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<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第6回)
60年をへだてた民族的教訓
この 「訳読」 の作業は「連載」のはずであったのですが、前回が昨年11月に掲載されたのち、中断状態が今回まで、半年も続いてしまいました。
その中断の原因は、「寿司修行」 が忙しくなってしまったため、この訳読に当てる時間が少なくなってしまったことにあります。ただ、やや正確にそのへんの事情を申し上げれば、毎日、短い訳読用の時間が見つけられないわけではないのですが、30分や1時間ほどの時間量では、そのほとんどが、それまでの作業世界を頭の中に再現する、いわばウォーミングアップで終わってしまって、実質の仕事に入ろうとするころで時間切れとなってしまいます。
ともあれ、続きを期待されていた読者には深くお詫びを申し上げますとともに、そうして、ちょっとずつ貯めてきた作業がようやくまとまった量となりましたので、今回、第二章 原子爆弾(その3) として、なんとかそれを掲載いたします。
さて、その一区切りの今回なのですが、この 「原子爆弾」 と題した本章は、今回をもっても終結していません。原本で66ページにわたるこの章が、今回で、42ページ分までをカバーしています。残り24ページ分ですが、それを次回に、「その(4)」 として一回で完結したいと思っているのですが。
今回があつかう内容は、ポツダム宣言受諾をめぐる、最後の2ヶ月余りを述べたものです。
国家をあげての大戦争を遂行している、その責任ある指導者たちが集まってしているはずの議論なのに、話はまとまらず、天皇にお膳をあずける形で御前会議を開き、そこで、あの有名な、「耐えがたきを耐える」
決断がなされてようやく形をなす、そうしたいきさつの詳細です。
ひとことで言って、日本人だけに限っても3百万人 (アジア、連合軍諸国を総計すれば2千万人以上) の犠牲者を出した重大戦争が、こんな無様な終わりようしかできなかったのかと、惨憺たる気分にならざるを得ないくだりです。
そして、もし日本人に、なにか、 《日本人性》 とでもいえる、民族としてひとまとめにして指摘できるひとつの特性があるのだとすれば、いつも何かあるいは誰かに頼っている、依頼心を抱いている、甘えている、そうした気性、つまり
《日本人性》 が、民族の興亡が問われるそのとどのつまりで、そうであるだけになおさら、もろに露呈している――そうした印象を強く受ける今回の部分です。
そういう意味で、これはまだ、仮説中の仮説とも言うべき段階ですが、そうした 《日本人性》 が 「不可侵の天皇」 という虚構を発明し、生の個人としての
「天皇」 もそれに乗ってその役を演じ、それが虚構であるがゆえに、最後には空ろな結末しか生じなかった。ことに、他民族を相手にした戦争という、ある種の民族性と民族性のぶつかりあいの場にあって、その特徴が如実に析出した。
国をひとつにまとめるために、アメリカ人に 「強いアメリカ」 という結束綱が必要なように、日本人には、 「相互依頼」 という接着剤が必要なようです。しかし、それらが結局は虚構、フィクション、に過ぎないということは、この今回の内容によっても、また、イラク戦争をめぐるアメリカの現在の崩れようを見ても、はっきりと見えてきています。
そうだとすると、今の日本――かって神たる天皇にすがり鬼畜たるアメリカと戦争し、それに敗北すると、こんどはその 「鬼畜」 に執拗なほど追随してきた――が、さすがのそのアメリカも国力を浪費させ単独覇権国としての地位を降りようとしている現在にあって、それでもなおその依頼し甘えるアメリカのなすがままに、かっての民族的大失態の教訓からの民族的遺産でもあるはずの憲法の、不戦の精神、を改めてでもそれに甘んじようとする姿は、親の愛に飢える孤児の渇望とでもうけとめられる、ひずんだ人間性を示しています。
互いにもたれ合う相互依頼の構造を克服し、誰にもどこにも頼らない自立した個人の相互尊重がもたらす結束をこそ、 《日本人性》 にしてゆきたいと思います。
では、今回翻訳の 「原子爆弾 (その3) 」 へ どうぞ。
(松崎 元、2007年5月14日)
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