「両生空間」 もくじへ
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連載
シドニーでの二週間の滞在中、僕にとってのその後のオーストラリア生活に大きく影響を及ぼすこととなる、ある人物に出会うこととなった。先に書いたように、僕は、自分のミニ新聞
『JUI』 を自身のPRの目的もかねて発行していた。それが、創刊以来4ヶ月ほどで、思わぬ反応を獲得したのだった。
前年の1991年の12月、シドニー大学経済学部のホィールライト準教授から一通の手紙を受け取った。彼は僕の新聞の読者だといい、機会があれば一度会いたいとの文面だった。そこで、この二週間のシドニー滞在中にお会いしたい旨連絡をとり、そのウィールライト準教授と、シドニー大学の教職員クラブで面会した。当日、その場には、エイブ・デーヴィッドといういわば彼の
“弟子” も同席しており、合わせて初対面することとなった。
彼ら二人は、その二年ほど前、共著で The Third Wave (Left Book Club, 1989) という本を出版していた。この本は日本でも、 『日豪摩擦の新時代』 (勁草書房, 1990) とのタイトルでその邦訳版が出版された。この原書の出版については、僕は数ヶ月前にパースで、ABCラジオの番組でインタビューに応じているエイブの声を聞いて記憶にあった。そうした二人に面会し、僕は一種の面接試験を受けたも同然だった。というのは、二人は、オーストラリアへの日本の影響を決定的なものと見ており、それを、英、米につぐ
「第三の波」 と呼んで注目していた。それがその本だった。いま、あらためて本書を手にしてみると、その副題は 「アジア資本主義の幕開け」 とある。この二十年間に、韓国や中国とその登場者は多様となり、今日、まさにアジア時代を本格的に迎えている。両著者の先見性を見る思いを深めさせられる。
当時二人は、新たな日豪関係をひも解こうとして、活発に日本社会への接触を開始していた。そして、オーストラリアで、そういう彼らに共鳴し、共に動いてくれる日本人を求めていた。そうした人物の一人として、その白羽の矢が向けられたのが、この僕であったようだった。
後になって聞いたことだが、その面接の評価は、 「まさに求めていた人物が現われた」 との結論だったという。
彼ら、ことに同準教授は、オーストラリアの左派運動の指導者格の人で、シドニー大学経済学部内でも、保守派と拮抗し、特異な地歩を築いていた。労働組合運動の分野でも、理論・運動両面にわたって大きな影響力をもっていた。彼らは、そうした思想的位置から、オーストラリアと日本の労働者階級がもっと密接に結びつくべきだとの見解をもっていた。その点では僕も同じで、同じころ、僕は日本の労働組合員のオーストラリア訪問の計画――時期が悪く結果は不成功に終わったが――を進めていた。
エイブは、僕より数歳若いものの、世代的には大差なく、それからも親しく交友を深めてゆくこととなったばかりでなく、共に仕事をしてゆく関係にもなる。
ともあれ、この “面接合格” により、僕は二人から、身に余る期待をいただくこととなり、恐縮するやら嬉しいやらの気持ちも伴いながら、それは、僕のオーストラリア生活に新ページをもたらす、決定的な出会いとなったのだった。
当時にあっては、こうした “鳥の目” には到底いたれなかったのだが、今にして思うと、その8年前に日本を後にした際に胸にしたためていた目的の核心に、そうしてようやく迫り始めていたことに気がつく。
先にも書いたように、その目的とは、本格的な外国体験で、言わば、母国への帰国を念頭に置かない、帰路を封じた移住体験のことである。帰国を意識していれば、当然、外国での生活は一時のものに過ぎず、その関心も腰のすわったものとはなり難い。ビザ上は、PhDとは言えまだ学生の身分ではあったものの、その論文作業は、舞台をシドニーというオーストラリア社会の中心部に移し、同社会の生の息吹きと直に接する体験と並行して取り組まれるものとなった。それまでの教育的あるいは過渡的に必要であった特別枠環境からは、かくして卒業し始めていた。
また、私生活の面でも、それまで車の両輪のごとく一対であった夫婦関係が、四千キロの物理的距離をはさんだ別居生活によるものとなり、二人の関係に、新たな季節が訪れようとしていた。
ところで、僕は今より9年前の2000年、この僕らにやってきた新たな季節について、まったくの “地上の視点” から、ひとつのストーリーを書いた。それは、日本のある地方自治体が主催する
「自分史」 作品の懸賞に応募したものだったが、実質上の動機は、それまでに自分たちが体験し、ある形での終わりを迎えようとしていた夫婦関係について、その応募を契機に、何らかの形の総括をしておきたかったからだった。
( 『卒婚・失婚』 と題したこの作品は、当 『相互邂逅』 にとっては、これまでに引用してきた他の諸ノートと同様に、それを材料として採り上げて真実味ある物語りとしたいと思う。ただ、それを直接に現行の物語に引用するにはボリュームとして大きすぎ、物語りの流れやバランスを乱してしまう。そこで、それを僕の初期作品として独立して本作品に添付提供し、総合的な構成を図る方途としたい。)
僕はその二週間のシドニー滞在の直後、論文のテーマ変更に伴う段取り変えで、三ヶ月間、日本に戻った。日本の建設産業について、それだけ広範囲に扱うとなると、今までの調査や資料などでは、到底、狭すぎるからであった。
三ヶ月後、再びシドニーに帰り、本格的な引越しの手筈をととのえた。スタジオ型アパート一室をなんとか資金をやりくりして購入し、パースから僕のほどんどの荷物を移して、そこを僕の新たな生活と仕事の場とした。事実上の独身時代への回帰であった。
ただ、パースでは、妻のガイド業への関わりがますますと進んだのはよかったが、それと共に頻繁に健康上の不安をうったえるようになっていた。それに加えて、いよいよ、日本の大手旅行会社の現地社員に採用される話が実現し、ビザ上の労働時間制限については互いに触れないでいるという異例な方式で、彼女がパース在住の現地採用社員となることが本決まりとなった。つまり、ビザ問題はそう隠蔽され、事が表沙汰になれば一層破壊力を持つ格好となった。本人も、この転職自体は歓迎この上もないことであったが、そうした根深い不安に加え、さらにその後が大変だった。なにしろ、その初仕事とは、彼女一人で、小規模ながらパースに支店を構えることで、しかもその直後には、日本からの大きなグループがやってくるという、後にも延ばせない日程も控えていた。とてもじゃないが、彼女独力でやり切れる仕事量ではなく、僕は、シドニーでの論文作業を一時棚上げにして、パースに飛んで彼女を支援する黒子のアシスタントとなった。大きなホテルのスウィート室を借り切り、そこにオフィス家具、事務機器を手配し、組み立て、配置や配線などして事務所らしくし、その開店がなんとか形をなすまでの準備を手伝った。こうして、彼女はその会社の、総人員一名のみの、パース
“支店長” におさまったのであった。
彼女は、 「もう辞める」、「もう引退する」 と繰り返しながらも、今日でも、この支店長の職を続けている。後で触れるが、やがて僕らが永住ビザを獲得してからは、彼女のこの仕事は晴れて公明正大なものとなり、彼女は文字通りの支店長職をこなすようになった。しかも、持ち前の責任感の強さから会社からの信頼も厚く、周囲での評判も定着し、公私ともの平安が確立した。聞くところでは、そうして彼女は、パースの日本関係旅行界において、押しも押されもしない人物となって行ったようだ。つまり、彼女の人生の後半で、この仕事は、彼女の遅ればせながらのライフワークとなったに等しい。
結果が真実を表しているとするならば、彼女にとって、この仕事自体とは偶然の出会いだったかも知れないが、そのように評判を確立した 「支店長」 を務め抜いてきたという結果は、彼女が、誰かの妻としてより、一人の職業人として生きることが、どれほどか彼女にとってふさわしい道であったかを示していよう。
僕らが互いの別居を決心した当時、僕は、彼女のそうした能力には気付いていなかった。思い起こせば、母親譲りの、そうした長けた実務能力はもともと彼女に備わっていたものなのかもしれなかった。だが、僕はどうやら、そうとは意識はしていなかったものの、夫として、男として、彼女を
“保護” あるいは “配偶” する側ばかりに関心を集中させていたようだ。
そうした、 「鳥の目」 でなら見える光景をよそに、当時の僕ら、ことに僕は、地上を織りなす起伏にすっかりと目を奪われていた。 『卒婚・失婚』
に描写した、僕らの別居が始まらんとする日々の出来事とその後の顛末などは、そうした地面を這いずる者の、そこまでの必要はなかったかも知れない攻撃性や過敏性を表しているとも見れる。もちろん、それほどに切実ではあったのだが、それを、もう少しでも広い視界で見れなかったのか、とも思われるのである。ともあれ僕らは、それほどに、感じやすかったことは確かだった。
そのころの僕が、それでも、少しは 「広い視界」 とでも言える方向にむけて、努力を傾けようとしていたことがある。それは、こうして迎えている地上の起伏の、僕らにとっての最大の障害物であるビザ問題とのある特異な取り組み方だった。
ビザ問題といっても、それは、僕らが、当初の学生、つまり、帰国を前提としていた身分から、定住を意識する身分へと、こちらが身勝手に変更したことに端を発する。むろん、妻に対する20時間の労働制限は学生時代からでの懸案ではあり、妻にとっては相変わらずの悩みの種だった。それに、僕としても、その妻の不安をなんとか取り除いてやりたかった。だが、僕がいよいよ、来豪の本来の目的に挑もうとし、また、その決心を固めようとすればするほど、僕自身がそのビザの壁を越えることを必要としていた。
そもそも僕にとって、学生はその目的遂行のための手段であるはずだった。そうであるなら、PhDについても、それが手段であることに変わりはなかった。そう考えると、もはやそんな手段に拘泥している場合ではなく、その目的にそった行動に集中すべきでないか、との思いが浮かんできた。これが、先にも書いた “虻蜂取らず” の問題、言い換えれば 「PhDをひとまずでも断念し、ビザ取得を優先する」 との問題だった。永住ビザさえ得てしまえば、あとはPhDだろうが何だろうが、それからゆっくりと取り組めばいいことではないか、そう思えてきたのだった。
シドニーでの論文書きの作業は、外見上は、仕事場となったアパートに閉じこもった、きわめて孤独で単調な毎日だった。ただ場所という意味では、こちらが希望すれば、大学が提供するPhD生用の研究室で作業を続けることは可能だった。だが、相部屋のその研究室では、他の学生とのやりとりが僕にはおっくうだった。それに、新たに構えたアパートはまさに仕事部屋そのものとでも言える作りとした。つまり、大学の研究室に比べ、通学も無用かつ静寂で、はるかに居心地のよい環境だった。そうした仕事部屋を根城として、僕は週に一度ほど大学に顔を出す以外、その孤独な作業に没頭した。論文書き作業とは、そうした単調な繰り返しが、その先も、数年、続くのである。しかも、学問的な集中と緊張を維持したまま、飽かず弛まぬように、それを持続させなければならない。それは一種のサバイバルゲームに似ていた。その不自然で取りつかれたれたような精神状態の維持は、ちょっと狂うと、たちどころの混乱に陥る危険を秘めていた。PhD学位の修得とは、研究内容だけでなく、そうした日常生活レベルにおいてもの緻密な自己管理をも必要とし、公私両面にわたる自己統制を要求していた。
そうした論文書き作業の息苦しさにあえぎつつ、他方パースからは、妻の新しい仕事に関わるこれまた健康に危ない話ばかりが伝えられてきていた。ビザ上の弱みを持つ彼女が、あたかも脅威に怯える被害者のごとく、それがゆえに自分に鞭当てて、仕事が要求する限りない必要に応えようとしている様がありありと受け止められた。
かくして、別居した互いに孤独な環境ではありながら、共に、その選んだ苦境をなんとか凌がなければならなかった。言うなれば、二人の孤独は、苦境という共通項でつながっていた。
そうした一見単調ながら重圧感に満ちた毎日を繰り返しながら、僕は、この苦しい壁をどうしたら突破できるのか、その考えが頭から離れないでいた。どちらかを断念することをそれは示唆しているのではないのか、そう急いだ答えを出そうとする声もあった。また、ビザ問題に集中しようと、仔細な情報をえるために移民コンサルタントを訪ねたこともあった
(その結果、45歳を越えた年齢では、永住ビザ獲得の機会は極めて限られるとの不運な情報もえた)。しかし、その断念がいずれであろうとも、その実行は、そう土台作りを重ね、一歩々々と機会を積み上げてきた本来の目的にとっては、決定的な脱線を意味していた。
そうした悶々と悩む毎日を送っていたある日、突然にこんなアイデアが脳裏を走った。
「正解は、どちらかを選ぶことではなく、両方をとることではないか」。
すなわち、PhDという自分の学位的位置のグレードアップを永住ビザ獲得のてことして活用し、自分たちの今後のオーストラリア生活への現実的構想をもっと具体的に描くべきではないか、とするものだった。それまでの、後ろ向きに入っていたギヤーが
“前進トップ” にでも入ったかのような、積極的な意欲がわき上がってきた瞬間だった。それは、後になって 「両方をとる二者択一」 と名付けることとなる、僕独自の発想の発見でもあった。
つづく
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