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 老いへの一歩》シリーズ


第6回   タナトス・セックス  


  「エロスとタナトス」 という対語があります。
  「エロス」 とは、もちろん、ギリシャ語での愛のことで、それから転じて愛欲、そしてさらに転じて、精神的愛情に対する肉欲といった意味で使われます。最近では、さらに転じて 「エロい」 という日本語にもなっているのはご存じの通り。
 他方、 「タナトス」 とは、ギリシャ語で死のことで、それから転じて、現代では、死にかかわるいろいろな概念に使われているようです。
 さて、そういう 「エロスとタナトス」 ですが、本稿ではエロスについて、その上記のような意味合いを、 「生」 つまり生命の誕生にかかわることと、やや広い含みを持たせて使い、タナトスの 「死」 との対比のバランスをよくしたいと思います。
 
 では、そのように用意された対比において、いわゆる 「セックス」 とは、改めて言うまでもなく、 「エロス」 にかかわる男女関係――同性愛も含めましょう――のことですが、それは暗黙に、その結果の新たな生命の誕生が想定されるものです。もちろん現代生活では、そういう生殖機能から分離された、楽しみや表現としてのエロスの分野が拡大し、こういう趣向においては、生殖機能は通常、一種の “危険” として察知されて排除されます。ともあれ、本稿では、こうした生殖と縁の切れないその 「危険」 と背中合わせのセックスを特定して、 《エロス・セックス》 と呼ぶとします。
 さてそうすると、次には、上に対比させた言葉同士を組み合わせて、 《タナトス・セックス》 という用語も考えられます。
 そう造語しますと、「セックス行為自体がタナトス的だ」、との声がかかるかも知れません。つまり、セックス行為は、生物的には、確かな生殖過程の一環で 「生」 へと結びつくものながら、私たちのセックスの頂点でのエクスタシーにあっては、瞬間的な自己喪失――短い仮死状態――だとして、 「エロスに伴うタナトス」 ととらえる見方です。
 確かに、そう言う 「エロス」 界での極み話も可能ですが、ここでいう 《タナトス・セックス》 とは、 《エロス・セックス》 の極致や両面性を指すのではなく――それを否定しようと言うのではありません――、むしろ、それと明瞭に対置されるものをいいます。またそこには、生殖過程との視点はまったく含まない、その対極のものです。
 すなわち本稿では、本シリーズの 「老いへの一歩」 という脈略にもそい、それは、もう、身体的に生殖能力を終わらせたか、あるいはそれに近い男女の、それでもある性的関係を、生や誕生と結びつくものではなく、逆に、最後にはほんものの 「死」 に至る過程を準備するところのものという意味で、 《タナトス・セックス》 と呼びたいと思います。

 さて、以上のように、言葉上でこうした 《エロス・セックス》 と 《タナトス・セックス》 という対概念を確認したところで、以下では次に、それを現実の人間生活において具体的に見てみましょう。
 つまり、私のように、還暦も過ぎた 「人生の二周目」 に入った世代にしてみると、男女の関係であっても、生殖、即ち、新たな生命の誕生を前提としたものではない、どうやら、まったく違った位置付けができる性的関係があるようで、そういう現実の確かなありようは、それこそこの 《タナトス・セックス》 ではないか、との思いがあります。
 また、この発想には、前回の 「案内人なき海域」 で述べた、人生の 「入口、出口」 といった 「対称性」 もヒントとなります。つまり、その 「出口期」 向けのセックスが、 《タナトス・セックス》 ではないか、というわけです。
 そこでですが、こうした考察をさらに進めるにあたって、ある具体例を示すことは有用です。
 ただ、ここでは、私事にかかわる、あたかも自分の恥部をさらすかのような話を取り上げます。まことに恐縮ではありますが、生物学者があえて自分の身体を実験サンプルに使うように、それを “標本” として、以下、採用することをお許しねがいたいと思います。

 私は、自分の人生を振り返って、それを自分では、「原則を維持してきた」 などと威張ったりもしているのですが、社会を見る、ことに、女性たちの生活感覚に即応する現実的な姿勢を見るにあたって、自分の性癖である観念性と左巻きな発想で理屈付けた自己中心性で見てしまうことがよくありました。特に、夫婦間においてのお金の問題にかかわって、いわゆる 「金銭感覚の違い」 による不和を少なからず起こしてきました。言ってみれば、多少は譲ってもいいだろうに、我を張った結果の夫婦間のいざこざのいい例です。私の結婚が長い別居と離婚に終わった一因にも、むろん単純な問題ではありませんが、こうした “自己中” 摩擦が関連していたのは間違いありません。
 ともあれ、そうした離婚の後、長く同居することとなった別の女性 ( 「A」 としましょう) とも、またしても、この問題が再燃しました。昨年のことですが、この 「金銭感覚の違い」 から、 A と深刻な議論をすることとなりました。そしてその結果、一時的なり、 A が外国へ出ていってしまいました。
 そこで、そうした至り付きへのうっぷんもあって、それを契機に、ある冒険をしてみる決断となりました。
 そして、私はとある機会から、自分の娘ほどもの年代の女性と知り合いになり、やがて、一緒に旅行をしたりして、何というのでしょう、男冥利に尽きるとでも言うのでしょうか、一連の体験をしました。それこそ、上記の 《エロス・セックス》 との意味で言えば、まさにその一色の時でありました。
 しかしです。そのうち、その若い相手の、熱エネルギーほとばしる要望に応えきれない自分に遭遇することになりました。
 そこでなのですが、本来なら、そういう自分に出会えば、そうとうなみじめさを感じるはずなのですが、その哀れな “不甲斐なさ” にもかかわらず、どこか妙に “清々しく晴ればれ” とそれを迎えていられるのです。少なくとも、みじめな挫折感なぞ少しもないのです。これは実に驚きでした。
 その一方、 A は A で、海外での新人生を開拓しようと、まずは、様々な仕事の機会を懸命になって探し、試みもしたようですが、世界経済はあいにくの低迷期におちいっており、その余波もかぶって、 その試みは空しくくじかれる結果となり、ひとまずの帰国をして来ることとなりました。
 かくして、互いに、各々の “若気” の時代のたそがれを実体験し、偶然にしてはあまりに同時的な真実味に、一種の “過ぎ去り” 感覚を二人で共有する事態となりました。
 そしてその時でした。私には、それまでには考えたこともなかったある考えが頭に浮かびました。つまり、その A の骨身を削るような生活の努力と、私の意地を張ったような昨今の経済体制への憤りとは、結局は、同じことを互いに違う角度と方法から体験していることなのではないか、と思えはじめたのです。いわば、 “敵が味方のように” 見え始めた瞬間でした。今さらながら。
 この “雪解け”の効果は大でした。なにか、積年のしがらみから解き放たれたかのように、そのしこりさえ取り除かれれば、他は、どうってことはないのです。それまで、互いに傷付け合うかのようにしてきた、互いの誇りやそれこそその 「原則」 が、不思議なほど、無理なく両立、共有できることが発見できるようになったのです。
 さてそこでなのです。このようにして “再開” された同居生活の中で、セックス生活も再び始まったのですが、その味わいが、過去のものとは、どこかで、しかも確かに、違うのです。むろんこの間、年齢がゆえの自然な結果として、 A は閉経し、私も私でそうした 「不甲斐なさ」 に行き着き、そうした一見、総ネガティブな結果ばかりに取り巻かれながらも、それでも、あるいは、それだからありうる、別な感覚の “セックスライフ” があったのです。

 さて、以上が私の 「恥部談」 で、ケースとしてはただの一例に過ぎないものですが、かく曲折して到達した地点とは、 「生殖期」 を終わらせた男女が、それぞれ個別のストーリー――その舞台を、家庭 “内” とか“外” とかと問う必要はもうないでしょう――はあれ、それでも存在する男女関係が見られることです。そしてこれは、「二周目」 世代人口のなかで、そうとう広くに見られる現象ではないか―― 「うちらに男女関係なんか、とっくの昔に終わってるよ」 とされる “円満型” の御仁も含め――、と思われるのです。
 こうしたセックスライフは、もはや、新生命を宿すことにはつながらず、その躍動に連動するものではないことは明白です。ましてや、もう避妊手段も不必要で、その危険すらまったくゼロの別世界です。つまり、一生物世代としての生殖――つまり、そういう意味の 「家庭」 ――とは完全に縁の切れたものです。
 それは、最近よく言われるような 「スローセックス」 とも似ていて違うでしょう。まして、妊娠の心配から解放された、後期 《エロス・セックス》 の始まりでもなさそうです。
 その他方、そこには、そうした男女が互いに噛みしめている、下降してゆく体調や、健康への頼りなさ、それに、縮小する職業的、社会的機会などをも含め、そうした失われる諸事に取り囲まれた互いへの配慮やいたわりや献身がカバーし、和らげることのできる、そういう何か―― 「家庭」 とは別単位の最小 “社会” ――があります。それこそ、前回で触れた、 「出口」 への経路とその歩み方、とも言えます。そうした、むしろ治療や互助行為にも相通じるような、そういう――あたかもどこかに “軟着陸” してゆくような――やさしげで穏やかなセックスライフがそこにあったのです。
 もし、それをアンチエイジング行為と見なすなら、個人単位で行うそれでなく、カップルで行う、1+1 が2以上のそれであるとも言えます。それに、エイジングに対抗するというより、むしろエイジングと共にあり、享受するものとも言えます。
 考えて見れば、新たな生命を宿すことが、男女対でなす仕事の前半の使命とするなら、 「出口」 に向け、自分たち自身の来たるべき将来に 「軟着陸」 してゆく過程において、その対の仕事の後半の役割があっても不思議でないと思われます。
 私の場合、老化の末にくる、その実際の 「出口」 の時までにはまだしばらく時間があるでしょう。それこそ 「15年」 ほどに。しかし、そういういざという時のための備えとしても、経済的準備というハードウェア面ではカバーすることのできない、互いの 《互助互感》 能力を高めておくというソフトウェア面の準備も、 “実務的” に有効なのではないかと思われます。
 ともあれ、人の一生が、誕生から死まで、長いサイクルを一めぐりすることであるなら、セックスライフも、その途中のある時点で、その行き先をエロスからタナトスへと切り替える、折り返し点があってしかりだと思うわけです。そして、そうであるがゆえ、それを 《タナトス・セックス》 と呼び、 《エロス・セックス》 とは区別してみることが重要なのではないだろうか、というわけです。
 そして、いかにもそんな如くに、それは、セックス行為から治療や互助行為、そして終局的には悲しいながらの介護行為も含むあれやこれやをみなくるみ込んで、私たちの人生 「二周目期」 においての多彩なありようを示しうるのではないか、と思うのです。
 そしてなのですが、それにひょっとすると、そこには、それ以上の別次元の何かに通ずるものなのかも知れない、といった予感さえ漂わせるところがあります。
 つまり、タナトスとは、それを 「終り」 と見るなら、それこそ 「死」 の代名詞です。しかし、人生二周目に入り、人生前半のセックスライフからはとても想像できなかった後半のそれがそう発見できたように、そこから別の何かが始まっているのかも知れないと見たり、感じとれるとするならば、 《タナトス・セックス》 とは、枯れ細りゆく 《エロス・セックス》 に代るものどころか、むしろそれを起点に 「タナトス→エロス」 と再逆転する、何かの始まり、つまり 「誕生」 を意味する、根本的に異次元の “生殖行為” なのかも知れません。
 禅問答風に言えば、 「死んで誕生せよ」 とでも公案させる何かです。
 ひょっとすると、仏教でいう 《輪廻》 とは、こういうことを指しているのかも知れません。
 

 ところで本稿を終える前に、ひとつ、触れておくべきことがあります。昨年にめぐり合ったその若い女性との経緯についてです。
 その異例な関係が、はたして “相互に円満” な決着となったかどうかについては確信がなく、かつ、適切に表現する言葉もありません。
 それを、罪づくりなことをしたとか、身勝手であったとか、結果的に踏み台にしたとかとしても、あるいは、だからゆえ、ただただ感謝とか、また逆に謝罪とかを彼女に表したとしても、それらはいずれも、どこかが異なり、どこかですれ違っています。
 この年齢になって、こうした出来事を経験しえたこと自体すら、なんとも不思議にも思えるのですが、逆に、その不思議があってこそ、ここへとやってこれた感は深くあります。
 そういう意味で、私にとってこの体験は、容易には言い尽くし難い、人生のえも知れぬ偶然と必然とが、そういう実に絶妙なタイミングで織り合わされたものだと思え、その “てこ作用” のような働きとそれへの感服を込めて、その 「エロスとタナトス」 の境目体験を、上記のように表すものです。

 (2013年3月22日)

 (2014年11月6日追記:本稿の続編「〈続〉タナトス・セックス:ポストからだ世代の『メタ・セックス』」を掲載)




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