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連載
僕は子供のころ、 「いなか」 がある友達がうらやましかった。あるいは、「いなか」 とは言わずとも、 「ふるさと」 と呼ばれるところと縁がなかった。さらには、両親も、そうした場所をもっていなかった。いや、少し正確に言えば、母は東京、京橋界隈に生まれ育ったので、そこが
「ふるさと」 ではあったのだが、後にその地は無機質なビル街へと変じ、 「ふるさと」 の郷愁を求めようにもその変容は大きすぎた。それでも、幼いころ、僕が育った幾つかの都市では、そのはずれの方に行けば、まだ自然環境は残っていた。だから、そうしたいくつかの淡い自然が、しいて言えば僕に
「ふるさと」 風な思い出を残してはくれていた。だが、それも余りに弱々しく、失われつつあるもの、といった印象の方がまさっていた。
そのように、僕がいわゆる 「ふるさと」 感を持たずに育ったのは、ただ自然環境に恵まれていない都会生活者であったからというばかりではない。僕の家族が、引っ越しを繰り返したからでもあった。つまり、僕が属した家族は、いわゆる中産階級の、しかもそのはしりで、僕はその二ないし三代目となっていた。両親や、父方では祖父の代からの給与生活者、すなわち勤め人で、勤務場所の移動つまり転勤はその宿命とされていた。当然、家族の生活の場も一定の地に定着することはなく、特定の地域に根差す歴史や文化や風習などに染まることもなかった。
逆に、そうであるからゆえに、僕は 「定点観測者」 にはなれず、 「動点観測者」 となった。
ひとつの固定点を中心とした同心円的な視野ではなく、移動による、距離をへだてた視差ゆえの複眼的な視野を、子供のころより体験することとなった。
まだ母方の祖母が存命中、その祖母が母のことを、 「この子は鉄砲玉だったよ。出てったきり、戻ってきゃしない」 と、江戸っ子口調で話していたことがあった。その母は
「府立京橋高女」 を卒業後、親の言うことを聞かず、隠れて今で言うOLとなって、そこで父と出会って結婚した。父が他界し、自分も父のもとに旅立つ少し前、
「あれは丸の内の恋だったのよ」 と嬉々として打ち明けて、いい年となった僕ら子供たちを驚かせたことがあった。
そうした親ゆずりの 「鉄砲玉」 がゆえか、僕はいま、こうしてオーストラリアに着弾したままとなっている。
そのように、いつの間にやら 「鉄砲玉」 そのものと化した自分を、僕は、「ディアスポラ」 (故国を喪失した離散民) と呼びたいと思っている。もちろん、国家手続き上はれっきとした日本人だが、こうした自分の選択の蓄積の結果を、考え方として、あるいは思想として、そう呼ぶのがふさわしいのではないかと思う。
若いころ、当時の成田空港建設反対運動に加わるようにとの、ある政治セクトの勧誘に従えなかった時も、あるいは、勇敢にも独りで世界へ旅立つ親友をうらやましくも見送った時も、いずれも、ジャンプしない自分の不甲斐なさを噛みしめながら
「不動」 に徹していた。だが、それも今になって思えば、そうした時流を、自分に根差す 「鉄砲玉」 根性が、内心のどこかで、とびつくほどのものではないと判断させていたからかもしれない。
しかし、そうして無移動にこだわり、その固定点に居続け、その土着にもまれもまれて十数年をへた後、ようやく、僕の 「鉄砲」 の火薬に点火される時がきた。実におくての旅立ちだった。
特定の土地に生活基盤を持たぬ者が、あるいは、人に雇われ、使用主側の都合で道具のように点々と移動させられる宿命を負った者が、その身に負った根なし性がゆえに、自らを
「ディアスポラ」 と見たとしても、それは、当然といえば当然の成り行きであり、判断でもある。言い換えれば、自分の生活する場とは、それほどの所与の偶然に過ぎない。
むしろ、自分の基点である 「ふるさと」 を持たないがゆえに、自分の生命は非具象的で、生きる場との関係も、偶然か、たとえ何がしかの理由があったとしても、他人の決めたことの派生に過ぎない。そういう根を断たれ、抽象化した自分の生が、具体的に感じられるところと言えば、そうした移動がたとえ不本意にでももたらす、
《視点のずれ感覚》 にしか持ちえない。
ディアスポラ化した僕が、僕自身を発見するのは、したがって、 「ふるさと」 とか 「故国」 とかと呼ばれる固定した場への愛着とか帰属感がゆえにではなく、殺伐とした移動の結果による、複合視野においてである。またそうした移動による複眼視は、単眼視からはえられない、立体像をもたらしてくれる。そういう発見と、それくらいにしか、僕にとっての持ち物はありえない。
ゆえに、アイデンティティーという用語にも慎重にならざるをえない。むしろ僕にとってのアイデンティティーとは、欠如したアイデンティティーというアイデンティティーである。
近代とは、デカルトにせよ、アダム・スミスにせよ、ダーウィンにせよ、その視野は、人のもつ、そういうひとつひとつの立体視による産物であるのではないか。近代における人とは、そうした移動子であることであり、そういうセンサー(感知器)
としてしかありえない、そういう存在であるのではないか。自殺するのも人が動物と区別される特徴だが、もはや自然環境から根絶やしとなっているのも、もうひとつの人の特徴である。だから、そういうセンサーたちは、そうして測定したデータを表出する以外に、するすべをもてない。
そして、近代の国民国家とは、そのように場から離散する国民を、それだこそゆえ、人為的にまとめようとする。したがって、国民国家のシステムとはおしなべて、そうした人為作用のための装置とならざるをえない。今日の
「愛国心」 とは、そういう幻の愛着感を誘導して捏造された、あたかもあるがごときの人工の 「ふるさと」 感の上に映じている虚像である。
そういう意味では、たとえ人が出生国に生き続けようとも、いまや、すでに生まれながらにして、ディアスポラである。 「ふるさと」 にせよ 「故国」
にせよ、そう呼びたい切ない何ものかは、もはや、 「逝きし世の面影」 として、ただ、しのぶだけでしかないものだ。
本来、 「ふるさと」 とは、水や空気や青空のように、そこではそう、誰にでも分かち与えられる、ただのものであったはずだ。だが、それもいまや、 「ふるさと」 らしい 「ふるさと」 は、どこもかしこも観光資源化され、商品となっている。 「ふるさと」 とは、したがって、そこに生まれ育ったものに愛着心を与えるものなのではなく、それがよそ者だろうと誰だろうと、ただそこに居付いてうまく立ち振舞う者へ、現金収入を与えるものとなっている。もはや 「くに」 までもが、売り物となっている。
自然も国も、父も母も、そしてすでに親友のうちの幾人かも、そうした 「逝きし」 事々となっている。
僕もやがて時間の問題として、そうした 「逝きし」 事々のひとつとなるのは避けられらない。
命あるものとは、そういうものだ。そして、命ある無数のセンサーたちが、そのかけがえのない足跡をもって、互いに深く、しのび合い、表出し合う、そういう関係があるのみだ。
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