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 連載小説



メタ・ファミリー+クロス交換
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偶然






 そうするようになってもう十年ほどにもなるだろうか、モトジは週に一度、シティーにある日本政府系の図書館に、到着したての邦字新聞や雑誌に目を通すために出かけることがほぼ習慣のようになっていた。それは、今となっては副業となったビジネス・コンサルタントの仕事上の必要もあったが、それにもまして、長年のオーストラリア暮らしがゆえ、日本との接点を意図的にでも確保しておきたかったからだった。

 そうした毎週の図書館通いの帰り道、モトジは少し足を延ばして、絵庭の働く売り場に立ち寄ってみるようになり、やがてそれはほとんどその度のようになった。
 ことに、その夜が一人で夕食をとらねばならないような日、そうするのもなにやら空しく、そうやって立ち寄った機会に彼女を誘ってみるようになった。
 別に、あらかじめ連絡して訪れるわけではないので、そうして誘ってみても、先約があったり、仕事が忙しくて時間がとれないといったことも当然あった。それでも、モトジは彼女と幾度か夕食をいっしょにするようになった。
 というのは、幸いにして絵庭との都合が合致していっしょに夕食をとることとなった時は、ともかく楽しいのである。どこの父と娘もこうなのかどうかは知るよしもないが、その意図的誤認関係にあるモトジの場合、まぎれもなく、そしておそらく真の親子以上に、その時間が楽しいのだ。時の経過はまるで矢のようで、またたくうちに我に戻される非情の時がやってきた。そこで、また次の週の再会が期待されるようになり、またしても立ち寄り、そしてまたしても彼女を誘ってみる。そうして再び共に過ごしてみると、前回にもまして、途切れぬ話題に花が咲き、あたかも春の花園にいるかのような楽しさなのだ。自分でもどうしてそのように嬉々としていられるのか、その高揚感が不思議どころか、魔術にでもかけられているようにさえ思えるほどだったのである。
 加えて、そういう行きあたりばったりの接点のためか、モトジはその彼女の売り場を訪ねる度に、わくわくするような期待の 「明」 と、その一方の断られた際の落胆の 「暗」 という、その明暗両極端のいずれが今日はやってくるのか、父と娘どころか、まるで初恋を体験し始めた少年時代の不安定そのものの胸中で、どきどきと高まる胸の鼓動をすら覚えていたのだった。
 ともあれそのようにして、モトジは、まさか還暦を越えるまでに及んで、自分にそんな初々しい面がよみがえってこようとは夢にすら予想していなかった。そんな驚くべき核反応を自ら繰り返し体験するようになり、そうして、つかの間なりとも、それを満身で楽しむようになっていた。

 男であるなら誰しも、相手が若い女性でしかも美貌の持ち主とあれば、その人と過ごす時間が楽しくなかろうわけはないと、モトジは内心、誇らしく見せびらかしたいような自負心を抱いていたのは確かだった。だがその一方で、モトジにはあるこだわりがあり、そのような俗体な関心で彼女に向かうことを良しとしていなかった。というのは、そうして育ちはじめた偶然とは思えないような自然かつ機微な人間関係が、まさか掘り出し物でも手に入れた自慢話ではあるまいし、そんな明け透けな興味を動機としているとすることには違和感があったし、第一、相手に失礼千万だとも思った。むろん、自分の内の欲を否定できるものではないが、そう揺れ動き、初々しくも芽生えつつある接点を、その素肌のままに成長させたかったからだった。
 そうではあったのだが、いくら自分の気負いは確かでも、思いもかけないばかりかどう見ても尋常ではないそうした展開が、モトジには、相手の立場になればやはりたいそう気がかりだった。そこで、そうしてたびたび付き合ってくれる絵庭に、 こんな爺さんと一緒で退屈ではないのか、ほんとに楽しい時間をすごしているのかと、一度ならず尋ねてみたのだった。するとその度に彼女は、 「私も楽しい」 と、すげない程にさらりと言ってくれる。それでもモトジは、無理を押しつけているのではないかと罪悪感にすら捕らわれたりもした。だが、少なくとも彼女の返答やそぶりの限りでは、嫌ならいくらでも断ることもできるのだし、気を遣って無理をしているともうかがえず、自分を根っから抑制させる必要は見出せなかった。
 ただ、そうした楽しい時間を過ごして帰宅した後など、ベッドに入っていざ眠りにつこうとしても、普段ならすぐにく寝付けるモトジなのだが、時として、彼女との間のこの上もなく甘美なファンタジーが次々と脳裏をかけ巡り、眠られぬ時間を過ごさせられたことも一度や二度のことではなかった。
 そうして確かに、彼女にめぐり会えたことでモトジに新鮮なエネルギーがよみがえりはじめていたし、普通ではありえない化学反応が生じはじめていた。

 若い時分のいわゆる恋愛時代、モトジは同じように誰かに没頭した自分を体験したが、その頃のそうした関係は、いわば似合いの年齢同士の、周囲の誰もがそうしているはやりのような結びつきだった。
 むろんそこには、そうした自分たちの互いの感情の発露に成功や不成功があって、それなりのドラマや悲話めいた物語も展開されてはいた。そしてその一部始終は、ロマンティックな詩情の世界そのものだった。しかもそこには少しの禁断の要素なぞはなく、どこから見ても、ほほえましく祝福されるべき期待で満たされていた。ましてやそこに、年齢のギャップはおろか、それに根差す社会通念的なすれ違いや自己規制はあるはずもなかった。若き時代のそれは、そういう意味では、ことごとく平板で、家畜の放列のように、ありきたりだった。
 だが、こうして芽生え始めたモトジと絵庭の関係には、そうした恋愛感情の残り火を再燃させるところはたしかにあり、その限りでは平板でありきたりな雌雄関係を踏襲しているのかもしれなかった。しかし、仮にそうだとしても、三十歳となにがしかという年齢差は、単に数字の問題を越えて、そうしたありきたりなエネルギーで乗り切るにはいかにも峰高く谷が深すぎ、しかも、それに冷水をあびせるに足る負の温度にもおおわれていた。
 モトジが彼女と会っている時、むろん自分の顔は見えていない。目に映るその彼女の容姿とその楽しい気分のなすがままに、自分は自らの年齢を忘れていられる。だがそれが、そのひと時を終え、家にもどって覚る、それこそ鏡の向こうにいる男の顔は、どう見てもその年齢相応の高齢者のそれで、見るのもつらい。それに、たわいもない情感にうつつをぬかすあさましさと、そういう自分を断罪する声すら聞こえてくる。
 絵庭は、こんな自分の何に期待し、その何を楽しいというのだろうか。その共に時を過ごす間を通し、彼女はまさしくこの顔を相手にしているはずだ。そういうモトジに接する彼女は、自分にも必ずや訪れる自身の老齢時代に思いをはせ、温かな共有を投げかけてくれているのだろうか。それとも、モトジと同じく不思議な核反応に身をまかせ、そのギャップを飛躍するスリルをその淵の向こう側から楽しんでくれているのだろか。
 ともあれ、二人の間には、ありきたりな関心やエネルギーでは乗り越え困難な溝が存在しており、もし、それでもモトジと絵庭が互いを楽しんでいるとすると、それを越えさせる平板ではない何かが作用していることとなる。それともそれは、色恋沙汰に年は無粋とする、言い古された人間劇の一こまとでも言えるのだろうか。

 これまで、子供をもうけた友人たちの家庭を訪れる機会があった際、モトジがそこでよく目撃する光景は、もう、孫にすら恵まれている彼らの平安な暮らしの有様であった。そのおじいちゃんとなったかっての学生運動の闘士も、今では見るからに孫を溺愛しており、それはかっての勇しさを偲ぶ影もないほほえましさ一色で染まっていた。むろん、いかにも至福そのもので、世と世代の移り変わりをありありと覚らせてくれるシーンだった。
 モトジがこうして絵庭に示している愛着は、ひょっとすると、こうした友人たちの孫への溺愛に並ぶものなのかもしれない。その、見返りを求めるわけでもない無償の愛情投与こそ、彼らの偽りのない楽しみや歓びの源泉となっているはずだ。モトジもこうして、そうした無償の愛を表わす対象を同じように見つけはじめているのかも知れない。
 しかし、そんな祖父的役割が関与しているとしても、モトジの場合の対象は孫や幼児ではない。れっきとした大人の女であり、しかも、相手からのほのかな働きかけもその発端として作用している。
 時にそういう自分にあきれさせられるのだが、モトジは彼女のことを思ったり考えたりする際に、友人たちの孫への溺愛ではないが、如何にも老人然とした、執拗にねちねちして未練がましい興味におぼれている自分を発見して、はっと我にかえることがある。そして、こんなことをしていては嫌われると思い直して、さらにもまして未練たらしく粘性にしがみつくのである。

 モトジはこうして、一筋縄では捉えきれない、そうした年齢がゆえでそれならではの、またそれでいてそれを逸脱する、突如として到来したその核反応を抱いて、未踏の辺地に進もうとしている。人生が過客であるとするなら、モトジの旅路はかくして、めぐり会ったメタ・ファミリーと連れ立って、新たな空間へと離陸しようとしているかのごとくである。

 つづき
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