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私共和国 第21回



「じか播き」という方法


 新年、おめでとうございます。
 早くも、21世紀は、最初の十年が過ぎ去ろうとしています。
 今、こうして新年を迎えるにあたって、 「新年の決心」 というより、新年を節目に、ひとつのアイデアに姿形を与えたいという、 「新年の志」 といったものを抱いています。
 それは、お金との付き合い方に発する、古くて新しい課題についてです。

 自分の “アラ還” を機会に、ある種の 「貧乏」 生活を始めたことについては、これまでにも幾度か触れてきました。
 それは、人生の 「二周目」 の開始にあたり、一周目の体験を生かすひとつの要が、「お金によって使われない」、あるいは、「お金によってだまされない」、とのテーマとの意識的な取り組みでした。
 というのは、私にとっての 「二周目」 には、ひとつの条件が課されていたことがあったためです。
 それは、私の一周目が、仕事を幾度も変えたり、浪人生活をしたり、まして外国生活なども始めたために―― 一種の “その報い” なのですが――、いわゆる年金の自前積立分がゼロに等しかったことです。海外生活をしながら、なんとか最低の年金支払い義務は済ませて、すでに公的年金の受給が始まってはいますが、それは、生活をそれに頼る気になどとはとうていなれない額です。
 ですから、私の 「二周目」 の初期条件は、年金はゼロと見なす、つまり、それには頼らず、 「命あるということは働き続けること」 の実践となりました。むろんこの 「働き続ける」 とは、最低の必要商品購入に見合う分の、現金収入を得続けるということ、すなわち、そういう 「貧乏」 生活の開始でした。そしてついでながら、そうした姿勢で臨んだ働く生活は、これまた、社会との絆をそのように保ち続けることをも意味して、まだまだ、 “現役” 気分を楽しむことができています。

 こうした働き続ける生活を実行してゆくには、何よりも 「健康」 が元手となります。
 幸いといいますか、僕の一周目が、ある意味で “軽ストレス” な生き方だったのでしょう、それだけお金のために自分を酷使しなかった分、 「健康」 が使い果たされずに残っていたようなところがありました。また、オーストラリアでの生活が、日常生活に何らかのスポーツを組み入れやすく、それだけ身体が多少なりとも鍛えられていたところもあったようです。つまり、人生の源泉としての 「健康」 の再発見です。お金の再発見ではありません。
 そこで、その 「貧乏」 生活のやや詳細ですが、当然、 「働く」 には一日のうちの相当な長さの時間を、そのために費やすことが避けられず、私の場合、それまでにエクササイズに当てていた時間がとれなくなる事態となり、やむなくとった方法が、自転車通勤という一石二鳥でした。
 その自転車通勤が、これまた結果的に、ある発見をもたらしてくれました。それは、一言でいえば自転車通勤の健康維持効果ということですが、出し惜しみする積りではありませんが、それは、実行者でなければ得心しにくい、心身ともの高揚効果です。それはまた、そうした健康上の効果だけでなく、自分の肉体に頼るという一見原始的行為が、まだまだ他者依存に傾かずとも、この年齢となっても、自己潜在力の大きさに気付き、まだそれに依拠してゆけるという、意気揚々とした “新資源” の発見でもありました。
 こうした、いくつかの結果がからみあって、私は以来、その複合効果を味わってきています。それは、確かに、一周目では体験も、予想もできなかった、いろんな要素がプラスに噛み合い始めた、といった感覚です。言ってみれば、失っていた、あるいは、掠め取られていたものを、ようやく、取り戻すことができはじめた、といった実感です。

 私はここで、こうして二周目の基本姿勢となってきた、お金により少なく依存する生活方法を、 「じか播き」 方式と呼びたいと思います。つまり、自分の時間や能力という種を、換金のために、いったん別の田んぼに播くのではなく、なるべくそういう迂回路を経ないで初めから自田に播く、直接の回路を追求してみることです。
 他方、こうした 「じか播き」 方式に対して、世間には、 「時間を買う」 という常套的方法があります。
 言わずもがな、それが 「買う」 という行為である以上、そこにはお金が介在することは避けられません。早い話が、よくあるぼやき話、 「暇のあるときゃ金がなく、金があるときゃ暇がない」 が示唆するごとく、暇つまり時間が、そこでは、お金と相互同等に交換される、商品とされていることです。
 しかしです、自転車のペダルをこぎながら、自分の筋肉の張りや爽快な風を感じつつ、自分自身の潜在能力を再確認している時、そこに何らの介在物はありません。まして、売り買いなどとはまったく別世界の、豊穣さがそこにあります。

 時間とは一種の容器で、そこには何物も詰め込めますが、そこに、いったん、掠め取られていたものが取り戻されてきた時、それはその瞬間にして、生き生きとして輝きはじめます。そうです、まるで子供時代の時間のように。そこに、暇つぶしなど考えもよらぬ、充実した瞬間の連続があります。
 それは、 《売り渡さない》 と誓ったその時にその天地が分かれる、たったそれだけの単純な 「志」 です。

 (2009年12月25日)

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