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<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第13回)
ようやく 「1部」 が終了
時の経過は、人に冷静な目を与えるものです。時が作り出す距離がもたらす、遠望視野の成せるわざです。
そうした遠望として、東京戦犯裁判があります。
その裁判をめぐって繰り広げられた思惑についてですが、日本という 「危険な国」 を、どうにか治めなくてはならないアメリカとして、最小の資源投入をもって最大の効果をえる方法が、従前の統治を利用してその国を作り変えること、つまり間接統治――もっと言えば傀儡統治――として、天皇を利用することでした。つまり、その国が、専制国家でその君主の権威が絶大な場合、その専制君主さえ牛耳ることができれば、以下はそれに従うわけですから、この
「一点突破」 主義は、単純なほどに有効です。しかし、その国が、もし、曲がりなりにも民主的制度に基づいていた場合、この 「一点突破」 主義は働きません。もっと、手の込んだ策謀が必要となります。
ただ、単純といっても、いくら専制君主といえども、かつての敵と協力関係に入るわけですから、その 「変身」 は誰の目にも明らかです。ましてその戦争で身内を失った遺族にとっては、その変身の意味はさらに切実です。ですから、新たな支配者にとって、へたをすれば、これまでの専制への反動作用も手伝って、一気に、革命的情勢を引き起こすことにもなりかねません。
その日本の場合、この 「陛下の変身」 はどう対処されたのか。
その手品の種は、忠誠心という、いかなる矛盾や辛苦をも、それを忍べば忍ぶほど尊いとされる、支配者への従順の活用でした。いうなれば、苦しい国民以上に天皇も苦しんでいる、その
「人間的」 苦しみの共有をむしろ逆用しての一体感の創出でした――天皇が西洋的 「絶対無二の神」 であったとしたら、このマジックは働かなかったでしょう。それにしても、みごとなすりかえです。そこに、天皇と国民の共生感を作り出してその責任は不問とする、一石二鳥の筋書きの、歴史的ねらいどころがありました。
ただ、そうした統治を、アメリカを中心とする連合軍が行うためには、ことさら大がかりな装置を必要とし、それが東京戦争犯罪裁判でした。これは、この 「陛下の変身」 を、今度は日本向けにではなく連合軍各国向けに、西洋的論理にのっとり、西洋諸国に翻訳する作業で、もともと平和愛好者であった天皇を、軍部がいつわって戦争に引き出し、無惨な敗戦に至らせたとの論理です。ことに、天皇への忠誠心の鑑でもある東条英機には、天皇の 「変身」 を問うことすらありえず、むしろその身代りとなって自分の責とし、間違った戦争の下手人役を引き受けました。むろん、戦争指導者のトップである天皇の戦争犯罪を不問とし、はるか下の現場司令官たちが犯罪人として処刑される大矛盾も、こうしたつくろいの当然の結果でした。
ちなみに、昔、小学生の時、我が家に入って間もない白黒テレビで、そうした理不尽さを描いたドラマ、 「私は貝になりたい」 (最近、日本でそのリメーク版映画が上映されたようですが)
を見て、筋はよく覚えていないものの、涙をぽろぽろ流したことだけはよく思い出されます。
そうして、アメリカの世界支配と天皇制度が共生共存する枠組みが固められたわけです。
今回 「訳読」 中の 「まやかし裁判」 では、その経緯やつじつま合わせの様がが詳細に述べられています。
ところで、敗戦をあつかった本書 「1部」 が、今回の 「訳読」 でようやく終わりとなりました。
本書は、全部で7部まであり、まだまだ先は長いのですが、ともあれ、その七分の一が終了しました。
次回、新年早々から、第二部の歴史分析に入ってゆきます。
この歴史の部分(第二部と第三部)は、既存訳版#では割愛されている部分で、そういう意味では、初の日本語訳出となります。今回、 「もくじ」 に、その二つの部を小見出しまで訳しておきましたので、予告編として御覧ください。
〔 # 『天皇の陰謀』、いいだ・もも訳、れおぽーる書房、1973年(第三版)〕
では、今回の訳読へとご案内いたしましょう。。
(2009年12月15日)
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