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 連載

相互邂逅 第三部




 ふたつの目標を達成し、エイブたちと始めた会社も軌道にのって収入の目途も立ったところで、僕は、仕事部屋としていたワンルームのアパートから引越しすることにした。論文書き一筋で居た時期はその狭い住居でも十分だったが、そうして、いわば通常の生活に復帰するとなると、もう少し、ゆとりのある住処が必要であると考えたからだった。
 その5年前、なかば偶然に住み始めた其処シドニー南西部の下町だったが、公共交通機関による足の便のよさや、公立プールやジョギングコースが近くにあるなど、多面な生活のしやすさが気に入って、僕は引き続いて、同じ地区に新たな物件をさがした。
 静かなカルデサック(行きどまり)の通りに面した、まだ工事中のアパートに目を付けた。オフ・ザ・プランと呼ばれる未完成物件を図面上で確認して買う方法のため割安で、その三階建のアパートの最上階に位置する、日当たりも見渡しもよい格好な物件だった。そして契約するに当たっては、近所の風聞をさぐる意味や、何よりも、将来、大きな建物が建ってせっかくのその日当たりが遮られるようなことにならないよう、ことに北側に隣接するご近所に当たって、そうした計画の有無も確かめた。
 完成まであと数ヶ月を要していたが、それ以上の物件はなく、僕はそれに決めた。それまでのアパートを売っても、日本円に換算して一千万円ほどのローンが必要だった。だが、二部屋に加え広い居間や台所まで、全室が北向きで日当たりにすぐれ、あらゆる点でまずまずと判断できた。
 97年の6月初め、完成なったアパートに引っ越した。オフ・ザ・プランの利点を生かし、完成前に、所定の絨毯を格上げしてウール50%製とさせた。むろん差額は払った。居心地はさらによくなっていた。
 このアパートは、その規模がこじんまりしていて、各階4戸ずつ全部で8戸しかなく、一階は全部ガレージとなっていた。広々とした専用ガレージは、車を持たない僕には無用だったが、倉庫代わりにも使え、まずは愛用の自転車が一台、ぽつんと置かれることとなった。
 ところで、このアパートを選ぶに当たって日当たりに特にこだわったのは、むろん自分の好みもあったが、そうして二重の目的を達成し、やむない別居の必要もなくなったことだし、それにもまして、孤軍奮闘の頑張りで健康を害し始めていた妻がシドニーにやってきた場合、日も当たらない寒々とした部屋で療養の日々を過ごすことなどにならないようにとの積もりからだった。だが、幸か不幸か、この想定が役立つことにはついにならなかった。

 この新築なったアパートには、階下のまったく同じ間取りの部屋に、ひと足さきに、年配の韓国人のご夫妻が入居していた。最初はほんの挨拶をかわす程度だったが、アパートの管理組合の集まりの時か何かが機会となって、そのご主人が日本語に堪能なのを知った。それ以来、いわゆるご近所つきあい以上の親交をもつようになった。そのご主人は、読書家でもの静かな人物で、お互いに関心をあたため始めることとなった。
 その日が正確にいつのことだったか、はっきりした記憶も記録もないのだが、その年の春口か、翌年の初秋のころだったと思う。僕は、ひとりでよく出かけていたブッシュウォーキング、日本でいうなら山歩きに、彼をさそった。シドニーから西に電車で二時間ほど行くと、標高千メートルほどの、格好な山歩き地帯に達する。その日帰りのハイキングに、彼といっしょに行った。互いに、日本式と韓国式のお弁当を持参して交換して食べ合うなど、一日を快適に過ごして帰路についた。
 一日の同行で、互いに気分が打ち解けていたのか、帰りの電車の中では、思いのほか率直な会話が交わされた。僕も一種の身の上話のようなものまでも口にした。そうしたやや唐突な話の進展に自分でも意外感を抱きつつ、その一方、何か、しばらく振りに会った旧友と話を交わすような、自然な話の深まりを味わっていた。
 彼、バエさん――正確には 「バ」 と 「ベ」 の中間の発音なのだが、日本語ではそれが表せない――は、1931年生まれで、僕より15歳年長だ。親の世代とまでは言えないが、年の離れた兄、とでも形容できる世代関係である。親戚にその年齢の人たちはいたが、これまで僕は、こうした世代の人と親交をもったことはなかった。
 彼が日本語を上手に話すのは、彼の小、中学校時代、日本が植民地化した朝鮮半島の釜山に育ち、日本語による学校教育を受けていたからだ。もちろん、今でもそれほど自由に日本語をこなせるのは、その後も、日本語を用いる鍛練をしていたからだが、その基盤に教育があったことは疑いない。日本側が言う 「日韓併合」 が1910年のことだから、彼の子供時代は、もう、すっかりと日本化された朝鮮社会でのことであったろう。生家は米屋を営んでいて、あたりには日本人が多く住んでいたという。釜山といえば、地理的にも日本にもっとも近接した朝鮮であったはずだ。通った学校も半分以上が日本人生徒で、級長にもなったという彼は、日本人より優れた日本語の作文を書くといって、日本人の先生からも注目されたという。そのまま育っていたら、完璧な日本人になっていただろうと彼はいう。
 彼のお父さんも日本びいきで、日本の進歩的思想に親近感をもっていたような人であったらしい。バエさんが早いころから読書に親しみ、早熟な子供だったのは、そのお父さんの影響が大きいと僕は見る。
 ともあれ、そうして、まぎれもない優等生でかつ 「皇国少年」 であったバエさんは、終戦による朝鮮の解放により、自己を支えていた価値体系の総崩れを体験する。その二重の傷の深さは、日本人皇国少年のそれとは比較にもなるまい。その時、彼は多感な14歳の中学生だった。そうした彼が、かっての日本協力者が売国奴視されるような、天地逆転した社会に放り出されたのだった。
 独立国建国の激情にとらわれながらも、半島は、やがて朝鮮戦争とその後の分断国家の成立へと至る、新次元な植民地の時代へと流動してゆく。
 僕は、バエさんが体験したすさまじく苦難な人生を、しかも、日本という自分の生国が行った行為を通じてそうした苦難さと無関係でない位置にあって、語る資格も、形容する能力ももたない。ただ、彼とこうして出会えたことは、僕にとっては幸運なことであったと心底思う。と言うのは、彼と深い交友関係を持てるようになったという個人的関係の成果を第一に挙げることができ、それに加えて、僕は、彼と出会う以前から、その半島の人々にある強い関心は抱いてきていたし、そうしようとも願ってきていたからだ。だが、具体的に、それをそう進展させる糸口がもてないでいた。それが、彼と出会うことで、一挙に窓口が開けられることとなった。
 このように、バエさんとの関係は、お隣同士に始まる親交関係と同時に、支配―非支配関係にあった隣国人関係という、二つの次元にまたがる人間関係を絡めたものとなっている。
 考えてみると、これまでの僕の人生で、お隣の国の人々と何らかの具体的関係を持つ、何の機会もなかったわけではない。それが、日本にあっては、不自然にも、発展しないままできていた。
 そういう意味では、このオーストラリアと言う多文化実現の地は、そうしたわだかまりを持ち合う関係の人々をも、生活上の偶然という機会でもって引き合わせてしまう、ルーレットのような場である。
 ただ、先にも書いたように、この親交のきっかけは、彼が日本語を話すということにあった。つまり、何か、知らないことを知りたいと望む場合、ことにそれが人に関連する場合には、相手の側にこちらから接近してゆくというのが礼儀というものだ。それにも拘わらず、この僕とバエさんの場合、かっての植民地支配のなごりである日本語が共通語となって、僕には何の努力も歩み寄りも必要とすることなくその恩恵にあずかれている。つまり、かっての支配者側の国民には、今でも利点が働いているということである。これを、ただの幸運として片づけてしまっていいものなのかどうかとも思う。
 もちろん、こうした僕とバエさんの関係が、日朝関係や日韓関係を代表するものではないのは言うまでもない。それは、たんなる個人関係のひとつにすぎない。そうではあるのだが、それが僕の日本時代の同類の体験と異なるのは、そうした親しい友人同士であったとしても、歴史も含む隣国関係という緊張を抜きにはできず、しかもそれが、共通の言語を介して交わし会えるという深みを持てることである。そうして僕は、このここにしかない交友関係を、複雑な気持ちを伴いつつも、実に幸運なこと思うのである。
 僕とバエさんの交友は、こうして、個人関係と隣国関係をまたいで、狭いようで広く、広いようで狭く発展してきている。そして、こと人間の問題とは、こうあるしかないのではないか、とも思う。

 僕がバエさんと交友を始めて、それがゆえに、そしてそれなしにはありえなかっただろう、深く認識させられるに至ったことがある。それは、もっとも大局的に言えば、世界は大国の蹂躙を受け続けているということで、もう少し具体的に言えば、バエさんのような 「朝鮮」 生まれの人にとっては、身近な問題として 「南北問題」 があり続けていることだ。むろん 「南北問題」 とは、大国の蹂躙の結果、南北に分断されたままにされている国民の苦難のことである。つまりこれを反転して言えば、日本はかつてその大国のひとつであったし、戦後では、その地理的歴史的偶然を巧みに活用して、影響力としては、小国ではないのは確かだが、 「中」 国ほどでの追随的位置を維持していることである。
 もう故人となられたが、バエさんの奥さんは、その 「北」 からの難民だった。この一組の夫婦関係を、そうした 「分断」 なき日本流視点に置き換えれば、北海道出身の妻と九州出身の夫という程度の話に過ぎない。そんなことが、隣国の場合には、 「南北問題」 に巻き込まれてしまわざるをえないのだ。むろん、いわゆる 「拉致問題」 は、この問題が日本に及んでいる実例である。
 バエさんにとって、 「南北問題」 は家族問題と不分不離に結びついている。ご夫妻は一男一女をもうけられ、二人のお孫さんもおもちだが、たとえばその二人のお子さんにとっては、両親のことと 「南北問題」 のことは、血の問題として自己に内在している。むろん、それを忘れて暮らすことは可能だ。しかし、それが可能と想像できること自体、多分に日本人的な受け止め方でもある。
 僕はバエさんと出会って以来、国際的緊張を家族問題と背中合わせにして生きなければならない、息詰まる状況を背負った人々を、それこそお隣に感じてきた。 「感じる」 というのは、たとえばイラク戦争とか、イスラエルとパレスチナの対立関係とかについて、その報道に接した際、それを見る姿勢や事実関係を見抜く眼力において、僕のような温和な家族問題しか体験してこなかった者には持てない、鋭さや洞察力を感じさせられるからである。そういう、明らかな差があるからである。果たしてどれほどの日本人が、米軍やイスラエル軍の爆撃で家屋が破壊された映像を見て、即座に、それによって破壊された家族関係や、それを負ってこれからを生きなくてはならない子供たちのことまでをも連想できるだろうか。
 そういう日本人を、さらに彼は 「うらやましい」 と言う。それも、皮肉などとはまったく無縁な、遠い透明な対極からそう言う。
 かく孤絶憔悴せざるを得ない心境を負って生きる人が隣人にいて、僕はいま、深く交友を続けさせてもらっている。
 手前味噌ながら、こうした出会いと発展も、もちろん、オーストラリアでの実の生活が始まったがゆえの成果のひとつである。

 つづく
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