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<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第1回)
連載最初のコメントですが、まず、この題名についてです。
原題は、翻訳出版されている題名のように 「天皇の陰謀」 との訳がもっとも近いものと思います。ただ、いわば敵・味方という見方からはそうなるでしょうが、私を含む日本人側としては、「陰謀」
であろうが 「オープンな政策」 であろうが、それに巻き込まれた国民として、その当事者とされていることは間違いありません。つまり、その 「陰謀」
の影響が、同一文化の粘性に溶解し、自分のどこか一部に忍び込んでしまっているわけです。要するに、餌食化です。
加えて、一般日本人は、そうした 「天皇の陰謀」 によってあやつられていたばかりでなく、さらにその天皇を利用し、天皇ごと日本全体をあやつってきている、アメリカの
「陰謀」 があるわけです。(後発国の王の弱みや腐敗を逆手どり、それを見逃したふりをしつつ結託し、王と国民の両方を支配する米の “手口” は、今もちっとも変わっていません)。そうした意味では、そこには二重の
「陰謀」 の餌食化があるわけです。
そうした判断から、「陰謀」 との語句は用いず、二重性を重視して、「ダブル・フィクション」 としました。また、もし、「陰謀」 という語句にこだわるなら、「アメリカとの二重陰謀としての天皇」
とせねばなりません。
それに、今日の資本主義制度自体が、競争という名の、姿を変えた大小無数の陰謀の巣窟でもあるわけで、こちらも、対抗陰謀に手を染めなければ、ということになります。この視点を加えれば、「三重陰謀」ということになりましょうか。
ただ、私の翻訳版のそのもののタイトルには、他の翻訳と同様、 「天皇の陰謀」 としてあります。
ところで、私は、このバーガミニという著者が、この 「謎解き」 にふさわしい人物なのかどうか、実はまだ断定し切れていません。少なくとも、全編を読み終えた後でないと、その判断は下せません。ですが、読まなければ知りようもありませんので、エイヤーとねらいを定めて、作業を開始しました。結果、ねらい外れだったとなる恐れもあります。
今回、掲載した 「まえがき」 と 「著者から読者へ」 について。
「まえがき」 を書いている推薦者は、終戦直後、戦争犯罪を裁いた東京法廷で裁判長をつとめた、オーストラリア人判事によるものです。
東京法廷で、なぜ、天皇の訴追が行われなかったのか、その裁判側の事情を語っています。また、国際法において、戦争は、どこまでが適法で、どこからが違法なのか、その辺のアウトラインについても、よくわかります。
ここオーストラリアから見ると、フェアー精神あふれるオーストラリア人らしい彼の人柄とともに、日本を左右した歴史の深層構造が垣間見られるイントロです。
第二の 「著者から読者へ」 は、読んで字のごとく、著者からのメッセージです。彼のまじめで几帳面な人柄のあふれている文章であると同時に、彼がなぜ、この大仕事にとりくむこととなったのか、その経緯について詳しく語っています。
彼の父親は築地の聖路加病院を建てた建築家で、彼は日本に生まれて8歳までを育ち、日中戦争に巻き込まれて家族ごと日本軍の捕虜となり、九死に一生をえて生還しえてゆく記述は息をのみます。
戦争という大決定がどこかでなされ、その潮流に運命をさらわれた個人や家族の、現代史上のリアリティーが如実に語られ、彼がなぜこの仕事にとりくまざるを得なかったのか、よく了解できます。
私もいま、外国で生活する身ですが、もしもですが、戦争に巻き込まれたと仮定すると、他人事とは思えないストーリーがそこに見出せます。逆に、そうした 「もし」 を引き起こしてはならないと、ひしひしと感じさせられる体験でもあります。
また、著者バーガミニが執筆にあたった60年代末のアメリカから考えると、今日のアメリカは想像もできません。しかし、その民主主義の守護神であったかのアメリカが、半世紀近くもたつと、まるで司馬のいう 「鬼胎」 のように、この本が語る戦前の日本と大きく重ってくるような、歴史上のアイロニーとも言うべき変貌が見られます。
著者は今でも存命中のようで、78歳ほどになっているはずですが、今日の自国アメリカを、どう見ているのでしょうか。
つまり、彼にとって二重目の「陰謀」は、陰謀ではなく 「賢明な決定」 であったわけで、それは彼自身もそう表現 しています。
ですが、彼はこの 「陰謀の二重性」 をどこまで認識していたかは、今後の読み進めで確認してゆかねばならない点です。
また、日本は、戦後、平和国家を看板に、急速に経済成長をとげ、アジア第一の先進国となったわけですが、彼は、天皇が、そこまでも見通していたかに書いています。
これは私の直感ですが、それは見通しというより、戦後の天皇は、アラブの王様たちのように、アメリカという、長いものに巻かれていた君主になりさがっていたのではないか。むしろ、バーガミニは、見通していたかに書くことで、アメリカの陰謀の二重性に目をつぶろう、あるいは、自国の優越性に酔おう、としていたかにも読めます。
そこでですが、では、日本人として、敗戦の段階での選択は何が正しかったのか、という問いが浮かび上がってきます。
仮に、天皇にも極刑が執行されていたとすると、日本は本当に混迷の極に達していたのでしょうか。
ここから先は想像の世界ですが、その判決を契機に、天皇制を見直さなければならなくなったのは当然の結果でしょう (それで日本人が総くだけとなり、烏合の衆となった? それは陰謀側の宣伝で、そうはならなかったでしょう)。
むしろ、明治維新を契機に、政策的に利用されてきた天皇制が、そうしてむしろ江戸末期の非力な天皇制の状態に舞い戻り、天皇家が、自然な形で、普通の名家のひとつにもどっていく過程がみられたのではないでしょうか。
むしろ、たしかに、当時避けられなかった共産主義の影響は受け、日本も朝鮮半島のように、二分される状況に至っていたかもしれませんし、いなかったかもしれません。もちろん、一人勝ちの経済成長もなかったでしょう。そうしたありえた状況を想像する時、先のエッセイ
「星友 良夫」 だった人について にも表されているように、朝鮮半島で現に生きてきた人々のリアリティーも、いっそう真に迫ってくるはずです。
ともあれ、そうした選択をしようにも何にも、当時は、占領軍の命令がすべてを決定し、日本人に、歴史的方向を自己決定する自由はありませんでした。つまり、アメリカの国力の前に降伏した結果です。
しかし、そうした無力状態が解消されて半世紀以上がたち、しかも、アメリカの国力の影響力にもかげりの見える今日、日本をめぐる 「ダブル・フィクション」 について思いをめぐらすのは、時宜にかなったことと思います。またそこで初めて、戦後の混乱期を、日本とは異なった環境の中で生き抜いてきた他のアジア諸国との、共通基盤の形成が始まるのではないでしょうか。
そうした考察のテキストとして、この 「訳読」 を続けて行きたいと思います。
(松崎 元、2006年6月11日、23日一部修正)
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