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 第三期・両生学講座 第8回


「待ち腹」と私



 取って付けたような疑問ですが、 《私はいつ始まったのか》 と問うたとします。すると、その返答は、まず順当には誕生日がそれであろうし、自己意識の上では、物心ついた時がそれでありましょう。
 そうした 「私の始まり」 の時について、生命としての厳密な 「始まり」 を探ってゆくとすれば、それは、私の母親の卵子と父親の精子が結合した、ある特定の日や時刻があったはずということとなります。
  私の誕生日は、1946年8月20日ですから、それからそうした妊娠期間中の “十月十日” をさかのぼるとしますと、その日とは、1945年10月10日ごろということになります。 「無条件降伏日」 から、まだ二ヶ月も経っていないころです。
 ちなみに、この頃がどんな時であったのかを調べてみますと、10月6日に特高警察が廃止され、10日に徳田球一や志賀義雄らのつわもの政治犯が釈放され、15日には治安維持法が廃止されています。一言でいえば、戦前の暗い時代が終わったことを、象徴的に示していた時期とでも言えましょう。

 十年ほど昔、お袋が亡くなる何年か前に――いろんなことを聞いておくのも今のうちだといった魂胆があって――、一度、そのあたりのことを尋ねてみたことがありました。どういう聞き方をしたのかは記憶にないのですが、自分の誕生のいきさつを尋ねて、どうやら 「お父さんが中国から復員してきてすぐだったんだね」、といった質問をしたのかもしれません。ただ、私はそういう意味で聞いたのではなかったのですが、老いたお袋が、どこか恥じらいを漂わせた様子をほかに見せて、 「それを “待ち腹” って言うのよ」 と答えたのをはっきりと覚えています。というのも、その聞き慣れない 「待ち腹」 という言葉が、ちょっとした奇異さをもって、なんとも印象的に聞こえたからでした。
 さて、その 「待ち腹」 の数がいかに多かったのかは、やがてそれが 「ベビーブーム」 と呼ばれるようになる、新生児誕生の大波となり、時代の大きな特徴となって証明されました、世界的に。むろんその 「待ち腹」 は、ただ一回だけその役を果たしただけでないことは、そのブームがその後幾年にもわたって続いたことにも表わされています。我が家族も、その17ヶ月後に、妹の誕生を得ました。

  「待ち腹」 とは、現在ではとうてい、発想も使用もされそうにない言葉です。
 しかし、なんとも時代の雰囲気をにおわせる、抑制と躍動の交錯する、含みの多い言葉です。しかも、悲惨な戦争が終わって平和となった、その平和の息吹きを代言しているかの言葉でもあります。
 それこそ、母にとって、いつ終わるとも知れない戦争にあって、幾年も幾年も、ただただそれを祈って待っているしかなかった夫が、生きて無事帰ってきた。その夫を、若い妻である母がどのように迎えたのか。いかにも象徴的な 「待ち腹」 というこの言葉を、それから何十年もたち、そうして身ごもり生んだ子が五十を越える時となっても、その時の気持ちやあり様を 「待ち腹」 という言葉に託しえ、しかもどこか恥ずかしげにすら振舞うお袋。ちなみに、両親は、昭和十年代当時としてはきわめて珍しかったろう、 「丸の内」 においての “社内恋愛” によって結ばれていた、そうとう “あつあつ” なカップルだったはずです。
 そこで頭をかすめる詮索なのですが、1945年の10月10日頃の、それは、夜だったのか、朝だったのか。ただただ想像するしかないことですが、たとえば、 「お母さんが僕を宿ししたのはいつ?」 と尋ねたとします。むろんそれを実際に聞けたわけではないのですが、ただ、上のような 私の違った趣旨の質問にも、お袋が、恥じらいを含めつつ 「それを “待ち腹” って言うのよ」 と答えたその気転そのものに、私の誕生、つまり、 私の始まりをめぐる、あるリアリティーが答えられていたように思われます。
 当時、両親は、高校野球で有名な甲子園球場に近い、もっと浜寄りの地に住んでいたのですが、飢餓すら紙一重の現実であるその当時、夫婦間の当り前な性の問題までもがひとまとめに 「腹」 の問題とされたのも、まさにありそうなことです。それに、たしかに臓器的な近隣性としてはそうに違いなく、そうしたはぐらかし方も、なんとも時代を表わしています。そして何よりも、お袋には、それを 「待ち腹」 と呼んでも、とっさに思い起されてくる何かがあり、しかも私の質問に即座に答えて、その記憶をそう的確に表現してくれていたのでした。
 つまり、私の始まりとは、どうやら、 「待ち腹」 にまつわる、そういう両親のあり方を拠り所としていたと言えそうです。

 生物学上の事実なくして、私の生物としての発生はありません。つまり、母の卵子と父の精子との結合が必要だったわけですが、その受精にまつわる特定の環境や状態は、その結果の生命の発達に何らかの影響を及ぼすものなのでしょうか。
 ユングによると、生物にはその発生途上の歴史の記憶が残っているといいます。つまり、生物としての集団的記憶が元型として作用しているのだと。もし、そんな古い情報までが記憶されているのだとすると、一個の生命の発生にまつわる受精の状態も、何らかの記憶となって残っている可能性があります。
 まさか、卵子の私や精子の私、さらには、そういうふたつの私が出会った時の私の記憶、なんていうのはいくら振り絞っても出てきませんが、しかし、もっと潜在的で底の深い生物学上の何かとして、私の始まりに関わるそうした状況がどこかで作用して、いま、 私に、こういう考察を書かせているのかも知れません。

 さて、そこでさらに想像をたくましくして、こうした 「受精」 以前の時代に思いをはせると、その、人としての姿以前の人の前史として、卵子時代と精子時代――いずれも、無数の同類な私のコピー細胞と共存していたはず――の私があったのも確かです。
 そこで、そういう生殖細胞時代の私について、そこでも、その始まりはいつだったのか、と問うたとしましょう。
 そうなればそれはもう、生命の連鎖として、親の世代から、その祖先から祖先への延々たる系譜、そしてさらに、一民族の成り立ちから、そもそも人類の発生の経緯、ひいては、生命のおこりから有機物質、分子、元素、宇宙の起源といったところまで、決して途切れることのなかった厖大な連鎖へと連なって行きます。
 そこまでいってしまえば、自分の始まりはもう、宇宙の起源――ビッグバン――と同じだった、ということとなります。
 この、 「待ち腹」 から 「ビッグバン」 までの気の遠くなるどころか、無限とすら言える繋がり。はたして、これをまで、 「私」 と呼んでしまってよいのかどうか。

 (2010年12月29日)

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