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 第三期・両生学講座 第7回


「恥さらし」趣向



 今回をもって、連載小説 「メタファミリー+クロス交換/偶然」 略して、 「偶然分のメタ・クロ」 が完結しました。
 まだ駆け出しの “自称作家” は、その習作をまず自伝から始めるのが常だそうですが、私の場合もその例にもれず、 「相互邂逅」 と題してそのあたりの入門作品を書いてきました。そして、その次に来たのが、今回のこの 「偶然分のメタ・クロ」 です。私にしてみれば、純粋なフィクションの処女作です。ただ、そうは言っても、自分の周囲にヒントを求めていることからは縁切れていませんが。
 その道の大御所によれば、小説というのは、一度発表してしまえば、それがどう読まれようと、それは読者の勝手で、たとえそれが著者の本意からずれていようとどうだろうと、それが小説作品というものだそうです。
 そういうご指摘から言えば、以下に書くことは、そうした読者の自由意思に何らかの枠はめをしようともする愚行であるのかもしれませんが、まあ、その世界には、 「あとがき」 といったものもあるわけですから、御寛恕を願いたいと思います。


 私には変な習癖がありまして、何かに付けて、ことにそれがある意気込みをもって取り組んでいるものについては、何か 「意味付け」 を与えないと気のすまないところがあります。
 そうしたいからそうするだけでいいじゃないか、とも思うのですが、そうだとしていても、 「したいことをすることは主体性があっていいことだ」 などとも屁理屈を付けたりして、またしても、そのわだちにはまっています。
 そういう習性からくるものなのですが、今回の作品をめぐっては、ことに、この第9章の扱いに関し、本当に最終章として採用すべきかそれとも没にしておくべきかと、入れたり取ったり、大いに “七転八倒” してきました。
 再び、その道の大御所の話ですが、小説家というものは、自分の恥を書きさらしてお金を頂いている商売だそうです。そういう意味では、こうして第9章を採用したことは、お金が頂けるかどうかはともかくとしても、恥をさらしているのだけは間違いのないことで、従ってその意味付けについても、この 「恥さらし」 の点では合格だろうということにしました。
 さて、それでなんですが、私にはそれでもまだ、どこかに落ち着かないところがありまして、もやもやと考えさせられていました。
 そんな折、昔、労働組合の新聞編集に当っていた時のことがふと思い出されてきました。当時、定期刊行される組合新聞に、官報のような下手な記事を書きならべていたのですが、その中で、組合員からのいい反応を得た記事を書けたことが少ないながらありました。
 その好反応の秘密は、組合員の具体的で切実なあり様を――本当に取材して――生きいきと記事にすることでした。つまり、その生な様子が記事になって伝えられることで、 「なんだ、俺と一緒じゃないか」、「誰も同じじゃないか」 という共感が広がり、団結――何といっても労働組合ですから――を強める要素となったわけでした。
 通常、自分自身のプライベートな生活の内容については、誰も、あえて他人に宣伝や公開などしたくはないものですが、当時の私の職務上の使命は、そういう意味では、その “ベール剥ぎ” をすることでした。そうして人目にさらされた内容が、時に、多くの組合員の心を打ち、共鳴の輪が広がる効果をえることとなったのでした。
 で、今回のこの作品ですが、これがその “ベール剥ぎ” 趣味な、恥さらしな作品となっているのは確かでしょう。そうではありますが、さて、それがはたして共感を呼ぶものとなりえているかどうか、そこらあたりについては、大御所のご指摘の通り、すべて読者にお任せするしかありません。

 ところで、これは追記ですが、今日のブログの蔓延に見られるような、インターネットを通じた “プライバシー公開” の流行傾向は、人はそれを 「宣伝・公開」 することが、意外に好きであったのかもしれない証拠と考えられます。あるいは、かってはそういう自然な 「宣伝・公開」 関係が生活する日常社会に、小規模ながらにもあったのでしょうが、それが今日、ぶつぶつに分断され、閉じ込められて、そうした結果の飢餓感がこうした流行を起しているとも受け止められます。
 どうやらそういう意味では、インターネットのお陰で、世界に 「団結」 の気配が、再度、広まっているのかもしれません。

 (2010年11月28日)

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