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<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第75回)
日中史の分岐点
今回の訳読のハイライトは、「西安事件」 です。従いまして、訳読の中の見出しも、原作では 「蒋介石誘拐」 とあるのですが、あえて、 「西安事件」
としました。
西安とは、唐の時代では長安と呼ばれ、日本でも奈良平城京(710年)のモデルともなった中国古代の名都です。13世紀には、 『東方見聞録』 を著わしたマルコ・ポーロが、その目で見たシルクロードの出発地でもありました。
ただ、今回の訳読での 「西安事件」 は、事件の重要さの割には簡潔で、加えて、歴史記述としてはあまりに小説風で、要領をえていません。そこで、この事件を詳しくのべた
『張学良はなぜ西安事件に走ったか』 (岸田五郎著、中公新書) から、その要約を借用させてもらいます。
- 「西安事件」 がおきた1936年というのは、二月には日本で 「2・26」 事件、七月にはスペイン内乱が勃発し、世界大戦前夜という状況にあった。
しかし、中国は1927年以来、内戦がつづき、国民党による全国統一はまだまだ不完全なものだった。中国社会の内部には対立と抗争があり、また、それに乗じた日本政府および帝国陸軍が、圧倒的な軍事力を背景に国民政府に圧力を加え、蒋介石の全国統一を銃剣によって阻止・妨害していた。そのあらかさまな動きが、・・・日本軍部の華北五省の中国からの切り離しによる第二の
「満州国」 化をめざした 「華北分離工作」 であり、これに反対して北平 〔北京〕 の学生が立ち上がったのが、1935年12月9日の 「12・9」
運動である。この事件に参加した学生らの説得が張学良と楊虎城 〔中国共産党紅軍17路軍々長〕 を動かし、結果的に西安事件の引き金になった。西安事件の特異さは、学生運動の影響を受けた張学良が軍隊を出動させて、乾坤一擲の大勝負にで、最高指導者の蒋介石を監禁して政治方針を変えさせようとしたことである。
中国では皇帝への 「諫言 〔かんげん〕 」 は、歴史上、しばしば見られるが、 「兵諫 〔へいかん〕 」 という手段は、中国歴史上でも二千六百年前の春秋時代の楚 〔そ〕 にただ一度あるのみで、それも国家存亡の危機というものではなかったのである。
それだけ、張学良自身と中国が追い込まれていた、ということである。追い込んでいたのは、日本だが、この結果、中国共産党も生き返った。
国民党のなかで、西安事件がなければ共産党に敗北することはなかった、という意見があるのもこのためである。中国共産党にも同様の見解があるからこそ、張学良と楊虎城を
「千古功臣」 と讃えている。(同書、p.213-4)
そういう76年前の日中史の要点に改めて触れながら、他方、今、日中韓をめぐって、唐突なほどにささくれ立ち始めている赤裸々な国家間論争を目の当りにしている現状があります。
ことに、中国との関係で言えば、この訳読がその経緯を克明に描いてきているように、日本が満州をかすめ取り、それにつづいて、北中国地方をさらに分割しようとしているかっての力ずくでの謀略があります。
さらに、もしこの西安事件が発生していなかったなら、日本の中国本土での存在はより強固、広範となったであろうし、中国共産党の中国支配も、おそらく、達成していなかった可能性もあります。つまり、第二次世界大戦後の東アジア地図が、今日のものとは根本的に違っていたことも考えられる、その歴史的分岐点がこの西安事件でありました。
当時のそうした日本の謀略行為は、いまの日本には到底なしえない暴力沙汰でしたが、当時の地政学、各国間の駆け引き、それに国の実力関係から言って、なされうる現実行為でありました。
つまり、いわゆる経済力ランキングにおいて、昨年、日本が世界二位から三位に転落し、中国がそれに入れ替わったことから見ても、今日の日本と中国の国力の実力関係の変化は明瞭です。
その変化は、かって、日本が力ずくでやったことを、改めて想起させるに充分なものであり、そのしっぺ返しが試みられたとしても、理由のないことではなさそうです。
そういう意味では、今日、かっての我が国が隣国に対して何を行ったのか、その確かな事実を知っておくことは、話の出発点として、必要な基礎認識でありましょう。
ところで、西安事件が発生した現場、華清池と呼ばれる温泉地 (西安の東およそ30km) は、8世紀、玄宗皇帝が寵愛する楊貴妃との甘美な日々を送った温泉宮として有名なところです。それから12世紀後、まったく同じ場所で、張学良による蒋介石の拘禁というこの事件が発生しました。
実は私は、1997年、ふとした機会で、この地を訪れました。楊貴妃が浴したというそのお湯にも入り――入浴後、自分の肌がすべすべになっているのにびっくりしました――、また、潜んでいる蒋介石が発見されたという場――
「兵錬亭」 と呼ばれるあずま屋が建っていた――も見てきました。この近くには、兵馬俑で知られる秦始皇帝陵墓もあり、観光客で大いににぎわう場所でもあります。今、改めて思い出しても、中国の歴史の深さを再認識させられる地でした。
さらに個人的には、父親が、生存中には自分の戦争体験をほとんど語りませんでしたが、ある時、短くそれを語ったことがあります。自分の隊を率いて黄河沿いにさかのぼり、その黄河が北へと直角に曲がるその先まで進軍した、と語っていました。ということは、そこが、この西安の東部にあたります。私はその地に立って、父親もこの光景を見たのかも知れないと、ある複雑な感慨にとらわれながら、その情景を見やっていたことを思いだします。
それでは、第22章(その2)へ、ご案内いたします。
(2012年9月13日)
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