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第三期・両生学講座 第2回
またしても365日が流れ去り、新たな年を迎えようとしています。
10年前、2000年を迎えようとした時、この四桁の丸い数字に接し、いかにも次の世紀に入る実感がして、何か新時代が来るかの期待を持ったものです。
数字とは不思議なもので、確かに、そういう “区切り” あるいは “節目” の役を果たしてくれているようです。今も、2010年という、これまたちょっと丸い数字を見て、ひと時代を終え、次のひと時代に入ってゆくのかな、との気持ちを抱いています。
ともあれ、365日とは、そういう、何とはなしに 「ひと区切り」 を感じさせられ、いくらか神妙な思いも抱かされる数字なのですが、それにしても半端な数字で、どうして300日でも、400日でもなかったのかと、不可解な気持ちになります。
言ってみれば、この365日――より正確には365.242199日で、そのため、四年ごとにうるう年を入れたり、それでもまだだめで、平年通りのうるう年があったり、数年おきにうるう秒をいれてその半端に合せています――とは、そういう、地球をめぐる、宇宙環境の偶然のもたらした超半端な事実の問題です。私たちは、たったそんなことに過ぎない事象に、区切りを感じたり、神妙になったりもしているわけです。
ところで、この 「両生空間」 長年の読者にあられましては、再開した 「訳読」、 『ダブルフィクションとしての天皇』 が、まったく冗長で、しかもいかにも重たいテーマを扱っていて、ちょっと気楽には付き合えない代物と、うんざりされているのではないかと推察します。
実は、それを行っているこの本人が、いったんそれに取り組み始めて中断したのも、まったく、同じ思いが故にです。それを、気持ちを取り直し、三年もたって改めて再開したのは、その
“うざったさ” の向こうに何かが潜んでいるかの気持ちがしたからで、一種の 「勘」 の働きによるものです。
ことに、日本で生まれ、そこで育った著者のバーガミニの人間性へのある信頼です。つまり、 「著者から読者へ」 に述べられているように、その彼が、その後体験することとなった日本人の二面性、すなわち、あの愛すべき日本人がこんな鬼のようなことをするとの中国での体験、そしてそれがもたらした衝撃をエネルギーとする、著者の抱く疑問とそれを解こうとする精神の働きへの信頼です。言いかえれば、自分もその一人である日本人の、その秘密と真実を解き明かしてくれる分析力において、彼が負うことになってしまった役割は注目に値し、それに優る立脚点は、ちょっと他には見当たらないのではないか、と思われるからです。
これは、そういう彼のライフワークたるこの著作を 「訳読」 していて出会った言葉ですが、今回の掲載分のなかに、 「万世一系の皇統」 というものがあります。つまり、二千年 (神話的にはほとんど三千年) 昔の天照大神を始点とする、以来、綿々と途切れることなく継がれてきた天皇家による統治、ということです。つまり、世界に類のない、この純粋な一民族、一家族、一国家の伝統こそ、日本人の真髄となるものである、との見方です。
私は、この言葉に遭遇して、 「ははーん、これだな」 と思いました。これこそ、日本人の二面性を語る鍵ではないか、と思いました。
バーガミニが言うように、 「日本人は、有史以前からその同じ国土に住み続け、外敵によって一度も征服されたことのない、この地球上で唯一の人々」 です。そのため、 「万世一系の皇統」 との現象が生じたのですが、ということは、その一系が今日の平成天皇につらなるその天皇家であること自体は偶然で、その征服なしがゆえ、それが誰であれ、何れかの家系どころか、その 「日本」 自体が途切れることなく、連綿と繁栄し続けてこれたわけです。つまり、そうした連続性は、その家系も含めて、外敵によって滅ぼされなかったからです。
私は、この外敵によって滅ぼされなかったのは、日本が島国で、外敵による侵入が困難だったことが決定的だったと見ます。つまり、それは、地理的な偶然がもたらしたものです。
しかもその地理的な偶然は、日本が大規模な外敵の侵入が難しいほどの離島でありながら、小規模ながらの渡来は可能であった近隣島であったという偶然であったことです。つまり、急激な変化は受けにくいものの、長期的で穏やかな影響は受け得る条件にあったことです。
今回の 「訳読」 にもありますように、6世紀末から7世紀初めにかけて、聖徳太子は、自生神道と渡来仏教との融合を成し遂げます。また、文字のなかった土着文明に、漢字を移植します。実にすごい、二種混合です。
日本は、この漢字をベースに、仮名を発明し、今日の日本語体系である、漢字、仮名混じり文の基礎を作ります。私は、この表意文字と表音文字の混合システムとして日本語が出来上がったことが、今日の日本文化の特徴の骨格を形成したと見ます。
アルファベットは表音文字で、基本的に話し言葉とリンクしています。そのアルファベットによる西洋言語は、漢字言語――基本的にはその一字一字が絵で、発音に無関係に意味を伝達――とは対極をなすものです。そういう意味では、日本語は、漢字という表意文字と、仮名というアルファベットすなわち表音文字を持ち、いわば世界の両極を取り入れています。
実は、この表意と表音文字の混合システムとしての日本語を、私はごく自然に使ってきていたのですが、ある経験をきっかけに、その特色を考えるようになりました。
その経験とは、私がバエさんと日韓相互の話題を交換する際、彼より日本語は “片仮名言葉” を使用しすぎるのではないか、との指摘をもらったことにあります。韓国では、カタカナ言葉のように、外来語をそのまま音だけまねて使うことに抵抗が強く、何らかの自国語に置き換えることが通常となっていると言います。便利なことだが器用過ぎて、主体性を失っていると言うのです。
韓国では、かつて、日本語のように漢字を混じえた文を使っていたようですが、今ではハングル文字一色となっています。私の理解では、ハングルは表音文字の組み合わせ文字で、基本的に表意文字ではありません。ですから、そこに外来語を音だけまねて表記は可能ですが、それだけ、同音や類似音の表記と混同して判別がむずかしくなります。そうした混乱を防ぐためにも、上記のような抵抗があるのかと推測します。もちろん、ある種の自国文化への誇りも混じったナショナリズムの意識とも連動しているのでしょう。
それに比べて日本語の、漢字、平仮名、片仮名の三本立ての表記法はじつに柔軟です。たとえば、片仮名言葉を使えば、明らかにそれが外来語だと判りますし、その外来言葉の意味さえ理解できれば、日本語にはないニュアンスの表記も可能です。
私は最近、こうした日本語の柔軟さに、むろん一長一短はあるのですが、言語体系の有用性の広さという意味で、日本語を通じての外国文化の理解は、他言語、たとえば韓国語や英語のそれと比べ、自国性を失うことなく、広範さ、異質さの取り入れを、より可能にしているように思います。
そういう日本文化が、今日のグローバル時代、ことに、近年のアメリカの覇権力としての衰えも伴って、世界の枠組みが次第しだいに変化してきている中に置かれています。特に、アジアにあっては、中国の急速な国力の増進もあって、従来の米国を中心とした国際関係ではない、多極的な国際関係が育ちつつあります。そして、そうであるからこそなのでしょうが、ことに中国の台頭への危機感からか、内向きの日本らしさが強調され、また、ある種の心の拠り所として、必要以上にその “らしさ” が重要視されているかに見受けられます。
そういうところに、上記の 「万世一系の皇統」 は、日本人にとって、ある種の殺し文句、あるいは、魔法の呪文のように効果しえる概念です。
私は、上記の日本語の両極性とも関連し、日本の地理的偶然性がもたらした 「日本的特色」 を、この際ですからいっそうのこと、その柔軟性をフルに活用して、むしろ、外向きに打ち出したらいいと思います。
たとえば、日本が一度も外敵に滅ぼされたことがないとするなら、人類も、一度も他の宇宙人、あるいは、宇宙的異変によって、滅ぼされた経験をもっていません。そういう意味で、地球も宇宙の
「離島」 です。
今日の考古学、あるいは分子生物学の応用によって、今日の人類が、もとは、アフリカの一人の猿人を起点とする、広大な発達あるいは移動による生物的進化の結果であることが明らかにされつつあります。
日本人のルーツにしても、南方海洋系の民族と北方大陸系の民族の混血した種であるようです。
そういう視点から、 「天照大神」 をはじめ日本のみなもとを、神話的にではなく実証的に遡れば、その 「万世一系の皇統」 も、いうなれば、人類総体をその見方でくくった 「億世一系の人統」 の、その日本版と言えるように思われます。
人類の起点の猿人にとっても、今日の誰にとっても、まして、中国人にしても韓国人にしても、この惑星の一年は、共に半端な365日であることに違いはありません。その偶然の同一性こそ、人類を人類とさせている共通項であるはずで、いわゆる 「地球環境問題」 も、そこに起点があるはずです。
(2009年12月31日)
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