしかとれなかったのは、このペーパーテストを受けた科目だけだった。そこで僕は一考し、あらかじめ講師に、「留学生には言語ハンディキャップがあり不利であるので、可能であるならレポート方式でのぞみたい」、と申し出た。そうした交渉の結果、ペーパーテスト方式で試験をする予定の幾つかの科目の講師が、いずれもこれを受け入れ――つまり僕用の問題を別に作って――てくれて、僕のレポートを受理してくれた。オーストラリアとは、こういう風に、こちらの筋さえ通っていれば、なかなか話の分かる国であった。ともあれ、オージーの学生たちは、自宅での長時間の作業を要するレポートを嫌い、2時間程で片の付くペーパーテストをむしろ好んでいるようだった。
 こうして、一年目、早々にして2年計画の修正を余儀なくされ、それを3年に延長することに改めた。そうしてともかく、週当たりの負荷を減らし、 「時間変換方式」 にのっとり総時間枠を広げた。むろん、この修正には、奨学金の三年間まで延長可能との規定が働いていた。そうして、各年の負担は4科目づつとし、半期で2科目とした。だが、それでも、一年目の前半期は、結局一科目しかやり切れず、まったく散々な出発となったのだった。
 かくして、一年目前期でパスしたのは、ペーパーテストを受けた 「労働経済」 のみでCマークだった。後期では、 「労使関係理論」 がC、 「産業・組織行動」 がBと、一年間でわずか3科目だけの成果に終わった。
 2年目では、計4科目をとりそのいずれもパスした。それらは、 「労働史」、 「労働組合組織」、 「労使関係法」 がC、「人事管理」 がBであった。見るからに危なっかしい低空飛行である。
 3年目になると、修得科目は5科目で、 「労使関係問題」 がC、 「労使関係制度」、 「調査研究方法」 がB、 「労使紛争」 がB、 「課題研究」 がAであった。
 このように、時間の経過とともに、言葉の上達がそれを助けたのか、それとも要領がよくなったのか、その科目数でもそのマークの面でも、しだいに “高度” が上がって、あきらかな向上が見られたのだった。

 こうして、正規の授業に追いに追いまくられたのは事実だったが、それでも気がついて見ると、僕は、大学の授業と並行し、そのいわば課外で、二つの余剰な作業をこなしていた。
 ひとつは、授業を続けるにつれて、アカデミックな研究、ことに論文を書くための常套手段として、文献カードを活用する必要を知った。この 「文献カード」 ――葉書き大ほどのカードで日本でも 「大学カード」 と呼ばれて売られていた――とは、研究を進めながら収集した文献 (書名、著者、出版詳細) とそれからの引用文を記入したカードのことである。僕は、講師たちの研究室に出入りしているうちに、誰もが、箱やキャビネットに収めた膨大な数のそうしたカードを保存していることに気付いた。それは、言わば彼らの研究上の成果物であり知的財産であった。その文献データを駆使して、彼らはさまざまの研究論文を書いていた。当然、そうした研究者の卵たる僕たちも、そうしたカードの作成を見習うこととなった。
 そこでなのだが、当時、パーソナルコンピュータ (PC) と呼ばれるようになった個人用のコンピュータがこの世に初めて登場して、アカデミックな世界でも、研究者の一人ひとりがPCを使う時代に移りつつあった。大学が事務用に使うコンピュータはIBM系のものが主だったが、講師たちの多くは、まだ世に出たてのアップルのPCを使っていた。それは 「マックプラス」 と呼ばれた、石油缶を小さくしたような箱型のパソコンだった。それに、各キーのストロークが1センチもあるような、こんもり分厚いキーボードがつなげられ、講師たちは、そのキーをすごい音をたてながら、文字通り、たたいていた。従来の機械式タイプライターになれていた彼らの指は、まだ、そのように古臭く動いていた。
 一方、僕は、数々のレポートを提出するにあたり、手書きのものは認めらないため、タイプ打ちをしたレポートを作る必要に迫られていた。最初は、日本から持ちこんだワープロを使い、そのアルファベット印字を活用してタイプライターの代用としていた。またそうした作業と並行して、大学付属のPC――そのスクリーンの文字は緑色で、プログラムはいちいち、薄いレコードのようなフロッピーディスクを挿入して起動させていた――を使って、タイプ打ちの訓練をしていた。そうして代用していた和製ワープロだったが、その記憶容量も小さすぎ、限界は目にみえていた。
 そこで僕もPCを使う必要を痛感し、大学内に併設されている 「コンピューター・サポート・センター」 ――学生や研究者用に各メーカーのパソコンを割引販売していた――から、当時の最新モデルの 「マックSE」 を購入した。たしか当時のレート換算で50万円ほどもし、この高価な買い物を僕が独断で行ったことで妻を不快にさせていたことを後に知った。僕には、そうした買い物も、奨学金を当てにして、さほど大事なことではなかったのだった。そうして入手したマックSEは、記憶容量が256kb、ハードディスクが拡張しても40mbだった。この当時最先端のモデルでも、今から見れば、なんと豆粒のような能力だろう。
 実は、このマックの導入については、最初は、高性能なワープロという狙いが主だったのだが、しだいにその能力を知るにつれて、それまでにしだいに暖めてきたあるおぼろげなアイデアが実現可能に思えてきた。それは、そうした文献カードを、紙のカードに記入して収集するのではなく、それをコンピュータ内のカードを用いて行う、つまり文献カードのコンピュータ化だった。
 このアイデアとの取り組みは、今から思えば、それが単に課外作業レベルでは終わらない、後に役立つ、僕にとっての重要な IT スキル開発の基礎となった試みだった。またそれは、工科系 「前半」 なくてはありえなかった僕なりの特異な発展ではなかったのかとも思われ、後にあらためて詳述してみたいテーマだ。

 派生した作業の第二は、いわゆるアルバイトだった。それは、妻が働くレストラン店主の紹介で知り合いとなったオーストラリア人通・翻訳者が、僕に翻訳の仕事をくれるようになっていたことがきっかけとなっていた。彼女は日本に留学し、オーストラリアに戻ってから、日豪間の通・翻訳事業をはじめていた。そうした彼女が、この面では、むしろ彼女の方からアプローチしてきた。
 その彼女の事業が、日本の海外投資ブームにも助けられて軌道にのり、僕の大学院が二年目を迎える頃、僕らの住居からもそう遠くない所にオフィスを構えた。そして、僕に回ってくる翻訳の仕事も増えるとともに、門外漢ながら、日本語を教える仕事も頼まれるようになり、妻のお株を奪ってしまうような成り行きにもなった。ことに翻訳においては、日本企業のオーストラリアへの投資が、資源関係や不動産関係が中心であったことから、関連する建設工事も増え、それにからむ翻訳(英文和訳)の仕事も途切れがなかった。ことに、建設の特殊な専門日本語が使える僕は、そうした翻訳に適任だったようだ。
 奨学金の支給もあり、直接の経済的動機というより、むしろ見聞を広めるかの関心や効果を伴って、こうして仕事の方が向こうからやってくるようにして、僕らの生活がさらに助けられる結果となった。つまり、巨視的に言えば、80年代なかばの日本のバブルが、そのようにオーストラリアまでも波及し、その地を脱出してきたはずだった僕にも、そのおこぼれがおよぶという時代となっていた。
 こうした頃、僕らの住宅事情に著しい変化が起こった。
 というのは、それまで賃貸アパートに住み、その家賃を二週間ごとに払ってきていたのだが、ある日、僕と妻の間で、そうした家賃をまとめて前納すれば、面倒が省かれるだけでなく、割引にもなるのじゃないか、との話となった。それというのも、日本から持ち込んだ資金は、そうしてほとんど手つかずで残っていたばかりでなく、当時のオーストラリア経済の状況から――不況による弱い豪ドルの防衛のため――、銀行利率は20パーセント近くにも高騰しており、お陰でその虎の子も、それなりに成長していたのだった。そうして、こうしたまとめ払いが可能かどうかを探っているうちに、あたりの住宅価格がどれほどのものかを知ることとなった。すると、前納どころか、自分たちの資金だけでも、小さな家くらいなら射程距離にあることが分かってきた。そうして間もなく、僕たちは、大学に自転車で通える距離にある、デュープレックスと呼ばれる二軒長屋式の2寝室中古住宅を買ったのだった。当時のパースの住宅価格はシドニーなどと比べて半分以下で、日本の常識からは信じられないほどの安さだった。そうして手に入った 「我が家」 のことを今から考えると、偶然ながら、その価格は、僕に授与された奨学金総額をやや上回るものの、ほぼ同額だった。僕らは、そのようにして、そのマイホームをオーストラリア政府からプレゼントされたも同然だった。
 こうして学生の分際ながらの家主となったその家には、日本の感覚では羨ましいほどの、けっこう広い芝生の裏庭や緑もあってゆとり感があり、また、夫婦二人して住むには十分すぎるスペースも備えていた。そして僕は、その一寝室を自分の仕事場にし、いっそう勉学や派生作業に励んだ。
 また、その頃になると、妻は、その僕の翻訳のアルバイト先である会社が、増える日本からの観光客のために興したツアーガイド事業の仕事を始めていた。このガイドという仕事は、ウエイトレスのように3K的ではなく、いわば日本の観光客に頼りにされ、憧れられる仕事で、彼女の誇りにもなり、意欲をも刺激しているようだった。まったく初めての分野のため、勉強もしながらであったが、めきめきと自信とやりがいを高めていた。

 こうして、僕の大学院の三年目は、生活環境といい、授業への慣れといい、いっそう充実した一年を送ることができた。そして予定通り、必要単位もすべて修得し、1988年12月、晴れて卒業を迎えることとなった。
 そのようにして修得した MIR という学位は、MBA と違って、日本では今でも馴染みが薄い。そのように、それはいろいろな意味で、オーストラリア的な学問と言えた。
 ことに、僕がこのコースを受講して感慨深く接した用語に、 「プルーラリズム」 というものがある。これは、日本語では 「複数主義」 とも訳せる専門用語で、社会や産業や企業において、労使(労資)が相並んで存在することを前提とする概念である。学問的背景としては、英国の伝統やアメリカのリベラリズムの流れを引くもので、オーストラリアでは、1901年のオーストラリア建国以来の、国是ともいえる政治的原則を形成してきた。その究極の目的は労使(労資)の平和的共存であるのだが、日本で言われる 「労使協調」 とは似て非である。日本の場合、労使対立は一種の病的状態とされ、社会や企業の優位さのもとに内封されてきた。つまり、 「プルーラリズム」 は、労使(労資)の社会的対立を不可避とみる二元性が前提であり、他方、日本式労使協調主義は、労使(労資)の運命共同体的一体性が前提となってきた。言うなれば、 「階級」 の概念を、片やは認め、片やは認めない考え方と言えた。
 僕が MIR の学生となって間もないころ、企業の労務を担当しているあるクラスメートから、 「日本ほど労使関係がうまく行っている国はないのに、どうしてわざわざ 〔こんなにごたごた労使紛争の多い〕 オーストラリアにまで来てその MIR を学ばなければならないのか」 と質問されたことがあった。僕はそれに、 「日本が右の端とするならオーストラリアが左の端で、その両方を知れば万全だ」 とかなんとかと、昔どこかで読んだ毛沢東語録の一件り―― 「最善と最悪に備えれば、他のあらゆるものはその間のどれかだ」 ――を思い浮かべて返答をしたことを覚えている。
 そうして僕は、 “両端” に少しは明るくなったわけだったが、そうすればするほど、日本のその日本らしさが、どうしてそう出来上がってきたのかをいっそう踏み込んで知りたいと考えるようになっていた。少なくとも、その日豪比較をしてみたいとの課題を持つようになった。
 手前勝手に言えば、オーストラリア政府が僕に奨学金を与えたのも、最重要な貿易相手国であり対照的な労使関係制度をもつ、その日本の誰かに、そうしたオーストラリアの労使関係を理解させることだったのかも知れない。
 僕は、こうしてその MIR を終え、所定計画の達成をみた。
 そこでいよいよ帰国するかどうかの決断に迫られたのだが、思案の結果、僕は PhD(博士) コースへとさらに進むことを決心する。
 その改めて目指す研究課題の根っこには、どうしても戻ってきてしまうそうした日本性への問題意識があったのだが、それは、こうしていよいよ、僕のオーストラリアへの旅立ちの、その本来の目的に立ち返える、そういう場にようやくにして至れるようになっていたからかも知れない。

 ところで、僕は、オーストラリアが、僕の好むそのオーストラリアらしさ――たとえば、学も教養もない一介の労働者が、会社の上役と、互いにファーストネームで呼び合いながら、一歩も引けをとることなく堂々と接することができる――を育んできた要素として、こうした 「プルーラリズム」 発想に基づく諸制度や伝統を考える。
 そして、そういうオーストラリアらしさを、一世紀昔の遺物として退け、なし崩しに、アメリカ型ユニラテラリズム(資本単独行動主義) を、職場にそして社会に導入したのが、1996年、13年にわたる労働党政府から政権を奪い返したハワード自由・国民連立政府だった。そのハワード首相は、11年後の2007年末の総選挙において、その米国のユニラテラリズム自体の壮大な崩壊を先導するように、首相自らが議席を失うという屈辱的敗北を伴って選挙戦に大敗し、その政権を再び労働党に譲った。
 こうして再登場した労働党政権について、ラッド首相率いる現政府が、そうして失われたオーストラリアらしさを、どう未来に向かって甦らせ、新たな伝統を築いてゆくのか、僕はそこに注目せざるをえない。
 なにしろ、その百年にわたって引き継がれてきたオーストラリアらしさ――とそれによる健全な国の発展――を、それを古いとして崩そうとしたその潮流こそが、今や、世界に百年に一度の大混乱を引き起こしつつ、歴史的凋落に瀕しようとしているのであるから。

 つづく

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