「両生空間」 もくじへ 
 「私共和国」 もくじへ
 HPへ戻る



修行第三十四風景


「油差し」と「マッサージ」


 いきなりですが、私が日頃行っている運動 (エクササイズ) について、その、運動をする理由や動機が、このごろ、ひと頃とは違ってきています。
 たとえばジョギングについてでも、膝の痛みがあって、走るのをやめて水泳や自転車に切り替えてきていました。ところが、店の元オーナー (趣味の上をゆく趣味のランナー) から、スローランニングという、ほとんど歩くほどの速さでいい走法があるから、それで走ってみたらと助言をもらいました。二ヶ月ほど前、その 「歩き走り」 を始めてみたのですが、それだと、不思議に、膝の痛みがきません。そういう次第で、最初、30分と時間を決めて、それだけ 「歩き走り」 し始め、だんだん調子が良くなってくるので、それを40分としたり、あるいは、前に40分で 「歩き走り」 した距離を、39分や37分で走ってみたりと、ともあれ、そうしてジョギング・メニューが私の日常に復活してきました。
 そうするとどうでしょう。水泳でも、長く泳ぐと足の筋肉がつりがちなので、1000メートルほどと短くしか泳いでいなかったものが、たとえば、1500メートルを再開しても、足がつらなくなりました。もちろん、もう、以前のように記録を上げるというのはやめて(無理して頑張ってしまうと、筋肉や筋を痛めてしまう)、ゆっくりゆっくりと泳いでいるのですが、それでもいいのです。
 つまり、以前では、運動をする動機のどこかに、 「目標」 とか 「鍛える」 とかといった意識が抜けきらなかったのですが、そういうものがほぼなくなって、今ではすっかり、 「現状維持」 一本やりとなってきています。
 つまり、走るとか泳ぐとか自転車に乗るとかの運動が、以前では、記録更新ではないとしても、少なくとも健康 “増進” のためであったのですが、それがこの頃では、ガタが来始めた自分の体への、 「油差し」 とか 「マッサージ」 としての運動になってきています。
 確かに、もう、私のような年齢になれば、体は使わないでおくと、そこから錆ついてきます。いうなれば、そういう私にとっての健康維持とは、身体のいずれの部位をも、眠らせることなく、使い続けてゆくこととなってきています。

 さて、以上は私の日頃の運動つまり身体についての変化とその印象なのですが、それが、もう少し精神的な面についてみても、それと似たことが言えます。
 たとえば、私はこの寿司修行を、ちょうど4年前の3月に、 「ボケ防止への一次プロジェクト」 と考えて始めたのですが、若者たちにまじって続けてきているそうした仕事は、その 「ボケ防止」 の目的は確かに果たしていると思います。むろん、避けられない老化現象は感じていますが、あの頃に捕らわれていた、あの何ともいえない、弱気感、喪失感、不甲斐なさ感は、いつの間にやら、消え去っています。
 そう思って振り返ってみると、最近では、修行の態度も、一時期のように、頑張ってやっているのではなく、 「歩き走り」 調といいますか、そんな自適ペースで仕事をしているように変わってきているものを感じます。まあ、それでも、店では、若者たちからは馴染まれ、経営上も重宝がられているばかりでなく、安定した収入源ともなってくれているのですから、何はともあれ、有難いものです。
 これは、上記の、自分の身体への 「油差し」 とか 「マッサージ」 の働きと同じような効用が、寿司修行によって、毎日の生活の気持ちや精神の上にでも、合わせて働き初めていることではないか、そう感じられます。

 それに、私にとって、ここからはなかなか教訓的なのですが、自業自得ながらの 「年金無頼」 生活がゆえの 「働き続ける」 という条件は、第一に、老いゆく自分自身への自らの働きかけとして、心身両面での 「油差し」 とか 「マッサージ」 効果をもたらし、第二に、人生二周目の基本姿勢として、完璧に予想外の、あるプラス効果をかもし出してくれています。いうなれば、それは、 「弱点」 となるに違いないと思ってきたものが、かえって 「強み」 に転じている、とのドンデン返しです。
 そういう意味で、 《働き続ける》 ということは、たとえ年金が充分に有ろうが無かろうが、それとは無関係に存在している、普遍的な原理ではないかとさえ思えてきています。
 これは、政府年金局の官僚さん、あなたに提言するために言っているのではありませんよ。

 (2010年2月28日)

 「両生空間」 もくじへ 
 「私共和国」 もくじへ

 HPへ戻る
                  Copyright(C) Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします