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2 遠大な転地療養
あなたの両親へあてた手紙をよんで涙がとまりませんでした。そしてあなたの気分を害することなく私の気持ちを伝える方法を一晩中考えました。そしてこの方法をとりました。お父さん、お母さんに奨学金の明細をことこまかにつげなければならない義務と必要性があるのでしょうか。もし私のおねがいをきいてくれるのならば、手紙に×印をつけた部分をはぶいてほしいのです。だまっていようとも考えました。それではひきょうだと思ったから、一応私の気持ちの一部を表わしました。分金島田の時のように、ここへ来る前の時のように、今までの色々な時のように。
それから奨学金をことわることも考えました。できることなら、あなたと二人で生活していくにはその方がいいと。でも残念ながら、くやしいけれども、自信がありません。外国でお金をかせぐことのむずかしさを、いたいほど実感しています。なにより、もうつかれました。
奨学金の申請には、わたしは春子の健康のためにもそれが必要とさえ考えていた。そこに、その本人からのこうした願いであった。たしかに健康上ではもう必要のないことかもしれなかった。だが経済上のなんらかの手当は避けられなかった。その手当が必要な以上、支給が決定された奨学金を受けとることは、春子に苦労をさせたりアルバイトに時間をさかれるより、わたしにとっては、はるかに目的にかなっていた。
もし奨学金を受け取るべきではないとするなら、わたし達の計画が経済的に十分達成可能でなければならない。しかし、この最初の一年で、たとえふたりで協力し合ってゆくとしても、外国で素手でそれをなしてゆく困難さは十分に経験できていた。それに、これは後で解ることだが、一年をなんとか延長した三年であるどころか、実際には大学院に三年を費やし合計四年を必要とする。心情はともあれ、経済的にわたし達の計画に無理があったのは確かであった。
そんな後の結果は知るよしもなかったが、わたしは、奨学金受領と春子との絆の問題については、両立のできない二者択一の問題とは考えなかった。両立しなければならないし、学位の達成ができたとき、春子との絆もより深くなっているものと信じた。
わたしは当時のノートのページをくって、その頃、わたしが何を考えていたのかをそこに探してみた。一九八五年十二月二六日のノートにこう記されてある。
今、私の体の内を、あるくすぐったさが頭をもたげている。
今まで何でもなかった諸手続きのファイルが、言わば有価証券のそれにでも変じたかのように、何か私にとって重大な価値があるかのように感じられはじめている。
あるいは、ただの渦巻く自我意識の固まりだけであった内界が、突然に何物かによって価値づけられて、あたかも高価な値段を付された商品のように捨てがたい何物かに変じようとしている。
これは実体ではない。一種の仮構だ。トリックだ。まして信ずるに足る自己の内実とは、全く、無関係のものだ。
春子は、きっと、働くことをやめはしないだろう。彼女は知っている、その実体が何物であるかを。だから、彼女は見失わない。
このノートからすると、わたしがその当時、自分に生じ始めている変化に気付いていたのは確かなようだ。
ともあれ、この思いもしない幸運に出会い、わたしの大学院生活が始まるのであった。
わたしは、春子の希望にそって、バツ印の付された部分を削除した手紙を書き直し、それを日本へ送った。一九八五年の十二月も末になろうとし、クリスマス気分が高まっている時だった。
クリスマスから新年への時期は、オーストラリアは年中でいちばん陽気で、そしてお祝い気分に満たされるシーズンである。
だが、そうした雰囲気に反して、春子のしずみ具合はしだいに深まるようであった。加えてわたしは、迫ってくる大学院コースの開始を前にして、やりきってゆけるのか 不安に緊張をたかめ、その未知の体験への突入準備に日増しに関心を傾けていた。
一月の中頃、春子はわたしにこう言った。
「『こじき』になったり『金持ち』になったり、いつも追っかけていなくてはならない」。
奨学金の支給決定をわたしが受けたことは、春子から何かを奪ったようだった。たとえその働きが十分ではない経済的な支えだったにせよ、そこに彼女の役目ははっきりと存在し、二人は互いを必要としていた。また、誰でもそうだろうが、「患者」として特別に見られることは、その人自身の、全面ではないにせよ、否定である。春子はだんだん自分が必要でなくなっていると感じていた。
二月一日、大学に近い二寝室のアパートへ引っ越した。その場所は、これまでのアパートからはパースの中心地をはさんだ反対側で、大学まで自転車で十五分程の距離だった。家賃はわずかな増加ですんだ。二つの寝室をそれぞれの部屋として使うことにし、わたしの部屋には、粗末なダブルベッドが備え付けてあったが、わたし専用の勉強部屋にした。
引っ越しにより準備が整うにつれ、わたしの緊張はますます高まり、そのため自分自身の矮小感にもとらわれていた。
二月中旬、春子がふと、「もういちど『智恵子抄』を読んでみたい」ともらした。以前、まだ病気からの回復もあさい頃、春子は『智恵子抄』を熱心に読んでいたことがあった。彼女はその智恵子に、何か特別の親近感を持っているようだった。
その数日のち、それは偶然であったのだが、大学の図書館で朝日新聞を読んでいて、ひとつの記事に目がとまった。『智恵子抄』に新解釈を与えているある若手女流批評家についての囲み記事だった。その記事は言う。
高村光太郎と、智恵子の愛の伝説にあえて、異議を唱える。ともに古い役割分担意識の枠を超え得ず自滅に向かった女、無意識のうちに妻の自己実現の可能性をおしつぶした男。『智恵子抄』は二人の愛の墓標である・・・
昭和六年以降、智恵子は精神の均衡を失って狂気への道をたどる。「私には、夫とのかっとうを自ら避けて自己実現の欲求を抑えつけた智恵子に、どうしようもなく現われて来た空虚といらだちの果てではなかったかと思えてならないのです。」
わたしは、『智恵子抄』にまつわるこうしたふたつの言及に、ただの偶然ではない、冷たいものが背筋をよぎる、ひとつの重なりあいを見た。智恵子と春子に違いはもちろんあるが、ひとりの男に自我を刈り取られる、そうした犠牲の類似性を感じた。
春子はよく「わたしは古い女です」といった。自分達がオーストラリアにいることは、新しい生き方とか健康のためとかと説得しながら、わたしはそういう春子から、慣れ親しんだ安住の場を取り上げているのかも知れなかった。むろん時間をかけて話し合い、たがいの納得のうえでそれを実行してきた。そうした手順はきちんとふみ、無理や押し付けのないようにしてきた積もりであった。だが、そうした手続き上の適正さが、それだからと言って、その結果の正しさや相手の満足をも保障するものではない。そして、すでに多くを失わせてしまって、戻ろうにももどれないところにまで来ているのかも知れなかった。
わたしは「大学院なぞブン投げて帰ってもいいんだぞ」と春子に提案してみた。だが彼女の返答は、「私はいつもゴウちゃんの足をひっぱっている」とのことばだった。
その新聞記事によれば、智恵子が狂気の道に入りこんだのは、彼女が四十七歳の時、光太郎との結婚の後十八年してからだ。われわれの場合はこの時点で、結婚後十四年、春子は三十六歳であった。わたしは深い根拠もなく、これらの数字を比較していた。
大学院がいよいよ始まった。日本出発いらい十六ヵ月目であった。
予想を裏切らず、いや、それを上回って、それは容易でない試みであった。
わかり切ったことだが、それは、知らない知識の体系をわざわざ不自由な外国語を媒介にして修得することであった。きわめつきの“道楽”であった。
授業のほとんどは小人数のセミナーだった。わたしには、討論への参加はおろか、講義を聞いて理解しようとするだけで精いっぱいで、ノートをとろうとするとその間の聞き取りを犠牲にせざるをえなかった。
読んでおくべき書籍や論文、記事の量が文字通り山のようにあって、それら全部に目を通すだけでも、わたしには不眠不休を意味した。
授業は通常夕方五時半から、小休止をはさんで九時までだった。この三時間、集中を維持するだけでも大変だった。毎日、午前中から下調べをはじめ、文献捜し、資料読み、レポート下書き、清書と、あっという間に夕方になった。タイプをブラインドで打つ練習もわたしには必須だった。それらをすませて五時半からの前半の授業にのぞみ、休憩をはさみ、後半の部分では意識の集中さえあやうかった。
授業が終わった時はいつも、頭はヘトヘトで口もききたくなかった。
当初考えていたやり方が甘すぎた計画とわかった。わたしはそれを早々と断念し、 対策をとった。第一に、聞き取りの援軍として、携帯式のテープレコーダーを使うことにし、毎回、授業にもちこんだ。奨学金の収入の範囲でそれは買えた。
次に、毎回の授業にのぞんで、体力、頭脳力はすでにもう目いっぱいで、それ以上のレベルアップのためにわたしに使える余力は、結局、時間に求めるしかないことに気付いた。そこで、出来うるあらゆることを、時間で勝負できる方法に切り替えようとした。ノートを取る代りにテープレコーダーを使ったのもそのひとつだし、数時間で終わる筆記試験をレポート提出に代えて幾日もかけられるよう講師と交渉したのもその例だった。
ただ、セミナーでの討論だけはその場勝負で、この切り替えが不可能だった。しかし、各授業単位で口頭による討論に割りあてられる点数は全体のほんの数パーセントだった。そこでわたしはそれへの期待は捨て、自分のもつ“資源”を残りの点数に集中させた。
それでも、二年間で終らせる計画でのぞんでいたそのコースの初年前期の数週間を体験し、自分にはその計画があまりに過重負荷であることがわかった。
このコース修了には十二単位の取得が必要で、はじめは年間六単位、半期三単位でのぞんでいた。しかしこれが過重であった。そこで、年あたりの取得単位数を減らす手続きをとり、三年計画に切り替えた。二単位からの撤退はくやしかったが、その二単位は後の二年で再履修することとし、半期当たり二単位、つまり週二日の授業負荷とした。
奨学金の支給期間の延長ができたので、この選択も可能であった。つまり、奨学金の支給延長で、わたしに経済的負担はなかったが、時間を買ったのであった。
この三十三パーセントの負荷の軽減により、いまにも押しつぶされそうだった重圧感がとりのぞかれ、ゆとりとまではゆかないものの、なんとかやって行けそうな見通しがつけられるようになった。だがそれでも、法規の科目はその特殊用語のジャングルにはばまれ、やむなく中途で断念して三年目に回す結果となったのは残念だった。
こうした対策により、初年の前期で、やむなく筆記試験にのぞんだ一単位は最低合格点のCマークしかとれなかったが、その他はなんとかCプラスマークにもって行くことができた。
こうして自分のペースを発見できた後期は、あとはなんとか調子を崩さないようそれをキープすることで毎日の生活は回転していった。加えて、しだいに英語に慣れたことも手伝って各単位のマークも次第に改善してゆき、BあるいはBプラスマークも取れ始めた。
各単位はいずれもが極めて刺激的であり、日本で漠然と考えていたことの多くが、そこでは知識として整然とそれぞれに体系化されていた。目からうろこがとれるような思いをしたことも少なくなかった。
また、わたしは日本で工学部での大学教育を受け理工系の学問体系は経験していたが、欠いていた人文系の体系に深く接することで、いっそう総合的な知識体系を身につけつつある実感をもった。
こうして、一九八六年十一月末、低空飛行ながら大学院コース一年目は無事終了した。そしてわたしは二月末までの次年度の開始までの夏休みに入り、一抹の達成感と少しの自信とともに、ほっと一息つけられる状態にいた。
一方、春子は、一年半ほどを過ごしてきた日本食店を五月にやめた後、店のお客だったトニーの店に移った。この店は、アジアの民芸品やTシャツなどを陳列し、なかにはマリファナ栽培法の本や器具を扱うなど、ちょっと危なっかしげな店であった。しかし、トニーはオージーの典型のような好人物で、また仕事もそれほど忙しくもなかった。おかげで春子はみるみるとその表情が明るくなり、心理的にも健康を回復しているようであった。
トニーの店はそんな店だったために、その商売じたいが長もちしなかった。辞めさせられはしなかったが、春子は、近くのスパーマーケットのカジュアルという一種の臨時職の仕事をみつけてき、トニーの店をたたみやすくした。
その仕事は商品の陳列を行なう仕事だった。重たい缶やビン詰の食品など、この仕事は普通は男が行なう職種だったが、そうした仕事しかあきはなかった。
後に、もう少し身体への負担の軽い職種を希望してそれに移ったが、今度は言葉による意思疎通の問題から、十二月の末には、その仕事から解雇された。春子は「私にあったクリスマスプレゼントだ」と力をおとして言った。
その時わたしは、大学院初年を無事おわらせたばかりで、安堵のうちにも気分を高揚させていた。こうして一九八六年は、ふたりを明暗にはっきりと分けて暮れていった。
一九八七年は、来豪いらい続けてきた下積み生活に、どうにか決別をつけられる年となった。
というのは、その年の八月、アパートの近所に売りに出ている手ごろな家をみつけ、それを購入して引っ越したからである。
これまでのつつましさをがらりと一転するかのようなこの変化には、それなりの理由があった。
来豪にあたって、わたし達がわずかながらも生活用の資金を持参していたことは前に述べた。その蓄えが、春子がたゆまずに続けてきた身をけずるような働きにより、ほとんど手付かずでパースの銀行に貯金されていただけでなく、ふたつの理由で、そうとうに成長さえしていたからであった。
ひとつは、奨学金のおかげで、授業料という最も大口の出費項目が消滅し、それに、その生活費分の一部は、後に備え、とりあえず貯金に回していた。
第二は、当時、オーストラリアは不景気で、豪ドルの防衛のために金利が極めて高く維持されていた。最も高い時には年十五パーセントにも達していた。この八月といえばオーストラリア「上陸」いらい二年十ヵ月である。その間ずっとこうした高率の金利のもとに置かれていれば、その「虎の子」もけっこう成長していたのである。
こうして、ある日、知らぬうちにでき上がっていたその資金をもちいると、なんと、近所のその魅力的な不動産がわたしたちの手の届く範囲にあることが判ったのである。
これには、パースの不動産の価格が、オーストラリアの州都のなかでももっとも安いほうであったこともさいわいした。
貧乏学生夫婦がいきなり小さくとも住宅の購入をするといった大変化には、わたしたち自身の対応能力ではとても処置しきれなかった。とくに、住宅購入にあたっての諸交渉や手続きは、当地の生活にいくらか慣れてきたとはいえ、その守備範囲を越えていた。
そこで、先にのべたスリランカ人の友人に協力をあおいだ。彼はよろこんでその役を引き受てくれ、晴れてわたしたちはその庭付きのデュープレックス(二軒続きの家)に住めることとなったのである。
住宅の確保による生活の落ち着きのなかで、二年目の大学院は、一年目の格闘によってほぼ出来上っていたルーティンをこなしつつ、そのレベルの向上をはかることに費やされた一年だった。
それに、日本のある月刊誌の募集するエッセイコンテストに応募したところ入選し、その年の七月号に掲載された。千六百字以内という限られた分量だったが、来豪いらい、繰り返し考えさせられてきた日本の政治状況について、「百年来の宿願を成就し、今そのゴールの上で、目標を失い茫然とたたずんでいる」と凝縮させたものだった。大筋でその後のバブルの崩壊と自信喪失の一九九〇年代を予言したような内容であった。この入選は、わたしの物の見方にちょっとの自信を与えるものとなった。
「暗黒の月曜」と呼ばれ世界を戦慄させた株式市場の反乱が生じた十月、わたし達の間にも小さな事件が起こった。十月末のある晩、わたしは春子に、われわれの生活の再度の“合理化”を提案した。わたし達の夜の飲酒の習慣について、今度は「止めたい」と切り出したのであった。四十一歳という大台をまわった年齢を気にし、健康への心配があったからであったが、春子は別なふうに受け止めた。彼女からのメモはこう告げていた。
あなたとの清く正しく立派な、そしてとても冷たい人生の中に、私には私のいこいの場を見い出すことができません。
あなたによって(簡単にあなたの思うがままに)作られ、変えられてきた私。でもあなたがさかんに言うように、私達はもう年です。私にとってこれからの人生のチェンジはどんなにか大変なことか。
二人だけで楽しくお酒をのむこと、たいへん好きだった。とってもたのしかった。それを教えてくれたことに感謝したかった。もし、こんな結末にならなかったら。
二年前の同種の提案の時のように、今回も、飲酒の習慣がその後に完全に止められたわけではなかったが、後味の悪いすれちがい感を残した。
先述のように、当初のわたし達の計画では、この留学は三年を限度に日本に帰ることを前提としていた。資金の面でもそうであったし、住んでいた東京杉並の小さなマンションを期限付きで賃貸していたのもそのためであった。正直なところ、三年という長さそのものにさしたる根拠はなかったが、それがわたし達にその当時に許されうるだろう最長の期間であった。また、オーストラリアにわたり目標を無事達成できるかどうかも全く未知で、何が生ずるか予想不可能であった。それだけに、もしもの場合にそなえて、帰ってゆける場所の確保は、わたし達にとって物理的というより心理的な保険として重要だった。帰るべき所が保障されてさえいれば、少々の失敗にも恐れることなく挑戦できるだろうという心理上の安全弁だった。
帰るべき場所という意味では、わたしにとって、帰ってきた時の仕事の口が保障されていたことは、この心理的な安心という点で、もうひとつの頼もしい拠り所だった。わたしは、この海外留学に「国際的な労働組合運動の研究」という大義名分をたて、それまで勤めてきた労働組合からは、その仕事に関連ある留学として長期休職扱いにしてもらっていた。したがって、この海外留学後はもとの仕事に復帰できることになっていた。
そうして、この三年の期限がおわる一九八八年の末を一年先にした一九八七年末、わたしはこの労働組合の事務局長に手紙を書いた。
すでに四年計画で大学院を進めていることは伝えて了承はえていたが、予想される一年後のこの長期休職の期限切れに備え、その先への見通しを伝えておきたいからであった。
ただ、二年先で確実に帰国するかについては、しだいに不確実になりはじめている心境があった。必要全単位が修得できないことを理由に延長するつもりはなかったが、しだいにオーストラリアでの生活が安定してくるにつれ、わたしには、もっと突っ込んで研究してみたいテーマが出来つつあった。
また春子も、帰国して以前の灰色の生活が染み込んだ東京に戻りたくはなくなってきているようだった。
そんな、やや手前勝手な手紙を書いて送って、二年後に備えようとしていた。
大学院の二年目は、ひと単位ごとに四苦八苦する状況に変わりはなかったが、計画そのものから無理は取り除かれていたので、苦労が空廻りするようなことにはならずにすんだ。マークは相変わらず低空飛行であったが、CはなくなりCプラスとBのみとなった。
この年、先述の通・翻訳会社がその事務所をパース市西部のスビアコに移し、「ワードサービス」業を本格的に始めた。そこは、わたし達の家からも近いこともあり、その会社でのアルバイトが次第に増えはじめた。この会社では、頼まれて日本語を教える仕事にもかかわり、春子のお株を奪ってしまうかのような結果となった。
一九八八年が開け、二月末より、大学院最後の年が始まるのだが、この年は、新年度のスタートを前にして、わたしの作業に強い味方が加わった。夏休み中に、大学のコンピューター・サポート・センターを通じて、学生割引価格でパソコンを購入したからだ。機種はマックSEだった。
春子は、事前にさしたる相談もなく、そうとうな出費であるパソコンを買ってしまったわたしに不服気味だった。
わたしは、パソコンの必要性ばかりが念頭にあり、また必要な費用がないわけでもないので、行なうべき手続きへの配慮に関しては無頓着であった。
パソコンを購入するにあたり、わたしにはある考えがあった。もちろんパソコンの導入で、それまで、日本語ワープロを用いてアルファベット文字を打っていた“前近代的“作業が、飛躍的に高能率になることはその理由のひとつだった。
しかし、もうひとつ、パソコンでなければならない理由があった。と言うのは、それまでいくつもの小論文を書いてきていたが、その準備の段階で、参考文献のカード作りがあった。学術的な論文は文献引用が必修で、それを有効に行なうためにこの作業が不可欠であった。大学の教員ならだれも膨大な数のこのカードの蓄積をもっていた。それは彼等のいわば知的財産でいく年もかけてそれを蓄わえていた。
この作業は、必要と判断される引用文献について、出来合いのカードを用いて、その特定文献自身のカードと、その中から有用なくだりを書き写した引用カードの二種類を作ることである。
これが非常に時間を食う作業であるばかりでなく、そうして作った幾百、幾千枚ものカードのなかから、必要な時に必要なカードを即座に取り出すのがまた大変なのである。
ふつう、著者名をアルファベット順に並べておくのであるが、いつも著者の名前を先に思い出すとは限らない。あることを誰かがどこかで言っていたが、はて、それは誰だったか、そんなことはさかんにある。だがその名が思い出せないと、こうしたカードは死蔵のものとなってしまう。
わたしはこの文献カードシステムをコンピューター化しようと考えていた。今ならはるかに使いよい出来合いのプログラムが販売されているが、当時はまだそれがなかった。
夏休み中の大半を費やして、マックのソフトのひとつであるハイパーカードを使い、この作業に挑んだ。大学が始まるころまでにほぼ原形ができあがり、それをより使いやすいように改良を加えながら、四月ごろまでには、なんとか使える第一次システムを作り上げることが出来た。それは、著者名ばかりでなく、出版年、タイトル、分野の四つの手掛かりから検索が可能で、引用カードはその出典元の文献カードと関連付けられていた。
それからいよいよデータの打ち込みを手の空いた時間を用いて順次おこなっていき、六月の末には、このシステムを用いて書いた始めての論文が完成し提出することができた。
それまで、引用文を捜し出すのに多くの時間を要してきていたが、その作業はほとんど機械的に処理することができるようになった。こうした使い良さが確認され、以降は、文献と引用の数を増やすことが後の苦労を気にせずに思う存分にできるようになり、論文にも幅がでるようになった。
ただ、それでも、難点はいくつかあった。その最大のものは、わたしのように日本との比較の考察が多い場合、引用や文献も日本語のものが必要で、日本語と英語の両方の入力が可能なバイリンガルなシステムをつくる必要があった。ただ、この第二段階への飛躍には、マックSEの容量では不可能で、その開発は、二年後に次の機種であるマックSE/30を購入するまで待たなければならなかった。
一九八八年の新年が明けてまだ間もない頃であった。春子の身体に変調があらわれた。
ある時、三日にわたって出血があった。一時は、何事が始まったのかと不安がおそった。だがそれは、ふつうの生理だとわかった。それまで十五年にわたって停止していた生理機能がふたたび春子の身体にもどってきたものだった。わたしは驚かされると同時に、「一生で二回も初潮を経験するのはお前ぐらいのもんだ」と憎まれ口をいって喜んだ。いわば、女として空白だったこの期間、それがこうして終ったのであった。
たしかに、パースに来てから、春子の身体の調子は着実に改善していた。その温暖で乾燥した気候が体に合ったらしい。
日本にいたころは、毎年、梅雨時がもっとも調子を崩した時期だった。医師のすすめで、新潟県の故郷にちかい温泉に転地療養をしたこともあった。
それが、パースへ来て以来、目に見えて効果を発揮していた。体重も回復して以前の体格がもどりつつあった。外国住まいで、生活に苦労はあるものの、周囲に何の気がねもしないでいいことも助けとなったらしい。精神的にも、積極性が増してきていることも感じられていた。パースに来たことは、もっとも遠大な転地療養として、その点では大成功をおさめていたのだった。
なかでもことに、裏庭つきで、なにはともあれ自分たちの所有する住宅に移れたことは、健康回復のための環境作りという点はいうまでもなく、生活の心のよりどころという点でも、広い意味での療養の仕上げの段階となっていたように思う。その親しみのわく自宅で、好きな土いじりをして、春子は自分のもつ故郷志向に触れるなにかをみつけていたのだと思う。
その些細な例だが、この家に移ってきて始まったわたし達の週末の午後の日課は、裏庭の芝の上のユーカリの木陰で、たがいにひざ枕で、耳あかや白髪を取ることだった。春子はとくにそれが好きだった。わたしは春子のひざに頭をゆだねているうちに、いつもしらずしらずにまどろんでしまい、耳元の彼女の話が、とろとろと遠くなって行くのだった。
そんないろんなプラス要素が春子を包むようにして、この機能回復がおこってきたのだろう。それにしても、十五年もかからなければ回復できなかった体内バランスの乱れは、単に生理機能の有無に現れただけなのかどうか、人の身体とはそれほどに単純ではないと思う。
そしてこの機能回復は、わたしにとっては特別の意味があった。
と言うのは、かって自分を「新婚以来の看護夫」と形容したように、いつかは春子が健康になって、わたしは「普通の夫」にもどれるという、長くいだいてきた願いがあったからだった。健康に食べ、眠り、けんかし、泣き、そして愛し合う、ただそうしたことがいつかはできるはずだと願っていた。
生理の停止を、避妊のいらぬ「恒常的安全状態」と勘違いする男もいた。それはそんな末端的な現象であったのではなく、わたしにとってその停止は、愛情交換の前提となる健康な情熱を、豊かにうるおわせる水脈の枯渇と思えた。
「選び代える」ことで解決するという方法もあった。だがわたしは、その不健康を春子だけの問題にはしたくなかった。いちど失われた健康な女性機能がふたたび春子に回復してくることで、心身ともにはつらつとした健康状態が生む、ふつうの夫婦関係が作りたかったし、それがほしかった。
むろん、この時期まで、わたしと春子との間に性交渉がまったくなかったわけではない。日本にいた頃でも、病身をいたわり、あるいはうとましく思いながらも、やせこけた交渉は行なわれていた。いや、そうでもわたしがそれを強いていたというのが正確かもしれない。オーストラリアに渡ってからも、そうした状態は続いていた。
それがこうして、ようやく春子の身体に長く失われていた体内不均衡が克服されてきたサインが見えたとき、わたしは、ゆたかな「水脈」がもどってくる時もそう遠くないと思いはじめたのだった。
オーストラリアの夏が終わりかけようとしていた四月、ワードサービスの会社での翻訳のアルバイトがしだいに固定した仕事となる一方、わたしは、大学での最後の年へ意気込みとともに、コンピューターを使った論文作成方法に期待をふくらませていた。
事実、三年目の大学院生活はもっとも安定し、充実していた。授業への対応はほぼ要領をつかんでまあ順調だったし、アルバイトも副業とはいえ、しだいに生活の一部となり始め、単調になりがちの毎日に変化を与えていた。それに何より、春子の健康状態がもうかつての病弱なころを忘れさせるほどに、活発さのあるものへと向上していた。
四月の中頃、そうした前進の産物と言えるのであろうか、自分達の今後について、わたしと春子との間に考えの相違ができ始めていることが明らかとなった。
わたしはその頃、オーストラリア滞在については、大学院終了後もいくらかの延長は考えていたが、いずれは帰国するものと想定していた。なによりも、組合からは長期休暇を取得中の立場であったし、仕事への復帰がともかく頭にあった。
だが、春子はこの頃からはどうも、具体的な永住とのイメージはなかったとしても、日本にはしだいに帰りたくない方に傾いていっているようだった。そして彼女なりに思い切った考えだったのだろう、ずっと滞在して働き、わたしにはアルバイト程度の仕事は期待するにしても、研究を続けさせたかったようだ。わたしが何を研究するのかはともかく、ふたりでずっとオーストラリアで過ごしたい気持ちは次第に強まっていたようだった。
わたしの文献カードシステムをフルに利用して書いた演習研究論文は、その効果をあらわして、わたしにとっては初めてのAマークをもらえた。
またそのほかの四単位の教科も、一つのCプラスを除き、すべてBかBプラスとなり、あきらかに尻上がりの成績をしめしていた。
しかも、この年の後期には、一年目で取り残した法規の一科目をふくめ、三科目を履修し、一年では合計五科目をとった。三科目といえば、一年目の一年分の科目数であった。こうした科目数でみた量的な点でも、向上はあきらかであった。
こうして一九八八年十一月、合計十二単位すべてに合格、成績の上での低空飛行はいなめなかったものの、ともあれ、留学のゴールとしてきた大学院コースは、予定期間を一年延長した四年間で、無事、達成できたのであった。
かくして当面の目的が達成されたのではあるが、わたし自身は、その後の方向についてまだ迷いをもっていた。ひとつは予定通り帰国し、この四年間の経験と勉強を日本のもとの仕事に戻って生かすことであった。もうひとつは、さらに延長して滞在し、こうして終らせた修士の基礎知識を用いて、自分が経験してきた日本の事例に体系的な照明を与える研究をしたいと思うようになってきていたことだった。
こうした、いわば帰るか残るかの迷いであったが、外的な要素は、わたしをむしろ後者のほうに押しだしていた。
第一は、復帰を予定していたもとの職場は、外部の組織に出向していたもと事務局長が労働界の組織再編の影響で、ふたたび戻ってくる事情が生じており、予算的にわたしの復帰は難しくなっていた。
第二に、なによりも春子は、ここで帰国することはもはや望んでおらず、ますます愛着を深めるオーストラリアの生活をさらに継続したいようであった。たしかに仕事は不満足なものだったが、だからといって日本に戻っても、彼女にとっての新しい希望は何も考えられなかった。
わたしは、労働史を教える講師のピーターにPhD(博士)コースへ進むことの可能性を相談した。彼はそれに賛成してくれ、さっそく準備してくれた。そのころまでに、わたしはこの面倒見のよいピーターをもっとも信頼するようになり、いろいろと相談をもちかけるようになっていた。
わたしは、このなかば周囲頼りの決定が少々不本意であったが、むしろそれが無理のない選択の証拠でもあった。わたしはPhDコースの監督教員にピーターを指名し、博士課程への進学を申請した。
クリスマスを直前にした十二月二十一日、わたしはピーターからの電話連絡で、大学がわたしの博士課程への受け入れを決定したことを聞いた。
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