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第二期・両生学講座 第12回
とうとう 『相互邂逅』 も、今回で第二部を終え、第三部に入ってゆくこととなりました。
この第三部が、これまでの二つの部と異なるところは、第一、第二部が、いずれも 「過去」 と呼んでいい期間を扱ったものに対し、第三部は、まだ、過去と呼べるほどには遠くない、
「セミ現在」 を扱う点です。
過去が過去らしく扱えるのは、そこに時間の発酵作用が働き、一種の客観化の効果をもたらすためだと考えるのですが、それが、この 「セミ現在」 においては、まだ記憶もけっこう生々しく残っていて、そうした時間による鎮静化効果はさほど期待できません。むしろ、鎮静と生々しさの両方が交錯し合う、混沌とした化学反応が期待できるかも知れません。
そもそも、『相互邂逅』 という題名の 「相互」 たるゆえんも、今の私と過去の私という二者があったゆえのものでした。それが、第三部となって、いよいよ、過去形と現在進行形の区別のつきにくい境界領域に入り込んで行くわけで、この 『相互邂逅』 は、三部構成の物語となって、いよいよ大詰めに入ってゆくこととなります。
こうして、いま私がここに書こうとしていることは、実は、そうした 「作品」 の背後に存在する物書き作業の舞台裏話で、ビジネス用語で言えば、 「企画書」
のようなものです。
そこでの第一のキーワードは、 「両生空間」 の 《時空間》 化です。
これまでの 「両生空間」 たるものは、地理的移動をその呼び名のよりどころとしてきたのですが、なにもそうした移動を伴なわなくとも、人が生きてきたという時間的経過は、地理的な移動に勝るとも劣らない、立派な移動であることです。第一部も第二部も、上記の鎮静化が与えてくれる落ち着きの中で、ノート類の記録を手掛かりに、この 《時空間》 的移動を扱ってきました。
第二のキーワードは、第一部でも第二部でも触れてきたように、そのようにして得られた 「鳥の目」 です。
それが、第三部という、まだ鎮静化の効果が期待しにくい時期を扱うにあたって、こうして獲得してきた 「鳥の目」 がはたして得られるものなのか。むしろ、どうそれを形成してゆこうか、といったところが、ねらいどころとなります。
そういう意味では、これから展開される第三部は、第一、二部で習練してきた 「鳥の目」 法の、適用実験ということにもなります。
展望としては、こうして第三部という 「セミ現在」 で試された経験は、いよいよ、その後のほんとうの 「現在」 にも適用しうるまでもと練り上げられているはず、ということになるのですが、はたしてうまく行くものかどうか。
ところで、私は、この第一、第二部が、私式のタイムマシーンではなかったのか、と考えています。
普通、タイムマシーンとは、現在の空間のどこかが大きく歪んで穴状になっていて、そこに入ってゆくと、その出口が過去のどこかに達している、ということのようです。そうして、その過去のどこかをいじってもどってくると、今の現在を変えてしまうことができるというのが、タイムマシーンです。
そういう意味では、私の 「ノート類」 が、私の寝室で独特な存在感を示しているのは、どうやらその穴の役目を果たしているからのようで、みごとに、過去の自分に出会ってこれました。
では、その過去の自分と会って、何かを変えれたのか。
実は、その変えることが、第一部、第二部を書くという作業を通じて起こったようなのです。
すなわち、書くという作業を行うことにより、もう一度、昔の自分自身を体験し直しました。むろん、それは非現実体験で、私以外の世界には何の変化も与えていませんが、しかし、意識上の体験という意味では、ノートを書くことも作品を書くことも、共に自分にとっての現実体験として同質のものがあります。つまり、それが何らかの変化を形成してきているのは事実で、お陰さまで、書く前の私と、書いた後の今の私とには、明らかな違いがあります。
そして、その違いをフィードバックしようというのが、第三部であるわけです。言ってみれば、その違いを適用して、この 「セミ現在」 に、二重の意味を与えようというわけです。
ではどうぞ、第三部をお楽しみください。
(2009年5月25日)
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