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            巻末脚注(3)



 第三章 敗戦

 (1) 木戸 『日記』 1226-27。「平沼の入歯」については、 大宅、『日本のいちばん長い日』、320。
 (2) 安藤 『戦争と華族』、上巻、1、 木戸 『日記』 1226-27。
 (3) Army order no. 363, top secret, Aug. 17, 1945, IPS Documents No.539。
 (4) Gayn, 156, 496。
 (5) 上掲書、67-68。
 (6) 朝日新聞 1965年12月22日。
 (7) Brines, 104, Gayn, 46, 88, 136, 154。
 (8) Singapore Times, Apr. 9, 10, 1946。
 (9) Clifton、28-32。
 (10)
林茂他, 1-84、 今井 『降伏と』 74。
 (11) 木戸 『日記』 1228-29、Gayn, 51。
 (12) Bush、Circumstance, 183, 256、「書類を焼く炎」については、Kodama, 173。
 (13) IPS Documents No.539。
 (14) 小泉とのインタビュー
 (15) Piggott、367。
 (16) 今井 『降伏と』 75。
 (17) 住本 59、Gayn, 233-41。
 (18) Gayn, 212-16。
 (19) 住本 58、木戸 『日記』 1222, 1229-30。
 (20) 住本 58、Gayn, 178-79、Wildes, 35。
 (21) Butow, Japan's Decision, 223、注記28、安藤 『戦争と華族』、上巻、87。
 (22) 「マニラへの特使」の節では、特記ある場合を除き、以下の文献による。USAFFE “Japanese Monograph” No. 119, 15-17, 『Statements』, 2: 91-97, 107-8 の Kawabe Torashiro; 同書, 2: 444-50 の Matsumoto Shunichi; 同書, 145-46 の Ohmae Toshikazu、Craig, 237-49。
 (23) 木戸 『日記』 1228 (Aug.. 21, 1945)。
 (24) 以下、日本に対する戦後政策についての連合軍各国の違いについては、以下の文献による。
Far Eastern Advisory Commission, A4-9, unlettered appendix; Australia, "Cablegrams 1945-1946"、Feis, Japan Subdued, 147-52 および本文献の諸所に、Wildes, 3, 71、Price, 2, 187-。
 (25) Lee, 178。
 (26) MacAtrthur, 283。
 (27) Gunther, 31-44。
 (28) Eichelberger, 260, MacArthur, 282, Wildes, 72。
 (29) Hunt, 338-39。
 (30) Hunt, 395 参照。
 (31) Gunther, 72、74、75。ウィロビーの見方については、Willoughby, 235。
 (32) Willoughby and Chamberlain, 310。
 (33) Gunther, 71、73。
 (34) Claude Monnier. "Working Paper on Constituional Revision in Japan, 1945-46" (PhD dissertation, University of Geneva, April 1964) 16-17。
 (35) Maki, 124-32, Martin, 123-50。
 (36)Statements』、 1: 69 の Arisue Seizo。
 (37) Morison, 14: 359。
 (38) Kato Masuo, 256-; Craig, 237-49; N. Y. Times, Sept. 2, 1945。
 (39) 同上 Sept. 1, 7, 1945。
 (40) Willoughby and Chamberlain, 294。
 (41) Eichelberger, 263。
 (42) Willoughby and Chamberlain, 295に引用。
 (43) Craig, 292-; Whitney, 215-。
 (44) Sheldon, 29。
 (45) Brines, 23; Kato Masuo, 259。
 (46) 木戸 『日記』 1230-31。
 (47) Asahi Journal, 1966年1月30日号、74。
 (48) 木戸 『日記』 1229-30、小泉および匿名情報源とのインタビューで補充。
 (49) MacArthur, 288。
 (50) 木戸 『日記』 1230-31。
 (51) 同上。
 (52) 安藤、『戦争と華族』、上巻、1、Whitney, 247。
 (53) MacArthur, 287。
 (54) Eichelberger,264-。
 (55) Whitney, 216-。
 (56) 今井、 「降伏と」、74-75。
 (57) Whitney, 217- (ウィットニーのために Kase の書いた見解は、Kase, Journey to "Missouri" にある)、Shigemitsu, 374。
 (58) Shigemitsu, 375-6; Willoughby and Chamberlain, 302。
 (59) N. Y. Times, Sept. 4 1945; Willoughby and Chamberlain, 301; MacArthur, 280。
 (60) 住本 131, 185。
 (61) N. Y. Times, Sept. 6, 8, 11, 1945; Craig, 312-13。
 (62) Lord Russel, 66, 77, 180-86; IMTFE "Proceedings," 3268-, 3277-。
 (63) N. Y. Times, Sept. 9 1945。
 (64) Butow, Tojo, 446-67; Craig, 315-17。
 (65) Colt 38 とかしている著者もいる。その通し番号は 535330。
 (66) 木戸 『日記』 1234。
 (67) N. Y. Times, Sept. 13 1945。。
 (68) 同紙 Sept. 13 1945。.
 (69) ByasGovt. by Assasisination, 193-202; Jansen, 33-102 および髄所に; メンバーについては、Storry, Double Patriots, 312-13。
 (70) 属していない二人とは、加藤げんいち、および、橋本きんごろう。すでに死亡した三人目とは、内田りょうへい、四人目とは中野せいご。他の三人とは、広田広毅、菊池とよさぶろう、緒方たけとら。
 (71) 矢部、2: 581; Shigemitsu, 379; 木戸 『日記』 1234; N. Y. Times, Sept. 6, 8, 11, 1945。
 (72) 木戸 『日記』 1227-35。
 (73) N. Y. Times, Sept. 14 1945。
 (74) 同紙 Sept. 17 1945。
 (75) 同紙 Sept. 16 1945。
 (76) Willoughby and Chamberlain, 291。
 (77) 東久邇、 『私の』、 169。
 (78) Whitney, 227-32; Gunther, 52。
 (79) N. Y. Times, Sept. 19 1945。
 (80) Singapre Times, Sept. 20 1945; N. Y. Times, Sept. 19 1945。
 (81) 安藤、『戦争と華族』、上巻、87-88; N. Y. Times, Sept. 25 1945。。
 (82) Singapre Times, Sept. 25 1945。
 (83) 木戸 『関係文書』 512-14。
 (84) ニューヨーク時間の9月25日の朝は、東京時間の25日の夜。。
 (85) N. Y. Times, Sept. 29 1945; Singapre Times, Sept. 27 1945。
 (86) 木戸 『日記』 1237。
 (87) MacArthur, 287-88。
 (88) マッカーサーの会見についての幾つかの彼自身の見方から合成したもの。その最も完璧なものは、Far Eastern Commision, Australian Delegation, Interim Report, Feb. 11, 1946 に見られる。筆者はまた、この会見についての、Otis Cray の印象、マッカーサー自身の Reminiscences, も用いた。マッカーサーの最後の言葉と裕仁の助言を求めたことについては、木戸への直後の報告(木戸 『日記』 1237) より。また、Willoughby and Chamberlain, 327 も参照。
 (89) Wildes, 771。
 (90) 木戸 『日記』 1237-38; 1243。
 (92) この節は、以下の文献や資料を統合したもの――矢部、2: 581-、林正義、266-、木戸 『日記』 1239-40、Yoshida, 64-68、N. Y. Times, Oct. 7, 10-14, 18, Dec. 2, 1945、MacArthur, 305、インタビューした小泉および田中、を参照。
 (93) N. Y. Times, Oct. 16, 1945。
 (94) MacArthur, 282。
 (95) Sheldon, 120。
 (96) Craig, 296。
 (97) 個人的友人の口述。Sheldon, 42- に大変良く似た話。
 (98) Whildes, 36; Sheldon, 145; 住本 304.。
 (99) Whildes, 35-6; Gayn, 178-79; 松本、インタビュー
 (100) Wakefield, 176。

 (101) IMTFE, "Indictment,"。
 (102) 小泉および貴族の匿名情報源とのインタビューで確認。田中隆吉とのインタビューや 「かくて天皇は」、「鬼検事」や 『裁かれる歴史』 は豊富な資料を提供。また、木戸 『日記』 1137, 1153 (1944年8月25日, 11月16日)参照。
 (103) 巣鴨の法務委員会の1048頁、注記2 を参照、Kurzman, 246。
 (104) 木戸の最後の自由な一カ月については、木戸 『日記』 1238-57。
 (105) 伊勢旅行については、上掲書および木戸 『関係文書』 139-40。後の文書の中で、木戸は、年配の見物人が、戦前では土下座していたが戦後ではただ座しているのは結構なことだと考えた。彼は、「天皇家族との結びつきは目に見えないが、戦争責任に関する問題を越えたものだ。牛を引いた人々が礼をしていた。三重県の津駅では、入ってきた列車に、一人の未亡人が戦死した夫の遺影をかかげていた。私は彼女の顔を見て、そして思った。 『彼女は本当の日本人だ』 」、と記している。
 (106) 木戸 『日記』 1255。
 (107) 巣鴨の法務委員会の1048頁、注記2 、あとがきを参照。
 (108) Gayn, 30-。
 (109) London Daily Telegraph, Dec. 20 1945 の Cornelius Ryan 引用によると、侍従は松平やすまさ。
 (110) William P. Woodard (
ヴォーリズ夫人、一柳満喜子所有のヴォーリズの日記の閲覧ができた)、および Roy Smith (ヴォーリズと同じ頃来日し神戸で教えていた)とのインタビュー。住本 131, 185.。
 (111) Far Eastern Commission, Australian Delegation, "Interim Report," Annex VII。
 (112) 住本 135-36.。
 (113) Wakefield, 145、Holtom, 219。
 (114) 英訳には北川ひろしの日本語解釈に負っている。Wakefield, 144, Brines, 98。
 (115) 「民主主義の君臨」 の節では、特記ないかぎり、木戸 『日記』 1240-42、木戸 『関係文書』 514-26、MacArthur, 300-01、New York Times, Oct. 22, Nov. 2, 22, 1945。
 (116) Far Eastern Commission, Pacific Affairs Division, "Memorandum"。
 (117) 同上書、Whitney, 248-; Gayn, 126-29。
 (118) Straits Times, Apr. 8, 1946。
 (119) 藤島、61。
 (120) Whildes, 82;、Gayn, 136。
 (121) 明治憲法と新憲法の比較については、Borton, Appendix IV。
 (122) トニー加瀬および秦郁彦との面会証言。1960年代の自衛隊将校には、二次大戦時首相の東条英機、インドネシア司令官の今村均大将、A級戦犯弁護士で陸軍省軍務局長の佐藤賢了、1928年当時の陸軍大臣の白川義則、そして、戦時捕虜管理官、浜田ひとし、のそれぞれの息子たちがいた。
 (123) Brines, 91。
 (124) Far Eastern Advisory Commission, WC 5-401。また、Australia, "Cablegrams", 1945-1946。
 (125) MacArthur, 318。
 (126) New York Times, Nov. 25, 1945。
 (127) MacArthur, 318。
 (128) Butow, Tojo, 496、Willam J. Sebald with Russel Brines, With MacAuthur in Japan: A Personal History of the Occupation (New York: W. W. Norton, 1965), 157。
 (129) New York Times, Nov. 16, Dec. 1, 7, 8, 15, 1945、Singapre Times, Dec..14 1945。
 (130) Far Eastern Commission, Australian Deligation, "Interrim Report," Annex VII, Report on war crimes presecution progress, Jan. 7. 1946。
 (131) 同上資料、Annex I。
 (132) 住本 314.。
 (133) 田中隆吉、「かくて天皇」、「鬼検事」、インタビュー
 (134) John Lutter duspatch no. 291, May 11, 1946, to Time magazine。
 (135) Webb, Webb Collection, "IMTFE papers covering a series of applications . . . ," iterm (f)。
 (136) 同上書、Webb Collection, "Inward and outward correspondence with SCAP, Feb, 1946 to Feb. 1948, ", の諸所に。
 (137) 同上書、Wbb Collection, "Miscellaneous Correspondence, 1946-1948," reproduced in memorandum of Sep. 15, 1948 to Maj. Gen. Myron C. Cramer。
 (138) IMTFE "Proceedings," 21685、また 21680-690 in Canberra copy。
 (139) 同上書、"Proceedings," 29303-。
 (140) 木戸 『日記』 927-31。
 (141) New York Times, Sept. 26, 1945。
 (142) North China Daily News, Oct. 12 1947。
 (143) New York Times, Oct. 12, 1947。
 (144) IMTFE "Proceedings," 36520。
 (145) 田中隆吉、「鬼検事」、インタビュー
 (146) 著者バーガミニ自身の見解。 私の友人が私に代わって、知人である東条夫人に問い合わせて確認。
 (147) 田中隆吉、「かくて天皇」、「鬼検事」。
 (148) Webb, Webb Collection, "Inward and outward correspondence with SCAP。
 (149) 同上書、"IMTFE papers," item (e), 271-74。
 (150) IMTFE "Separate and Dissenting Opinions," Dissenting Opininon of the Justice from France, 20-23。
 (151) 田中隆吉、「鬼検事」。

 (2009年12月15日)

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