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 憲法改正考(その5)


再び孤立の道を歩むのか



 私には、ひとつの心配事があります。それは、日本の捕鯨継続の国際的主張の行方です。それが、だんだん孤立へ向かっているという心配です。
 私はオーストラリアからこのサイトを発信しているのですが、ご承知のごとく、現在、日本とオーストラリアは、調査捕鯨問題をめぐって、国際司法裁判所という国際舞台で、面と向かった渡り合いを演じており、その判決――今年末に予定――の影響は、ただの鯨ごとではすまない、はなはだ甚大なものとなりはしないかと予感されるからです。
 問題はある意味でシンプルです。世界の衣食足りた平和な市民にとって、鯨を殺して食すという行為が、実に残酷なイメージであることです(少なくとも、そのように国際世論は持って行かれています)。私の住むその当のオーストラリアの雰囲気を語れば、鯨は、シドニー湾内にも時おり親子ずれで遊びにやってくる、オーストラリアの子供達にとってはもはや、 “友達” のイメージです。それに、鯨は、人間世界のようすを知っていて、それを見抜いて行動しているようなふしもあります。
 むろん、文化の問題の面はあるのですが、文化はどの国にもあるもので、他との違いは覚悟の上で内輪にいつくしむものであることです。そういう文化を、他国の庭先――南氷洋――で繰り返し展開してみたり、論拠の薄い理屈――科学的調査――を唱えたりして公言するとなると、ことは別問題となります。ましてその行動が、一定の国際的ルールを犯しているとなれば、まともな先進国家としては通用しない行いです。もちろん、まだ、この件は係争中の問題ですが。
 たとえば、日本がディズニーの映画を、自国文化を理由に上映禁止としたら、世界はどう受け止めるでしょう。そんな風にたとえてみれそうなほど、日本はどうも、鯨をめぐっては異様にかたくなで、徐々に変化し浸透してきている鯨への世界的イメージに対し、孤立してまでも特異な主張を言い張り続けているように映ります。
 私も鯨食には親しみや懐かしさがあって、古い世代の持つ回顧感情は捨て難いところですが、今日の、そしてこれからの日本人に、鯨食はもはや一般的ではないでしょう。そうした特殊なものをめぐって、こうも大上段に構えて渡り合うマイナス点について、もう少し本気で考えるべきだと思います。
 もし、日本の主張が水産業界の思惑のゆえであるとするなら、その一部業界の主張を一国の主張とする結果、それが日本全体の国際的イメージに落とす影を、冷静に勘案したほうがよい時期になっていると思います。(水産資源枯渇の非難への防衛策であるのなら、むしろ、 “海の牧場大国” とか、 “海洋資源維持先進国” とかの方向に、それこそ国をあげた積極的展望を持つべきでしょう。)

 日本は、80年前、大東亜共栄圏という同じような独自の日本らしい構想をかかげ、それを世界に向けて主張して孤立し、その結果、膨大で悲惨な犠牲の上、無条件降伏という元の木阿弥以前へと後退させられて終決しました。
 むろん、世界の世渡りに、多少の喧嘩腰は避けられませんが、それも、大勢として通用している紛争の国際ルールを破ってまでの大喧嘩にしてしまっては、自国の国際的信望に泥をぬる結果となります。
 私は、そうした世渡り上の紛争事は、現行憲法の範囲内でも充分に収められることと思いますし、実際に収めてきたのだと考えます。むろん、現在のような緊張の深まる国際環境にあって、そういうこれまでの方法が今後も有用なのかは議論となるところです。しかし、そこで憲法を改正し、ことに第9条という原則に関わるような改正を、そうした緊張の中であえて展開するようなことは、どう見ても、かたくなな鯨論争の延長どころか、日本らしさをまたしても孤立の果ての自損に終わらせかねない、繰り返してはならない過ちではないのかと案じられます。
 国際情勢が今日のように緊張化に向かえばむかうほど、いっそう実質的で現実的な世渡り上手な技量と判断が求められます。そういう時、その能力は、憲法改正といった、国内の制度的仕切り直しによって対処できる次元の問題ではないでしょう。むしろ、そういう経験や手腕をもった日本人層を急いででも厚くしてゆく、そういう、人的資源の問題だと思われます。

 いよいよ、明日、参議院選挙投票日ですが、先週、今回は機会を逸しずに、早々と在外投票を済ませました。私の票はもう、日本の選管に届いているはずです。

 (2013年7月20日)


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