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私共和国 第14回



「封建的」か「Feudal」か


 今回ここに書くことは、 「両生空間」 に収めるべき記事かとも考えるのですが、それでは私個人の特殊性の世界のこととなってしまいますので、あえて 「私共和国」 に収めることとしました。つまり、それはテーマとして、日本人の共通性に連なったことと考えるからです。

 まず、オーストラリアでの私の体験談から始めたいと思いますが、私のオージーの友人に、エイブという名の男がいます。エイブとはアブラハムの略称で、いかにもユダヤ人の血を引くといった名前です。
 このエイブとは1992年以来の付き合いで、英語のみでコミュニケーションをとる友人たちの中で、もっとも親しい友人です。
 そのエイブと話をしていて、ことに彼が日本のことについて形容するとき、よく、 「feudal」 という言葉を使います。最初私は、それを頭の中で 「封建的」 と直訳して受け止め、ちょっと時代的な誤解があるんじゃないかと感じながら聞いていました。
 確かに、それがそういう歴史的用法であったとしても、あながち間違いとは言えない日本の古さは認められ、日本社会のもつ独特なものが、彼ら西洋人の目には、 「封建的」 と歴史のなごりを見るように映るのだなと解釈していたのでした。
 しかし、その同じ表現に幾度が出くわすうちに、どうもただの誤解ではない、その言葉の意味そのものに何か違う含みがあるように思えてきました。つまり、 「feudal」 とは、何も歴史的な残映を話しているのではなく、現代のことにつき、今日の日本人や社会のある特徴をさして、そう言っているようなのです。
 それが、3月15日の号から、 「両生空間」 の英語版を発行し始めたことがきっかけとなって自分の思考をまるまる英語環境に漬けこむ体験をあらためて始めることにより、この 「feudal」 の意味について、新たな視界が開けてきました。
 つまり、それまでの私は、この日本語で言う 「封建的」 という言葉について、歴史用語としてしか受け止めず、時間の軸を過去にさかのぼり、それをそう時間縦断的に解釈
する方式でのみ、その語を用いてきました。ところが、どうやら英語で言う、少なくとも彼の言う 「feudal」 という言い方は、そうした歴史縦断的用法だけでなく、むしろ現代での、土地や場と結びついた人や社会の在り様を、横断的にそう呼んでいるようであることに気付かされたのでした。言うなれば、 「feudal」 とは、歴史の授業で使う言葉なのではなく、日常の、一般社会での言葉なのです。
 そこで、「feudal」 を、「土地や場への密着性」と、歴史性を抜きに解釈し直して考えてみます。
 そうすると、 「密着性」 の反対語として、《移動》という言葉が浮かびあがってきます。すなわち、「feudalでない」とは「移動性が高い」ということであって、そうなると、これはそもそも、私の「両生」の概念の根底にあった発想ではないですか。すなわち、「両生的」 とは、「非feudal」と言ってもよいことになり、私がかって生活した日本が「feudal」だったから、「両生生活」を始めたのだ、とも言い換えることができることになります。

 先に私は、「近代日本の落とし子」 と題して、私自身とその私を生んだ私の家族にまつわる 《移動性》 について述べました。その始まりは、私の母方では祖父、父方では曾祖父の代で、江戸が明治に変わるころ、百姓や武士としての土地や封土への結びつきが断たれ、現金稼ぎや給与による生活者の世代に変わったことが、この移動性向を持つことと背中合わせに存在していました。
 私の祖先や家族の場合、その移動性は、日本国内に限られていたのですが、それが、この私の代になって、海外へとその移動も拡大されてきたわけです。私はそれを、 「オーストラリアは地続き」 とも表現してきました。
 他方、それが西洋の場合はどうであったと言えば、英国の例をとれば、大ぐくりな話ですが、17世紀ころから、土地囲い込みにより、農地を追い出されて賃労働にたよる人たちが誕生しはじめ、それが18,19世紀の産業革命とその蔓延により、その変化はより根こそぎで広範なものとなっていたわけです。つまり、そういう移動階級の歴史という意味では、西洋人の場合、私たちの家族の場合より――おそらく日本人全体であっても――、二世紀ほども先に、移動民の歴史を始めていたこととなり、それだけ深く、広い、移動体験を持ってきていると考えられます。たとえば、その典型的な現われがアメリカやオーストラリアへの移民で、それにより、インデアンやアボリジニーと呼ばれる原住民を除き、他のすべての国民が移動者たちばかりによって占められる国さえ生んできたわけです。
 私には、「feudal」という言葉が英語圏社会でどのように用いられているのか、それを網羅するような知識はありませんが、友人エイブの例を見る限り、それが 「土地や場への密着度」 ばかりでなく、そうした密着の産物であると思われる、人の持つ 「自然環境との一体感」 や 「自分と自然性との同一視」 などについても、「feudal」という形容に含んで使っているように感じられます。つまり、ユダヤ系の、二千年以上にもわたって土地への結びつきを断たれた歴史を持つ民族の一人として、彼の感性は、時には、「feudal」であることに、ある種の人間性や回帰したいなつかしさを込めて、肯定的で湿り気ある視点を持たせてそう使っている、とさえ感じさせられるのです。
 私も、上記の 近代日本の落とし子」 たる自分を発見する以前には、子供のころより引っ越しばかりを繰り返し、あげくはオーストラリアまでにも漂流してきている自分を、 「根なし草」 と感じ、一方でその自由さを追求しながら、その他方で、ある種の空しさを抱いてもきました。また、子供時代の 「いなか」 への憧れも、そうした脈略のものと思い起こされます。
 どうやら、「feudal」という言葉には、そういう流民のもつ、アンビバレントな思いを反映したニュアンス――場的アイデンティティー喪失者の視点――が含まれているといってもよさそうです。逆に言えば、そのアンビバレントさに無感覚な、たとえば、グローバリズム一辺倒や、妙に純粋なナショナリズムなどには、時代を牛耳るものの操作や、調子のよい振れ過ぎを感じさせられます。
 繰り返しますが、日本語の「封建的」 には、そこに時代のずれを指摘するニュアンスはあっても、同時代を横断する、 《同一環境固定的》 か 《異環境間移動的》 かといった、近代社会へと分化を遂げさせてきた大きな潮流にさらされた葛藤を意味するところは希薄なようです。
 さらには、よしんばその葛藤に触れようとしながらも、ふと気がつくと、「封建的」なのではなく「日本的」なのだと主張する、ひいきの引き倒し風議論にすら陥りがちです。
 本当は、そうした無垢さなど、とっくの昔に失っていることはよく承知のはず。
 必要なのは、自然保護ではなく、砂漠の緑化です。

(2009年4月4日、亡き母の誕生日に)

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