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 「両生空間」 もくじへ 
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2 遠大な転地療養




 わたし達がパースに着いた時、わたしは疲労困憊していた。
 加えて出発の直前に引いた風邪のため、のどを痛めて声も出なかった。さいわい熱はなかったが、かろうじてたどりついた街外れの安ホテルで、不安を胸に見なれぬ街並を見やりながら、週末にあたった二日をただ体を休めるために費やしていた。
 週明け、まず最初にしなければならなかった仕事は、パース市の郊外にある西オーストラリア工科大学内の英語学校をおとずれ、諸手続きをすませることであった。朝、わたし達はホテルを出払い、とりあえずの生活必需品をつめこんだ大きなバックパックを背に、教えられたバスに乗ってその大学をたずねた。
 その大学のキャンパスは、こうした荷物を持って歩くのがいやになるほど広々としていた。設立後まだ年が浅いのか、新しい建物が若々しい芝地や木立ちの中に点在していた。 英語学校のオフィスは、その一角に、内部が吹き抜けのしゃれた建物の中にあった。
 わたし達は学校職員のきさくな歓迎をうけてひとまずほっとした。さっそく、留学生向けコースと当地での生活のガイダンスをうけ、登録手続きをすませた後、手助けの職員の車に同乗してこれからの生活をはじめるアパート捜しに出かけた。
二、三の物件を見てまわった後、当地としてはこじんまりとした敷地に立つアパートの、角部屋の明るい一寝室のユニットに決めた。週四十二ドル、今のレートなら三千円程度だが当時では八千円ほどに相当した。パース中心からバスで十分ほど、英語学校までバスで十五分ほどの場所だった。
 わたし達の経済的な支えは、日本から持参したささやかな蓄えがたのみだった。いかにそれを倹約して使うか、それが始まったパースでの生活の第一原則であった。一日でも長い滞在を可能とするため、わたし達の生活は、いやでもおうでもつつましくせざるをえなかった。
 わたしは学校へ通うバス賃を節約するため、毎日歩いて学校と自宅間を往復することにした。学校まではわたしの足で片道五十分かかった。そして時間を無駄にしないため、どのみち必要なリスニングの訓練をこの時間に行なった。日本から持ってきていたウォークマンを用いて、歩きながら会話のテープを繰り返し聞いた。まわりには誰もいないので、声を上げての発音練習にも気がねの必要はなかった。
 こうして大学卒業以来十数年振りの学生生活が始まった。十一月の上旬、パースは夏のはじめだった。
 通学をはじめてすぐ、途上の住宅街のあちこちで、紫の花を木いちめんに咲かせいる樹木に目がとまった。あとでその名をジャカランダと知った。真っ青な空を背景にしたこの花を見上げると、出はじめた若葉の緑も混じって、紫、青、緑のなんとも言えぬ美しい色のハーモニーがわたしを迎えてくれていた。
 また、小高い丘に上がって見渡すと、街一面にジャカランダのうす紫のかすみがいく筋もたなびき、わたしは思わず「オーストラリアの桜霞だ」とひとりつぶやいていた。
 あれから十数年を経た今になっても、毎年、ジャカランダの花が咲く頃になると、この最初の年のシーンを思い浮かべて感傷的になる。その先いったいどうなるのかと、まるで小学生の一人旅のような不安な胸中を安らげてくれたこの花は、わたし達にとってはオーストラリア「上陸記念」の花であり、その出発点である。毎年この花に再会するたびに、あの「上陸地点」からここまで、よくやってこれたものだと感慨にひたるのである。
 留学生のための英語強化コース、略してELICOSと呼ばれた英語学校では、正直なところ、借り物のような毎日であった。もうすぐ四十になろうという男が、二十歳に満たぬアジア各国からの若者たちにまじっての学生生活だった。おとろえかけた記憶力に加え、いい年をしてといった自嘲にも似た落ち着きのわるさが手伝って、進歩はかんばしくないと思えて毎日うかなかった。それでも、経験からくる工夫は働き、ごまかしごまかし、なんとか日々をこなしていた。
 わたしはそれでも、明確になすべきことが毎日用意されていたからよかった。英語学校では、わたしはともあれお客さんであり、それなりに丁重にあつかわれた。いっぽう春子は、毎日、アパートに残されたものの、わずかな家事を除いて、することは何もなかった。いや、したいことは山のようにあったのだが、それが容易には許されなかった。そこはなんといっても外国であり、お客さん扱いなどしてくれぬ生の世界だった。
 言葉の壁を筆頭に、法的制限や生活全般へのうとさなどが重なり、日本で「ちょっとパートの仕事をみつける」といった具合にはいくはずもなかった。
 それに、ゆっくり休養していればよいと言うのはいわばきれい事で、苦労性の彼女に、何もしないで蓄えをひたすら食いつぶすことは、耐え難い心理的苦痛だった。
しかもその蓄えといっても、おおまかな計算では二年間は何とかもつとはいうものの、目標である大学院を終えるには、少なくとも三年間は必要だった。一年間分の収入を何とかして工面しなくては、わたし達の計画が途中で破綻するのは必至だった。
 わたしはそうした計画性において、なんとかなるさのいいかげん気質丸出しだったが、それでも、英語の修得を優先させ、その後アルバイトをして補う計画だった。だが、なんとかなるかどうかの心配は、それを実際に深刻に感じてしまう春子の上にいっそう重たくのしかかった。
 彼女は物心つくころに苦労して育っただけに、実益をあげることをして、自分がそこで無駄飯を食んでいないか、あかしをもとめようとしていた。
 さいわい、近所に親切な老人夫妻が住んでいて、まず春子が知り合いになった。
八十歳の夫と九十歳になる寸前の妻という組み合わせもまれな高齢老人カップルであった。だが、ことにおばあちゃんのアイビーは、その年にして驚くほどの頭の冴えを保っており、わたし達の世話もてきぱきとそして親身にやいてくれた。
 英国ヨークシャー出身というアイビーの思い出話によれば、若い頃、紡績工であったという。そして、その頭のよさからだろう「小さなロシア」と呼ばれてしたわれていたという。一九一七年のロシア革命当時の話である。
 わたしには、そんな「大お婆あちゃん」の昔ばなしに、日本でなら、つらかった奉公生活とでもいったストーリーが聞けそうに思えた。ところが、アイビーの話はそうではなく、今でも通用するような組合運動のようすが語られるのを聞き、驚きとともに、日英の歴史の違いを深く実感させられた。
 アイビー夫妻はつつましい年金生活を送っていたのだが、その中からわたし達のために、余分だと言って食物や衣類をいろいろと分けてくれた。
その最初は、わたし達がテレビもない生活をしていると聞いて、古くなって物置で眠っていたテレビセットを譲ってくれた。そのおそろしく旧式の白黒テレビを見るのは至難のわざだったが、その親切が心にしみた。
 また特に春子のために、地元の教会に働きかけて仕事を捜してくれた。それに春子にはなによりも、そのふたりと話しているだけで、料金のかからぬ英会話の練習になった。


 春子が知り合いとなってくる人達は、かいわいに住むいわば社会の弱者といってもいい人々だった。
 そうした人達には、ひとり住まいの年金生活の老婦人や、労災事故で腰を痛め、補償金で孤独な生活を送っているほとんどアル中の中年男がいた。
 そうした人達だから、この貧相なアジア人学生夫婦を受け入れてくれたのかもしれないし、そうした人達だから、わたし達も気おくれせずに話しかけることができた。
 やや後で知り合いとなった人だが、そうしたひと達の中に、奥さんと離婚し静かに単身生活を送っているスリランカ人の盆栽愛好家がいた。彼は自宅のあき部屋を日本人留学生専門に貸しているという日本びいきだった。MBA学位をもつほどの人なのだが、州政府のある管理職につきながら、その控えめな性格柄、文字どおりひっそりと暮らしていた。
 この人も、失礼ながら何か下心でもあるのではといぶかしく思われるほど親切な人物だった。この人はその後ながくわたし達のことを気遣ってくれ、後に春子が自動車免許をとろうとした時には、自分の車を提供して運転技術の指導をしてくれたり、わたしの英語家庭教師の役をしてくれたり、わたしたちの住まいの問題にも知恵をかしてくれたりした。
 こうした彼の愛他主義的な親切心には、母国スリランカの仏教文化の伝統もあったのかも知れない。
 役に立つだろうと春子が日本で学んできた日本語教師のしごとは、スーパーの掲示板に広告を出したりもしたのだが、なかなか生徒がみつからなかった。というのも、オーストラリアでは、政府の用意する短期の実技教育コースがいくつもあった。そうしたコースはほとんど無料だっため、当時の普通のオーストラリア人には、外国語会話を自分のお金を払ってまで勉強しようとする感覚は少なかった。
 公立、私立双方の学校で日本語教師の職の募集もあったが、高卒で正式な教員資格をもたない春子は、その入り口で閉め出された。
 それでも、ある奥さんが、春子の人柄にも好意をもったのか、比較的長く生徒として春子から日本語をおそわった。旦那さんのジェフのお母さんは、戦後すぐのころ日本からオーストラリアに嫁いできたいわゆる戦争花嫁で、ジェフはそのひとり息子だった。
 彼は背も低く、外見も全く日本人で、お好み焼が大好物だったが、英語しか話さなかった。当初わたし達は、そうしたジェフと日本語なしで話しをするのに、なんともとまどいを感じたものだった。
 やがて両家族は互いに友人同士として親しくするようになり、わたし達はよく、彼らの家に夕食によばれたりした。
 春子が最初にみつけた仕事は、小さな日本食レストランのウエイトレスだった。はじめはランチタイムの間の二、三時間だけの仕事だったが、仕事を失うまいと春子は懸命に働いた。そのまじめな働き振りが気に入られ、やがて夕食の時間帯にも仕事をもらえるようになった。レストランのお客さんにも受け入れられ、チップも収入の幾らかの足しになるようになったし、顔見知りの人も増えてきた。
 そうしたお客さんの中に、後に、このレストランのきつい仕事を辞め、自分の店を手伝ってくれないかと誘ってくれたトニーがいた。
 初めて迎えた新年には、このレストランのオーナーが、自宅での集まりにわたし達をさそってくれた。
 この人は、マグロ船の元乗組員で、インド洋で操業していた際、一本釣りをしていた釣針が目にささって片目をなくし、その負傷をきっかけに当地でこの商売を始めたという。
 仕事がら地元の日本人関係の事情には明るく、その集まりでも、いろいろな話しが聞けたし、いろいろな人々にも会えた。
 また、それはわたしには願ってもない申し出で、わたしはとびつくように受け入れたのだが、誰かが帰国の際に残していったという自転車を、どのみち使っていないからといってわたしに譲ってくれた。
 英語学校には、わたしは一日も欠かさずに通った。
 もらった自転車のおかげで、通学時間は大きく短縮されていたし、行動半径もうんと広がり、市内のほとんどどこへでも自転車をこいででかけていった。街のあちこちに、自転車専用路があり、わたしのような実用目的はまれだったが、多くの市民が利用していた。
 英語学習の進捗にあいかわらず自信はなかったが、そのあとの目標だけははっきりしていたので、しだいにわたしなりの希望や注文を教師に言うようになった。
 毎日の授業では、いろいろな想定でテキストや教材が選ばれていたが、その多くはあまりに一般的で、わたしの興味をそそるものは少なかった。そこでわたしは、選択のきくものであるなら、作文のテーマや文章読解のテキストなどを、わたしが関心をもつ分野から選んでもよいかと尋ねてみた。
 この場合でもそう感じたのだが、オーストラリアでは、その希望が合理的であれば、その担当者のできる範囲で、驚くほど柔軟に取り扱ってもらえることが多かった。
そうしたフレキシブルな取り扱いの事柄のうちで、格好の事例としてあげたいのだが、ひとりの教師は、英語学校が属した西オーストラリア工科大学の大学院で行なわれているあるコースに、わたしを聴講生として迎え入れてくれるよう手配してくれ、了承をとってくれたのだった。
 このコースは、わたしが目標としている労使関係学分野での、大学院コースのセミナーだった。関連する主要分野からテーマとなる人物をまねき、そのスピーチを題材に討論を行なうものだった。
 セミナーは週一回、夕方五時半から休憩をはさんで二時間半ほどにおよんだ。学生は十五人ほどで年齢は三十歳前後が多く、ほとんどが職をもっている人達だった。そのため、日本でいえば夜間コースのように、夕方から始まるプログラムとなっていた。
週に一度、わたしは昼間の英語のクラスが終わったあと、この特別扱いに気を良くしながら、そのセミナーにのぞんだ。
 この聴講生体験はわたしをいろいろに刺激した。
 第一に、わたしの英語が、こうした実際の場ではほとんど役立たないことがわかった。
 また、実社会の人々と問題にじかに接することができたことで、まさしく生きている会話の実例を目のあたりにできた。おかげで、わたしの英語学校でのある種の退屈さはふっとんだ。そして具体的な関心が学習意欲といっそう結びつくようになり、プラスの噛み合い効果が生まれるようになった。
 夏が近ずき、英語学校のコースも終わりかける頃、紹介されたある組合役員の計らいで、地元の労働組合が主催する三日間の合宿セミナーに参加させてもらった。
この場合も、人々の実際の活動や生活様式を自分の肌で知ることができた貴重な体験であった。ちなみに、この参加費用は組合側で負担してくれて、さらにわたしは、地元で学ぶ日本からのゲストとして、文字通り大歓迎された。
 労働組合ならいずこでも連帯行為は第一原則ではあるのだが、わたしはこの体験で、オージーの底抜けのきさくさが、それを上回ってわたしを仲間扱いしてくれていたのだと分かった。


 わたし達の毎日の生活は切り詰めたものだったが、それでも、夜、就寝する前にふたりして「いっぱいやる」ことが、日々のささいな楽しみであり息抜きだった。酔いが回るにつれて、会話もはずみ、昼間の疲れもいやされ、その日一日の苦楽の交換もできた。

 飲む酒はいつもカスクと呼ばれる四リットル箱入りの「お買い徳」ワインであった。カスクには小さな蛇口が付いていて、グラスにつぐのが容易だった。
 そうしたカスクワインは、当時、セールの際には一箱二ドルを切っていた。わたしは、安売りの広告を見つけるたびに、その酒屋へと自転車を走らせた。
 そうしたある夜、わたしは、しだいに高まる自分の語学力不足へのフラストレーションと何とか弱点を補いたいとの一心から、春子に「酒をひかえたい」と切りだした。飲酒が記憶力の減退に影響していると信じたからだった。
 他方、春子はそのころ、わたしが何かを思い詰めていると受け止めていた。そしてその夜わたしに、「四年でも五年でもかけて、グータラやろう」と言い出そうとしていたところだったという。
 また、そうとはっきりと言いはしなかったが、そのころ春子は、わたしの英語が彼女のものを追い越したと思い始めていたようだった。
 パースに着いたばかりのころは、あきらかに彼女の英語会話をわたしは頼りにしていた。だが、わたしは毎日英語学校へ通い、春子は働きに行った。
 わたしは働く現場での経験もおろそかにはできないと思っていたのだが、ウサギがカメを追い越すような逆転だったのかも知れない。春子はそこで、「英語でも負けてしまった」と思っていたようだった。
 わたしは、そうした春子のくやしさ、やるせなさを解らぬまま、その夜春子に、そのささやかな楽しみの機会の制限を一方的に通告したのだった。
それは春子には一種の裏切りとも切り捨てともうつったようだった。


 英語学校では、常時六十名前後の留学生が学んでいた。最大グループはマレーシア人、第二が日本人、それにインドネシア、ホンコン、韓国、台湾などがつづいた。
 日本人は二十人ほどで、その半数強が二十歳前後の、わたしの言う男女の“子供達”で、残りが二十歳代後半から三十歳代前半の女性達であった。
 「子供達」はほぼ全員が親のすねかじりで、オーストラリアでの青春をまさに謳歌していた。他方、かれらに較べればだいぶ年かさのお姉さんたちは、ほとんどが自費留学で、その期間も親がかりの子供達よりはるかに短かかった。
 授業への熱心さという面では、この年かさ女性群団は他を圧倒し、むやみに休んだり遅刻したりする人などは皆無だった。
彼女たちの留学の動機をわたしが聞いたなりにまとめてみると、それまで勤めてきた仕事に限界を感じて退職し、わずかな退職金と貯金してきた蓄えを自分に投資して、せめて言葉の壁をやぶる力をつけ、自分の次の人生への飛躍のきっかけをつかみたい、といったものだった。
 中には、オーストラリア男性との結婚に、明快にねらい定めている女性もいた。
いずれにせよ、彼女達の真剣さには目をみはらされるところがあり、わたしはこうした女性達を、日本の「社会難民」となずけた。
 最近聞いた話では、今日でも多くの英語学校で、日本人留学生の構成は同じようであるという。
 そうした学生達の中で、最高齢でしかも男のわたしは孤独であった。
 年かさ女性軍団の女性達ともっとも話しは合ったが、それも相対的なものだった。
いっぽう、わたしのアルバイトは、その積もりはあったが実際の仕事はなかなかみつからなかった。そんなある時、日本に留学したオーストラリア女性がパースに戻って通・翻訳会社を設立し、わたしにアプローチしてきた。先に日本食レストランのオーナー宅で紹介された人だった。
 これをきっかけに、彼女のビジネスを時折手伝うようになった。また、彼女が日本人向け観光ガイド業にもビジネスを広げた時には、春子もガイドとして働くことになった。個性の強すぎるビジネスウーマンであったが、世話になった人だった。


 十一月の末から十二月の初め、パースでは、まさしくこれが青空という青空と、厳しいほどの太陽の季節が始まる。
 この夏の年末の時期は、オーストラリアでは終業と門出の時であり、また、まだまだ 夏のさかりの二月末から三月始めは、入学とフレッシュマンの季節だ。
 わたし達がジャカランダの花に一年振りで再会するころ、わたしの英語学校での課程も終わりに近づき、いよいよ大学院への入学許可を得る、つめをおこなう時期となった。
 目標としていた大学院のある西オーストラリア大学は、英語学校が属していた西オーストラリア工科大学とはことなり、州で最古の歴史をほこり、そのキャンパスも長い歳月を十分に感じさせる重厚さがあった。
 この大学のキャンパスは、パース市の中央部にスワン川が形成する景観みごとな湖水に面し、緑濃い樹木に囲まれて公園を思わせるたたずまいをみせていた。
 この大学には、数ヵ月前から入学の志望を伝え、経済学部労使関係学科修士コースの責任者であるM教授からは、許可の可能性の大であることを伝えられていた。
 通常の場合なら、語学留学生は課程終了の際、英語能力試験を受け、志望する教育機関にふさわしい語学能力があるか否かを試された。
 ところが、再度このM教授と会ったところ、わたしは、この試験の合否にかかわりなくそのコースへの入学を許可するとの扱いを受けることとなった。不自由な英語を通じてではあるが、日本での労働組合経験とことに労働安全衛生面での業績を強調したことが役に立ったようだった。
 M教授は、わたしが彼の運営するコースに参加することを歓迎し、わたしの「英語の理解力は当学位を修得するに十分と判断される。会話力に難点があるがそれは重要度は低い。したがって、彼の英語の技量は当コースへの入学を許可するにあたっての妨げとはならない」と判断してくれ、その旨の文書も書いてくれた。
 一方、こうした大学院進学の事前準備と平行して、奨学金の可能性をさぐっていた。
 日本での経験から、初めのうちは、正規の大学院コースとはいえ、労働組合関係の勉強に何らかの公的経済援助があるとは考えられなかった。
 しかし、日本の常識が必ずしもオーストラリアでもそうであるとは限らなかった。前記の通・翻訳会社の女性社長の情報から、オーストラリア政府の豪日交流基金が支給する奨学金に可能性があることがわかった。自信などはもとよりなかったが、可能性を試すつもりで、正式な申請書類に合わせて、上記M教授の入学“内定”の文書やこの社長の紹介状、日本からの推薦状も添付し、英語学校の終了までに申請手続きをすべて済ませた。
 十二月の中旬、大学院への入学と奨学金の支給の両方の許可が相次いでおりた。
大学院への進学については是が非でも達成したかった関門であったが、奨学金については思いもしていなかった収穫であった。
 奨学金の決定通知によれば、わたしは授業料が免除されるだけでなく、生活費、研究経費が支給され、授業料を別に、毎月九百ドル(当時の換算で十二万五千円)、総額では年間で一万六千ドル(約二百二十万円)にもなるもので、すべて授与だった。これが、通常は二年、状況に応じては三年間への延長も可能という。
 わたしにとっては「なんと寛大な」と思えるこの支給決定により、わたし達の資金計画は、その大半の支出の必要がなくなるほどにも、一挙に好転することとなった。
 労働組合運動の勉強に、しかもこのような豊かな政府の奨学金が支給されるという信じられないような計らいに驚かされながら、わたしは、オーストラリアの政治、社会状況と日本のそれとの違いをひしひしと感じた。
当時がそうであったように、労働者の政党、労働党が政権をとっていることとはそういうことであった。
 わたしは、労働組合の専従役員をしながら、日本ではいささか肩身の狭い思いをしてきたが、オーストラリアに来て、そうした生き方があたかも報いられたかのような気持ちにすらなった。オーストラリアという国を選択したことが間違いではなかったとも思った。
 ところが、わたしを喜ばせたこうした進展は、思わぬ反作用をもたらした。
 わたしが大学院入学と奨学金支給の決定を受け取ったことを知らせようと、日本の両親に手紙を書いた時だった。書き上がった手紙を春子に見せたとき、それを読む彼女の表情がおおきく曇った。
 翌朝、わたしの机の上に、次のように書かれた春子のメモが置かれてあった。

 あなたの両親へあてた手紙をよんで涙がとまりませんでした。そしてあなたの気分を害することなく私の気持ちを伝える方法を一晩中考えました。そしてこの方法をとりました。お父さん、お母さんに奨学金の明細をことこまかにつげなければならない義務と必要性があるのでしょうか。もし私のおねがいをきいてくれるのならば、手紙に×印をつけた部分をはぶいてほしいのです。だまっていようとも考えました。それではひきょうだと思ったから、一応私の気持ちの一部を表わしました。分金島田の時のように、ここへ来る前の時のように、今までの色々な時のように。
 それから奨学金をことわることも考えました。できることなら、あなたと二人で生活していくにはその方がいいと。でも残念ながら、くやしいけれども、自信がありません。外国でお金をかせぐことのむずかしさを、いたいほど実感しています。なにより、もうつかれました。
 奨学金の申請には、わたしは春子の健康のためにもそれが必要とさえ考えていた。そこに、その本人からのこうした願いであった。たしかに健康上ではもう必要のないことかもしれなかった。だが経済上のなんらかの手当は避けられなかった。その手当が必要な以上、支給が決定された奨学金を受けとることは、春子に苦労をさせたりアルバイトに時間をさかれるより、わたしにとっては、はるかに目的にかなっていた。
 もし奨学金を受け取るべきではないとするなら、わたし達の計画が経済的に十分達成可能でなければならない。しかし、この最初の一年で、たとえふたりで協力し合ってゆくとしても、外国で素手でそれをなしてゆく困難さは十分に経験できていた。それに、これは後で解ることだが、一年をなんとか延長した三年であるどころか、実際には大学院に三年を費やし合計四年を必要とする。心情はともあれ、経済的にわたし達の計画に無理があったのは確かであった。
 そんな後の結果は知るよしもなかったが、わたしは、奨学金受領と春子との絆の問題については、両立のできない二者択一の問題とは考えなかった。両立しなければならないし、学位の達成ができたとき、春子との絆もより深くなっているものと信じた。
わたしは当時のノートのページをくって、その頃、わたしが何を考えていたのかをそこに探してみた。一九八五年十二月二六日のノートにこう記されてある。

 今、私の体の内を、あるくすぐったさが頭をもたげている。
 今まで何でもなかった諸手続きのファイルが、言わば有価証券のそれにでも変じたかのように、何か私にとって重大な価値があるかのように感じられはじめている。
 あるいは、ただの渦巻く自我意識の固まりだけであった内界が、突然に何物かによって価値づけられて、あたかも高価な値段を付された商品のように捨てがたい何物かに変じようとしている。
 これは実体ではない。一種の仮構だ。トリックだ。まして信ずるに足る自己の内実とは、全く、無関係のものだ。
 春子は、きっと、働くことをやめはしないだろう。彼女は知っている、その実体が何物であるかを。だから、彼女は見失わない。

このノートからすると、わたしがその当時、自分に生じ始めている変化に気付いていたのは確かなようだ。
 ともあれ、この思いもしない幸運に出会い、わたしの大学院生活が始まるのであった。
 わたしは、春子の希望にそって、バツ印の付された部分を削除した手紙を書き直し、それを日本へ送った。一九八五年の十二月も末になろうとし、クリスマス気分が高まっている時だった。


 クリスマスから新年への時期は、オーストラリアは年中でいちばん陽気で、そしてお祝い気分に満たされるシーズンである。
 だが、そうした雰囲気に反して、春子のしずみ具合はしだいに深まるようであった。加えてわたしは、迫ってくる大学院コースの開始を前にして、やりきってゆけるのか 不安に緊張をたかめ、その未知の体験への突入準備に日増しに関心を傾けていた。
一月の中頃、春子はわたしにこう言った。
 「『こじき』になったり『金持ち』になったり、いつも追っかけていなくてはならない」。
 奨学金の支給決定をわたしが受けたことは、春子から何かを奪ったようだった。たとえその働きが十分ではない経済的な支えだったにせよ、そこに彼女の役目ははっきりと存在し、二人は互いを必要としていた。また、誰でもそうだろうが、「患者」として特別に見られることは、その人自身の、全面ではないにせよ、否定である。春子はだんだん自分が必要でなくなっていると感じていた。
 二月一日、大学に近い二寝室のアパートへ引っ越した。その場所は、これまでのアパートからはパースの中心地をはさんだ反対側で、大学まで自転車で十五分程の距離だった。家賃はわずかな増加ですんだ。二つの寝室をそれぞれの部屋として使うことにし、わたしの部屋には、粗末なダブルベッドが備え付けてあったが、わたし専用の勉強部屋にした。
 引っ越しにより準備が整うにつれ、わたしの緊張はますます高まり、そのため自分自身の矮小感にもとらわれていた。
 二月中旬、春子がふと、「もういちど『智恵子抄』を読んでみたい」ともらした。以前、まだ病気からの回復もあさい頃、春子は『智恵子抄』を熱心に読んでいたことがあった。彼女はその智恵子に、何か特別の親近感を持っているようだった。
 その数日のち、それは偶然であったのだが、大学の図書館で朝日新聞を読んでいて、ひとつの記事に目がとまった。『智恵子抄』に新解釈を与えているある若手女流批評家についての囲み記事だった。その記事は言う。

 高村光太郎と、智恵子の愛の伝説にあえて、異議を唱える。ともに古い役割分担意識の枠を超え得ず自滅に向かった女、無意識のうちに妻の自己実現の可能性をおしつぶした男。『智恵子抄』は二人の愛の墓標である・・・
 昭和六年以降、智恵子は精神の均衡を失って狂気への道をたどる。「私には、夫とのかっとうを自ら避けて自己実現の欲求を抑えつけた智恵子に、どうしようもなく現われて来た空虚といらだちの果てではなかったかと思えてならないのです。」
 わたしは、『智恵子抄』にまつわるこうしたふたつの言及に、ただの偶然ではない、冷たいものが背筋をよぎる、ひとつの重なりあいを見た。智恵子と春子に違いはもちろんあるが、ひとりの男に自我を刈り取られる、そうした犠牲の類似性を感じた。
 春子はよく「わたしは古い女です」といった。自分達がオーストラリアにいることは、新しい生き方とか健康のためとかと説得しながら、わたしはそういう春子から、慣れ親しんだ安住の場を取り上げているのかも知れなかった。むろん時間をかけて話し合い、たがいの納得のうえでそれを実行してきた。そうした手順はきちんとふみ、無理や押し付けのないようにしてきた積もりであった。だが、そうした手続き上の適正さが、それだからと言って、その結果の正しさや相手の満足をも保障するものではない。そして、すでに多くを失わせてしまって、戻ろうにももどれないところにまで来ているのかも知れなかった。
 わたしは「大学院なぞブン投げて帰ってもいいんだぞ」と春子に提案してみた。だが彼女の返答は、「私はいつもゴウちゃんの足をひっぱっている」とのことばだった。
その新聞記事によれば、智恵子が狂気の道に入りこんだのは、彼女が四十七歳の時、光太郎との結婚の後十八年してからだ。われわれの場合はこの時点で、結婚後十四年、春子は三十六歳であった。わたしは深い根拠もなく、これらの数字を比較していた。


 大学院がいよいよ始まった。日本出発いらい十六ヵ月目であった。
 予想を裏切らず、いや、それを上回って、それは容易でない試みであった。
 わかり切ったことだが、それは、知らない知識の体系をわざわざ不自由な外国語を媒介にして修得することであった。きわめつきの“道楽”であった。
 授業のほとんどは小人数のセミナーだった。わたしには、討論への参加はおろか、講義を聞いて理解しようとするだけで精いっぱいで、ノートをとろうとするとその間の聞き取りを犠牲にせざるをえなかった。
 読んでおくべき書籍や論文、記事の量が文字通り山のようにあって、それら全部に目を通すだけでも、わたしには不眠不休を意味した。
 授業は通常夕方五時半から、小休止をはさんで九時までだった。この三時間、集中を維持するだけでも大変だった。毎日、午前中から下調べをはじめ、文献捜し、資料読み、レポート下書き、清書と、あっという間に夕方になった。タイプをブラインドで打つ練習もわたしには必須だった。それらをすませて五時半からの前半の授業にのぞみ、休憩をはさみ、後半の部分では意識の集中さえあやうかった。
 授業が終わった時はいつも、頭はヘトヘトで口もききたくなかった。
 当初考えていたやり方が甘すぎた計画とわかった。わたしはそれを早々と断念し、 対策をとった。第一に、聞き取りの援軍として、携帯式のテープレコーダーを使うことにし、毎回、授業にもちこんだ。奨学金の収入の範囲でそれは買えた。
 次に、毎回の授業にのぞんで、体力、頭脳力はすでにもう目いっぱいで、それ以上のレベルアップのためにわたしに使える余力は、結局、時間に求めるしかないことに気付いた。そこで、出来うるあらゆることを、時間で勝負できる方法に切り替えようとした。ノートを取る代りにテープレコーダーを使ったのもそのひとつだし、数時間で終わる筆記試験をレポート提出に代えて幾日もかけられるよう講師と交渉したのもその例だった。
 ただ、セミナーでの討論だけはその場勝負で、この切り替えが不可能だった。しかし、各授業単位で口頭による討論に割りあてられる点数は全体のほんの数パーセントだった。そこでわたしはそれへの期待は捨て、自分のもつ“資源”を残りの点数に集中させた。
 それでも、二年間で終らせる計画でのぞんでいたそのコースの初年前期の数週間を体験し、自分にはその計画があまりに過重負荷であることがわかった。
 このコース修了には十二単位の取得が必要で、はじめは年間六単位、半期三単位でのぞんでいた。しかしこれが過重であった。そこで、年あたりの取得単位数を減らす手続きをとり、三年計画に切り替えた。二単位からの撤退はくやしかったが、その二単位は後の二年で再履修することとし、半期当たり二単位、つまり週二日の授業負荷とした。
 奨学金の支給期間の延長ができたので、この選択も可能であった。つまり、奨学金の支給延長で、わたしに経済的負担はなかったが、時間を買ったのであった。
 この三十三パーセントの負荷の軽減により、いまにも押しつぶされそうだった重圧感がとりのぞかれ、ゆとりとまではゆかないものの、なんとかやって行けそうな見通しがつけられるようになった。だがそれでも、法規の科目はその特殊用語のジャングルにはばまれ、やむなく中途で断念して三年目に回す結果となったのは残念だった。
 こうした対策により、初年の前期で、やむなく筆記試験にのぞんだ一単位は最低合格点のCマークしかとれなかったが、その他はなんとかCプラスマークにもって行くことができた。
 こうして自分のペースを発見できた後期は、あとはなんとか調子を崩さないようそれをキープすることで毎日の生活は回転していった。加えて、しだいに英語に慣れたことも手伝って各単位のマークも次第に改善してゆき、BあるいはBプラスマークも取れ始めた。
 各単位はいずれもが極めて刺激的であり、日本で漠然と考えていたことの多くが、そこでは知識として整然とそれぞれに体系化されていた。目からうろこがとれるような思いをしたことも少なくなかった。
 また、わたしは日本で工学部での大学教育を受け理工系の学問体系は経験していたが、欠いていた人文系の体系に深く接することで、いっそう総合的な知識体系を身につけつつある実感をもった。
 こうして、一九八六年十一月末、低空飛行ながら大学院コース一年目は無事終了した。そしてわたしは二月末までの次年度の開始までの夏休みに入り、一抹の達成感と少しの自信とともに、ほっと一息つけられる状態にいた。
 一方、春子は、一年半ほどを過ごしてきた日本食店を五月にやめた後、店のお客だったトニーの店に移った。この店は、アジアの民芸品やTシャツなどを陳列し、なかにはマリファナ栽培法の本や器具を扱うなど、ちょっと危なっかしげな店であった。しかし、トニーはオージーの典型のような好人物で、また仕事もそれほど忙しくもなかった。おかげで春子はみるみるとその表情が明るくなり、心理的にも健康を回復しているようであった。
 トニーの店はそんな店だったために、その商売じたいが長もちしなかった。辞めさせられはしなかったが、春子は、近くのスパーマーケットのカジュアルという一種の臨時職の仕事をみつけてき、トニーの店をたたみやすくした。
 その仕事は商品の陳列を行なう仕事だった。重たい缶やビン詰の食品など、この仕事は普通は男が行なう職種だったが、そうした仕事しかあきはなかった。
 後に、もう少し身体への負担の軽い職種を希望してそれに移ったが、今度は言葉による意思疎通の問題から、十二月の末には、その仕事から解雇された。春子は「私にあったクリスマスプレゼントだ」と力をおとして言った。

 その時わたしは、大学院初年を無事おわらせたばかりで、安堵のうちにも気分を高揚させていた。こうして一九八六年は、ふたりを明暗にはっきりと分けて暮れていった。


 一九八七年は、来豪いらい続けてきた下積み生活に、どうにか決別をつけられる年となった。
 というのは、その年の八月、アパートの近所に売りに出ている手ごろな家をみつけ、それを購入して引っ越したからである。
 これまでのつつましさをがらりと一転するかのようなこの変化には、それなりの理由があった。
 来豪にあたって、わたし達がわずかながらも生活用の資金を持参していたことは前に述べた。その蓄えが、春子がたゆまずに続けてきた身をけずるような働きにより、ほとんど手付かずでパースの銀行に貯金されていただけでなく、ふたつの理由で、そうとうに成長さえしていたからであった。
 ひとつは、奨学金のおかげで、授業料という最も大口の出費項目が消滅し、それに、その生活費分の一部は、後に備え、とりあえず貯金に回していた。
 第二は、当時、オーストラリアは不景気で、豪ドルの防衛のために金利が極めて高く維持されていた。最も高い時には年十五パーセントにも達していた。この八月といえばオーストラリア「上陸」いらい二年十ヵ月である。その間ずっとこうした高率の金利のもとに置かれていれば、その「虎の子」もけっこう成長していたのである。
 こうして、ある日、知らぬうちにでき上がっていたその資金をもちいると、なんと、近所のその魅力的な不動産がわたしたちの手の届く範囲にあることが判ったのである。
 これには、パースの不動産の価格が、オーストラリアの州都のなかでももっとも安いほうであったこともさいわいした。
 貧乏学生夫婦がいきなり小さくとも住宅の購入をするといった大変化には、わたしたち自身の対応能力ではとても処置しきれなかった。とくに、住宅購入にあたっての諸交渉や手続きは、当地の生活にいくらか慣れてきたとはいえ、その守備範囲を越えていた。
 そこで、先にのべたスリランカ人の友人に協力をあおいだ。彼はよろこんでその役を引き受てくれ、晴れてわたしたちはその庭付きのデュープレックス(二軒続きの家)に住めることとなったのである。


 住宅の確保による生活の落ち着きのなかで、二年目の大学院は、一年目の格闘によってほぼ出来上っていたルーティンをこなしつつ、そのレベルの向上をはかることに費やされた一年だった。
 それに、日本のある月刊誌の募集するエッセイコンテストに応募したところ入選し、その年の七月号に掲載された。千六百字以内という限られた分量だったが、来豪いらい、繰り返し考えさせられてきた日本の政治状況について、「百年来の宿願を成就し、今そのゴールの上で、目標を失い茫然とたたずんでいる」と凝縮させたものだった。大筋でその後のバブルの崩壊と自信喪失の一九九〇年代を予言したような内容であった。この入選は、わたしの物の見方にちょっとの自信を与えるものとなった。
 「暗黒の月曜」と呼ばれ世界を戦慄させた株式市場の反乱が生じた十月、わたし達の間にも小さな事件が起こった。十月末のある晩、わたしは春子に、われわれの生活の再度の“合理化”を提案した。わたし達の夜の飲酒の習慣について、今度は「止めたい」と切り出したのであった。四十一歳という大台をまわった年齢を気にし、健康への心配があったからであったが、春子は別なふうに受け止めた。彼女からのメモはこう告げていた。

 あなたとの清く正しく立派な、そしてとても冷たい人生の中に、私には私のいこいの場を見い出すことができません。
 あなたによって(簡単にあなたの思うがままに)作られ、変えられてきた私。でもあなたがさかんに言うように、私達はもう年です。私にとってこれからの人生のチェンジはどんなにか大変なことか。
 二人だけで楽しくお酒をのむこと、たいへん好きだった。とってもたのしかった。それを教えてくれたことに感謝したかった。もし、こんな結末にならなかったら。
 二年前の同種の提案の時のように、今回も、飲酒の習慣がその後に完全に止められたわけではなかったが、後味の悪いすれちがい感を残した。


 先述のように、当初のわたし達の計画では、この留学は三年を限度に日本に帰ることを前提としていた。資金の面でもそうであったし、住んでいた東京杉並の小さなマンションを期限付きで賃貸していたのもそのためであった。正直なところ、三年という長さそのものにさしたる根拠はなかったが、それがわたし達にその当時に許されうるだろう最長の期間であった。また、オーストラリアにわたり目標を無事達成できるかどうかも全く未知で、何が生ずるか予想不可能であった。それだけに、もしもの場合にそなえて、帰ってゆける場所の確保は、わたし達にとって物理的というより心理的な保険として重要だった。帰るべき所が保障されてさえいれば、少々の失敗にも恐れることなく挑戦できるだろうという心理上の安全弁だった。
 帰るべき場所という意味では、わたしにとって、帰ってきた時の仕事の口が保障されていたことは、この心理的な安心という点で、もうひとつの頼もしい拠り所だった。わたしは、この海外留学に「国際的な労働組合運動の研究」という大義名分をたて、それまで勤めてきた労働組合からは、その仕事に関連ある留学として長期休職扱いにしてもらっていた。したがって、この海外留学後はもとの仕事に復帰できることになっていた。
 そうして、この三年の期限がおわる一九八八年の末を一年先にした一九八七年末、わたしはこの労働組合の事務局長に手紙を書いた。
 すでに四年計画で大学院を進めていることは伝えて了承はえていたが、予想される一年後のこの長期休職の期限切れに備え、その先への見通しを伝えておきたいからであった。
ただ、二年先で確実に帰国するかについては、しだいに不確実になりはじめている心境があった。必要全単位が修得できないことを理由に延長するつもりはなかったが、しだいにオーストラリアでの生活が安定してくるにつれ、わたしには、もっと突っ込んで研究してみたいテーマが出来つつあった。
 また春子も、帰国して以前の灰色の生活が染み込んだ東京に戻りたくはなくなってきているようだった。
 そんな、やや手前勝手な手紙を書いて送って、二年後に備えようとしていた。
大学院の二年目は、ひと単位ごとに四苦八苦する状況に変わりはなかったが、計画そのものから無理は取り除かれていたので、苦労が空廻りするようなことにはならずにすんだ。マークは相変わらず低空飛行であったが、CはなくなりCプラスとBのみとなった。
 この年、先述の通・翻訳会社がその事務所をパース市西部のスビアコに移し、「ワードサービス」業を本格的に始めた。そこは、わたし達の家からも近いこともあり、その会社でのアルバイトが次第に増えはじめた。この会社では、頼まれて日本語を教える仕事にもかかわり、春子のお株を奪ってしまうかのような結果となった。


 一九八八年が開け、二月末より、大学院最後の年が始まるのだが、この年は、新年度のスタートを前にして、わたしの作業に強い味方が加わった。夏休み中に、大学のコンピューター・サポート・センターを通じて、学生割引価格でパソコンを購入したからだ。機種はマックSEだった。
 春子は、事前にさしたる相談もなく、そうとうな出費であるパソコンを買ってしまったわたしに不服気味だった。
 わたしは、パソコンの必要性ばかりが念頭にあり、また必要な費用がないわけでもないので、行なうべき手続きへの配慮に関しては無頓着であった。
パソコンを購入するにあたり、わたしにはある考えがあった。もちろんパソコンの導入で、それまで、日本語ワープロを用いてアルファベット文字を打っていた“前近代的“作業が、飛躍的に高能率になることはその理由のひとつだった。
しかし、もうひとつ、パソコンでなければならない理由があった。と言うのは、それまでいくつもの小論文を書いてきていたが、その準備の段階で、参考文献のカード作りがあった。学術的な論文は文献引用が必修で、それを有効に行なうためにこの作業が不可欠であった。大学の教員ならだれも膨大な数のこのカードの蓄積をもっていた。それは彼等のいわば知的財産でいく年もかけてそれを蓄わえていた。
この作業は、必要と判断される引用文献について、出来合いのカードを用いて、その特定文献自身のカードと、その中から有用なくだりを書き写した引用カードの二種類を作ることである。
これが非常に時間を食う作業であるばかりでなく、そうして作った幾百、幾千枚ものカードのなかから、必要な時に必要なカードを即座に取り出すのがまた大変なのである。
ふつう、著者名をアルファベット順に並べておくのであるが、いつも著者の名前を先に思い出すとは限らない。あることを誰かがどこかで言っていたが、はて、それは誰だったか、そんなことはさかんにある。だがその名が思い出せないと、こうしたカードは死蔵のものとなってしまう。
わたしはこの文献カードシステムをコンピューター化しようと考えていた。今ならはるかに使いよい出来合いのプログラムが販売されているが、当時はまだそれがなかった。
夏休み中の大半を費やして、マックのソフトのひとつであるハイパーカードを使い、この作業に挑んだ。大学が始まるころまでにほぼ原形ができあがり、それをより使いやすいように改良を加えながら、四月ごろまでには、なんとか使える第一次システムを作り上げることが出来た。それは、著者名ばかりでなく、出版年、タイトル、分野の四つの手掛かりから検索が可能で、引用カードはその出典元の文献カードと関連付けられていた。
それからいよいよデータの打ち込みを手の空いた時間を用いて順次おこなっていき、六月の末には、このシステムを用いて書いた始めての論文が完成し提出することができた。
それまで、引用文を捜し出すのに多くの時間を要してきていたが、その作業はほとんど機械的に処理することができるようになった。こうした使い良さが確認され、以降は、文献と引用の数を増やすことが後の苦労を気にせずに思う存分にできるようになり、論文にも幅がでるようになった。
ただ、それでも、難点はいくつかあった。その最大のものは、わたしのように日本との比較の考察が多い場合、引用や文献も日本語のものが必要で、日本語と英語の両方の入力が可能なバイリンガルなシステムをつくる必要があった。ただ、この第二段階への飛躍には、マックSEの容量では不可能で、その開発は、二年後に次の機種であるマックSE/30を購入するまで待たなければならなかった。


 一九八八年の新年が明けてまだ間もない頃であった。春子の身体に変調があらわれた。
 ある時、三日にわたって出血があった。一時は、何事が始まったのかと不安がおそった。だがそれは、ふつうの生理だとわかった。それまで十五年にわたって停止していた生理機能がふたたび春子の身体にもどってきたものだった。わたしは驚かされると同時に、「一生で二回も初潮を経験するのはお前ぐらいのもんだ」と憎まれ口をいって喜んだ。いわば、女として空白だったこの期間、それがこうして終ったのであった。
 たしかに、パースに来てから、春子の身体の調子は着実に改善していた。その温暖で乾燥した気候が体に合ったらしい。
 日本にいたころは、毎年、梅雨時がもっとも調子を崩した時期だった。医師のすすめで、新潟県の故郷にちかい温泉に転地療養をしたこともあった。
 それが、パースへ来て以来、目に見えて効果を発揮していた。体重も回復して以前の体格がもどりつつあった。外国住まいで、生活に苦労はあるものの、周囲に何の気がねもしないでいいことも助けとなったらしい。精神的にも、積極性が増してきていることも感じられていた。パースに来たことは、もっとも遠大な転地療養として、その点では大成功をおさめていたのだった。
 なかでもことに、裏庭つきで、なにはともあれ自分たちの所有する住宅に移れたことは、健康回復のための環境作りという点はいうまでもなく、生活の心のよりどころという点でも、広い意味での療養の仕上げの段階となっていたように思う。その親しみのわく自宅で、好きな土いじりをして、春子は自分のもつ故郷志向に触れるなにかをみつけていたのだと思う。
 その些細な例だが、この家に移ってきて始まったわたし達の週末の午後の日課は、裏庭の芝の上のユーカリの木陰で、たがいにひざ枕で、耳あかや白髪を取ることだった。春子はとくにそれが好きだった。わたしは春子のひざに頭をゆだねているうちに、いつもしらずしらずにまどろんでしまい、耳元の彼女の話が、とろとろと遠くなって行くのだった。
 そんないろんなプラス要素が春子を包むようにして、この機能回復がおこってきたのだろう。それにしても、十五年もかからなければ回復できなかった体内バランスの乱れは、単に生理機能の有無に現れただけなのかどうか、人の身体とはそれほどに単純ではないと思う。
 そしてこの機能回復は、わたしにとっては特別の意味があった。
 と言うのは、かって自分を「新婚以来の看護夫」と形容したように、いつかは春子が健康になって、わたしは「普通の夫」にもどれるという、長くいだいてきた願いがあったからだった。健康に食べ、眠り、けんかし、泣き、そして愛し合う、ただそうしたことがいつかはできるはずだと願っていた。
 生理の停止を、避妊のいらぬ「恒常的安全状態」と勘違いする男もいた。それはそんな末端的な現象であったのではなく、わたしにとってその停止は、愛情交換の前提となる健康な情熱を、豊かにうるおわせる水脈の枯渇と思えた。
 「選び代える」ことで解決するという方法もあった。だがわたしは、その不健康を春子だけの問題にはしたくなかった。いちど失われた健康な女性機能がふたたび春子に回復してくることで、心身ともにはつらつとした健康状態が生む、ふつうの夫婦関係が作りたかったし、それがほしかった。
 むろん、この時期まで、わたしと春子との間に性交渉がまったくなかったわけではない。日本にいた頃でも、病身をいたわり、あるいはうとましく思いながらも、やせこけた交渉は行なわれていた。いや、そうでもわたしがそれを強いていたというのが正確かもしれない。オーストラリアに渡ってからも、そうした状態は続いていた。
 それがこうして、ようやく春子の身体に長く失われていた体内不均衡が克服されてきたサインが見えたとき、わたしは、ゆたかな「水脈」がもどってくる時もそう遠くないと思いはじめたのだった。


 オーストラリアの夏が終わりかけようとしていた四月、ワードサービスの会社での翻訳のアルバイトがしだいに固定した仕事となる一方、わたしは、大学での最後の年へ意気込みとともに、コンピューターを使った論文作成方法に期待をふくらませていた。
 事実、三年目の大学院生活はもっとも安定し、充実していた。授業への対応はほぼ要領をつかんでまあ順調だったし、アルバイトも副業とはいえ、しだいに生活の一部となり始め、単調になりがちの毎日に変化を与えていた。それに何より、春子の健康状態がもうかつての病弱なころを忘れさせるほどに、活発さのあるものへと向上していた。
 四月の中頃、そうした前進の産物と言えるのであろうか、自分達の今後について、わたしと春子との間に考えの相違ができ始めていることが明らかとなった。
 わたしはその頃、オーストラリア滞在については、大学院終了後もいくらかの延長は考えていたが、いずれは帰国するものと想定していた。なによりも、組合からは長期休暇を取得中の立場であったし、仕事への復帰がともかく頭にあった。
 だが、春子はこの頃からはどうも、具体的な永住とのイメージはなかったとしても、日本にはしだいに帰りたくない方に傾いていっているようだった。そして彼女なりに思い切った考えだったのだろう、ずっと滞在して働き、わたしにはアルバイト程度の仕事は期待するにしても、研究を続けさせたかったようだ。わたしが何を研究するのかはともかく、ふたりでずっとオーストラリアで過ごしたい気持ちは次第に強まっていたようだった。


 わたしの文献カードシステムをフルに利用して書いた演習研究論文は、その効果をあらわして、わたしにとっては初めてのAマークをもらえた。
 またそのほかの四単位の教科も、一つのCプラスを除き、すべてBかBプラスとなり、あきらかに尻上がりの成績をしめしていた。
 しかも、この年の後期には、一年目で取り残した法規の一科目をふくめ、三科目を履修し、一年では合計五科目をとった。三科目といえば、一年目の一年分の科目数であった。こうした科目数でみた量的な点でも、向上はあきらかであった。
 こうして一九八八年十一月、合計十二単位すべてに合格、成績の上での低空飛行はいなめなかったものの、ともあれ、留学のゴールとしてきた大学院コースは、予定期間を一年延長した四年間で、無事、達成できたのであった。
 かくして当面の目的が達成されたのではあるが、わたし自身は、その後の方向についてまだ迷いをもっていた。ひとつは予定通り帰国し、この四年間の経験と勉強を日本のもとの仕事に戻って生かすことであった。もうひとつは、さらに延長して滞在し、こうして終らせた修士の基礎知識を用いて、自分が経験してきた日本の事例に体系的な照明を与える研究をしたいと思うようになってきていたことだった。
 こうした、いわば帰るか残るかの迷いであったが、外的な要素は、わたしをむしろ後者のほうに押しだしていた。
 第一は、復帰を予定していたもとの職場は、外部の組織に出向していたもと事務局長が労働界の組織再編の影響で、ふたたび戻ってくる事情が生じており、予算的にわたしの復帰は難しくなっていた。
 第二に、なによりも春子は、ここで帰国することはもはや望んでおらず、ますます愛着を深めるオーストラリアの生活をさらに継続したいようであった。たしかに仕事は不満足なものだったが、だからといって日本に戻っても、彼女にとっての新しい希望は何も考えられなかった。
 わたしは、労働史を教える講師のピーターにPhD(博士)コースへ進むことの可能性を相談した。彼はそれに賛成してくれ、さっそく準備してくれた。そのころまでに、わたしはこの面倒見のよいピーターをもっとも信頼するようになり、いろいろと相談をもちかけるようになっていた。
 わたしは、このなかば周囲頼りの決定が少々不本意であったが、むしろそれが無理のない選択の証拠でもあった。わたしはPhDコースの監督教員にピーターを指名し、博士課程への進学を申請した。
 クリスマスを直前にした十二月二十一日、わたしはピーターからの電話連絡で、大学がわたしの博士課程への受け入れを決定したことを聞いた。


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