「両生空間」 もくじへ
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連載
僕がそのようにして始めたPhD生活は、そうして副産物としての 「自動論文書きプログラム」 の実使用にほぼ目途をつけつつあったものの、本作業自体は、ほとんど迷走の様相を示していた。と言うより、論文作成作業自体が順調に進んでいないとの認識はあったのだが、研究とはそんなものではないかと、どこか高をくくっているところもあった。なにしろ、学生の分際ながら自宅は得たし、アルバイトの仕事に事欠くこともなく、学費さえ納めておけば身分やビザは確保でき、おまけに、終了させる期限が限られていたわけでもなかった。ただ、やる気さえ失わないでいれば、それなりに生活は充実していた。
たがそれはもちろん、すべてが円満に運ばれているという意味ではなかった。
第一に、本業の論文書きは、格闘はしていたものの、相変らず、理論のジャングルの中をさまよっていたことに変わりはなかった。
第二に、またしてもビザ上の問題だったのだが、私と妻に与えられている学生ビザの条件として、共に、週20時間以上の労働は許されていなかった。
むろん、僕はその当の学生で、その制限を受ける理由はあったが、妻にとっては制限は迷惑で、それを無視してフルタイムで働いていた。当然、そうした非合法労働は雇用関係にも影をおとし、いわばヤミで働く彼女の立場を弱くさせ、常にビクビクしていなければならぬ心理的ストレスともなっていた。
PhD生活も二年目に入ろうとするころ、監督のH講師が研究休暇を終えて大学に戻ってきた。
PhD課程では、監督者と学生、ことに僕のような留学生との関係は、通常の師弟の関係をこえるものがあった。言わば、私生活にもおよぶ助言や支援に、H講師は熱心に当たってくれ、ことに、僕の研究課題に役立つ諸人物の紹介や、あるいは、彼の交友関係に僕を招き入れたりもしてくれていた。
ちなみに、週末ともなれば、彼の趣味である二人用ヨットやオリエンテーリングにもさそってくれ、僕にとっては初体験のそうしたオーストラリアらしいスポーツにも参加する機会を得た。片やパースの湖上で、方や近郊の山野で、自然と一体となるそうしたスポーツは、日本時代の山歩きにも通じるところがあり、僕も大いにそのフィジカル感を楽しんだ。もっとも、ヨットは、小さいながら一隻のボートを操るだけに、技術度の高いスポーツだった。
彼には、僕らのビザ上の問題についても相談していたのだが、彼は、そうした僕の学生としての身分を “格上げ” するために、僕を西オーストラリア政府の要職者に紹介し、僕に政府のアドバイザーとしての仕事を見つけようとしてくれていた。何しろ当時の日本経済はアメリカをも凌駕せんとの勢いで、そうした日本社会の実体験をもつ者として、本人はちっともそうとは認識していなかったのだが、州に役立てる人間との筋書きであったようだった。
そうしたことも含め、その頃、次第に感じていたことであったのだが、僕は、オーストラリアでの国民と政治との関係が、日本と比べ、随分と密接なものであると思い始めていた。オーストラリアでは、国の政府である連邦政府と、州ごとの政府である州政府の二本立てとなっており、ことに州政府は、教育、住宅、交通、警察など日常生活に直結する行政の主体で、より国民に接近したものとなっていた。
当時、連邦政府も西オーストラリア州政府も、共に労働党が政権をとっており、労働党の熱心な支持者であるH講師は、州政府内にもそれ相応の人脈をもっていた。そしてある日のことなど、僕は彼に連れられて州議会を訪れ、州の首相に紹介されたこともあった。僕は、首相と握手するなど、身に余る光栄とただただ恐縮していたのだが、それはどうも日本人的すぎる態度であったようで、当地では、そうしたことなど、当然なことのようだった。
逆に僕などは、後になって、自分は 「クソ日本人」 だったなと反省させられたのだが、首相と握手できるほどなのだから、その後は相当な 「コネ」
が利くのであろうと、日本臭い期待を大いにしたためていた。しかし、それはあくまでも僕のあらぬ期待で、当地では、政治家たるものはそうして人々の願いにきめ細かく対応はするものの、それが即、いわゆる
「コネ」 として特異に働くというものではなかった。少なくとも僕が経験したものは、公正な手続きを逸脱した特別配慮が私的に行使されることはない、ということだった。政権が頻繁に交代し、与野党間の互いのけん制が行き渡っている当政界で、そうした愚かな行動はその政治家自身の命取りともなるからだった。
一方、論文本業上の問題については、H講師のひと言のアドバイスが突破口を開いてくれた。
「ひとまず理論から離れ、その先の章に進んでみたらどうか」 と、次の章に予定されていた、日本の労働組合運動の概略史の記述に入ることを彼はすすめていた。
それもそうだと、さっそく、僕はその歴史記述に取り掛かった。
歴史を述べるこの章の作業は、その内容はすでに構想されており、さほど困難な仕事ではなかった。それこそ、自分のプログラムを用いて 「他褌相撲」
を繰り返しでゆくだけで、作業はみるみる進んだ。なにしろ、日本のことについては、それが何についてであれ、僕にはすでにあらかじめ判っていることであり、いわば自分の土俵だった。あとは、それのどれを焦点にするのか、自分の力点の選択の問題だけだった。
この進行は僕を理論のジャングルから脱出させる契機となっただけでなく、さらに、僕の目からうろこを落す効果をはたしてくれた。つまり、本来、僕の論文の主柱となるべき議論は、自分が体験し、自分が疑問を抱いてきた、日本の労働運動のその事実に根差しているのであり、理論は、それを料理する調理道具に過ぎないことに気が付がつかされたことだった。つまり、主客が転倒するのも同然な視野の変化であった。
この覚醒の効果は大きかった。というのは、それまで、自分が書きたいとすることはどこか外にあり、自分の内にあるものではなかった。少なくとも、そう信じていた。また、それが僕にとっての留学、つまり、外国での勉学というものだった。でなければ、どうしてわざわざ外国まででかけてくる必要があったのか。
ともあれ、そうして僕は、それまでの停滞が嘘のように、快調に歴史記述を進めていった。
僕の論文書き作業は、それは確かに机上で行われる作業ではあったが、僕の論文のテーマは技術者労働運動の日豪比較であり、オーストラリア側の現地調査は必須だった。そのため、地元の関係する人々に色々面会してきていたのだが、そうした接触を通じて、印象を深めていることがあった。それは、日本について、彼らがほとんど何も知らないことでだった。むろん、僕が会ったのは労働界の人達が主で、その人たちが、たとえば日本の文化を知らなくとも不思議ではなかったが、日本の労働運動自体についても、多くが知られていないことだった。
そうした体験から発想された、僕の――自動論文書きプログラムの作成に続く――第二の派生作業であったのだが、僕は日本の労働運動について報じる新聞を発行したらどうかと考えた。そしてそれをH講師に相談すると、
「いいアイデアだ」 と賛成してくれ、大学からの協力も得られるよう取り計らってくれた。僕はその新聞を、 『Japanese Unionism Information』
と名づけ、A4判裏表の小さな新聞だったが、月刊で発行し始めた。幸い、マックの使い方にもなれ、マック上で文書の編集ができる、いわゆる 「デスクトップ・プリンティング」
に関心もあった。そうしてプリントアウトした原版を大学のコピー機で印刷し、大学内で配布するとともに、知人となった労働組合関係者や、オーストラリアの他大学、労働組合にも郵送してもらった。
この新聞発行作業は、派生作業ではあったが、その内容は自分の論文書きの内容とも大きく重なっており、とかく閉じこもりがちな論文書き作業とは違って、即座に誰かに読まれているという開かれた緊張と興味をもたらしてくれるものであった。この
『JUI』 は、1991年8月――僕の45歳の誕生日の記念も意味した――に創刊され、1995年5月まで、39号が発行された。
実は、この新聞発行により、思わぬ反応が舞い込み、新たな人間関係の樹立へと発展して行ったのだが、これについは後述することになろう。
こうして、僕の論文書き作業はほぼ軌道に乗り、ひと安心していたのだが、そこに、新たに二つの問題が発生してきた。
一つは、監督のH講師が、大学を移ると言い出したことであり、第二は、僕の研究は、そうして日本側についてはその議論の進展に自信が湧き始めていた一方、オーストラリア側については、その広さや深さにおいて、どうしても、日本側のそれとは差が生じ、テーマである比較研究において、いかにもアンバランスであることが否めないことだった。
第一の点については、H講師は、僕にとっては実に熱心かつ親切な指導者で、僕も彼には深く感謝していたのだが、若手の研究者、つまり、彼自身もキャリア途上の研究者ということで、まだまだ多くの武者修行を必要としていた。彼は僕よりも幾つか年下だったがほぼ同世代で、どこか気の合うところがあった。だがアカデミックとしてのその若さが、この点では弱点になろうとしていた。
第二の点は、これは突然に発生したというより、調査活動をしながら、オーストラリア側の作業の進展の遅さから、次第に認識を深めていたことだった。比較研究というのは、後になって覚ったことであるが、研究テーマとしては初歩のものではない。少なくとも、二つの世界への均衡のとれた知見を必要とする。それを、初めての研究でやろうとしていたのだった。
H講師の移転先は、シドニーのニューサウスウェールズ(NSW)大学と言う。僕はその話を聞いて、とっさに、一種の失恋にも似た感情を抱いて大いに落胆させられた。ただ、オーストラリアのアカデミック界では、そうした移動は茶飯事のことであり、そうした変化に適応するのも当然なことだった。
僕は、その取り残され感のなかで、ともあれ、彼に代わる監督を物色した。二、三の候補から一人に絞り込んだ人物は、高齢のため一線からは身を引こうとしていた著名な非常勤講師だった。だが、馴染みはなく、どことなくこの人選に躊躇が伴っていたが止むをえなかった。だがしかし、幸か不幸か、その人選を決めた三ヶ月後、彼は心臓病で急死してしまった。
そうした一方、僕は、シドニーにある必要性を感じ始めていた。と言うのは、それまで、パースというオーストラリアの州都ではもっとも隔離された西端の都市で暮らしてきた。そこは、入門的な勉学をするには十分に静かで落ち着ける環境であったと言えたが、オーストラリアの政治的、経済的中心は、なんといっても東部州のシドニーやメルボルンにあった。僕の研究も、いわば初歩の段階を脱し、応用的な要素も含めようとしていた。つまり、そうしたオーストラリアの中心に、いよいよ、移動する時期がきているのかとも感じ始めていた。
ただ、そうした研究上の必要性とは別に、僕らの生活基盤は、パースにのみ根差していた。自宅もそこにあったし、僕のアルバイトも妻の仕事も、すべて、パースならではのものだった。そうした僕らには、シドニーは、まだ、大陸の反対側に位置する、遥か遠方の大都市だった。だからこそ、H講師が去った後も同大学に残ろうとしたのであり、そして、その代理監督の急死という思わぬ事態との遭遇だった。
その年(1991年)の十月になって、H講師が転職を予定していたNSW大学のMIRの主任教授が僕の大学を訪れた。彼は、H講師がPhDを取得した際の彼の監督だった。僕はH講師を通じ、この主任教授に紹介された。その際のことだった。彼は、僕が終わらせていた日本の労働組合運動史の章を読みたいという。さっそく僕はそのコピーを渡した。そしてその数日後、彼はそれをモノグラフ(専攻論文)として出版する積もりはないかという。いきなりの話で僕はびっくりするばかりだったが、それは僕を有頂天にさせるに足る話だった。
彼の説明では、NSW大学のMIR学科には出版部があり、さまざまなモノグラムを出版しているシリーズがある。それが今度、アジアに関する新シリーズを開始する予定で、その第一号に、僕の研究が最適だというのである。僕は、必ずしもこの出版話に釣られたわけではなかったが、それに始まるシドニーがもたらしてくるアカデミックにより高度な雰囲気は、僕の気持ちを駆り立てるに十分なものがあった。そうして、PhDに関わる限り、僕はシドニー行きは避けられないと考え始めるようになっていた。
つづく
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