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            巻末脚注(5)

 (2011年1月7日現在)


第三部   若い皇帝

 第六章 裕仁の少年時代(1900-1912)

 (1) 冒頭の四つのパラグラフは、 「五家族」 のうちのひとつの家族に属する一人の貴族とのインタビューにもとづいている。筆者は、裕仁の息子である明仁皇太子〔現天皇〕の元主任教師であった小泉信三の話を再録した。彼はため息をつき、同じ噂話を聞いたと認め、さらに、肩をすぼめる動作を見せて、 「当時では、ほとんどどんなことでも可能であった」 と述べた。その文献上の確証については、本文の(1)を参照。
 (2) Ponsonby-Fane, Imperial House, 16, 21, 22。
 (3) Baroness d'Anetham, Fourteen Years of Dipromatic Life in Japan (London, 1912), その日付の個所。
 (4) Pigott, 125; Enthronement of the Emperor, Futara, "The Life of the Emperor", 47; Fleisher, 21 参照。また、Ponsonby-Fane Imperial House, 337 のノート参照。
 (5) 田中惣五郎、 『天皇の研究』、東京、河出書房、1951年、232-37、小泉とのインタビュー
 (6) 本庄、254。
 (7) 筆者の情報の出所のもっとも貴族的な人物は、木戸の母についての話を私に告げた。その話は、 『木戸日記』 でも裏付けられ、そこでは、木戸は母親を異例な尊敬をもって取り上げており、その母親の年上の親戚を「忠太郎様」としている。この「様」という呼び方は、彼の日記の他のどの個所にも出てこない。。
 (8) 「近衛? 彼はいい男だ。私が学習院に通っていた頃、私は彼をいじめて泣かせたものだ。だが、私は彼がとてもいい奴だと思ったよ。」 松本清張による東久邇へのインタビュー、 『文芸春秋』 1968年1月号、160-。
 (9) Jansen, 105-30。
 (10) 日露戦争に関するこの章は、特記ないかぎり、Yanaga, Since Perry, 294-300、Hargreaves、および、Thomas Cowen, The Russo-Japanese War (London: Edward Arnold, 1904) による。
 (11) くず よしひさ 『東亜先覚志士紀伝』 (東京、1933-1936)、Jansen, 109 の引用。
 (12) Post Wheeler and Hallie Erminie Rides, Dome of Many-Colored Glass (Garden City, New York: Doubleday & Co., 1965), 306-。
 (13) Scherer, Meiji Leaders, 103。
 (14) Yanaga, Since Perry, 311-17。
 (15) Harrison, 187-89.
 (16) 当時日本で教えていた Arthur Hummel and Roy Smith とのインタビューに基づく。
 (17) Takahashi Yoshio. Sanko iretsu [Three Examples of Distinguished Service] (Tokyo: Keibundo-sha, 1925), 90-145。
 (18) Yanaga, Since Perry, 343-45。
 (19) 田中惣五郎、 『天皇の研究』、東京、河出書房、1951年、232-37、Mosley, ch. 1; Scherer, Meiji Leaders, 83, 71-73, 96: Koyama, 87; 小泉とのインタビュー
 (20) 松本清張による東久邇とのインタビュー。 『文芸春秋』 1968年1月号、160-。
 (21) Jansen, 105-30; Yanaga, 348。


 第七章 
皇太子裕仁(1912-1921)

 (23) Mosley, 19-20; Gibney, 92; A. M. Young, Recent Times, 18. 乃木の切腹の動機についての私の印象については、木戸 『日記』 527-30 による。
 (24) この節はすべて私の解釈であるが、本書の情報源である貴族はこれに同意している。通常、大正天皇は桂の手先であったとみられているが、桂のおこした未熟なクーデタの挫折、あるいは、桂や貞愛やその他の親王にかかわる社会的地位からいって、これは不適切である。つまり、宮廷のタブーがゆえに、大正天皇が宮廷の直接的な力を急に増加させようとしたことが明白な事実であるにもかかわらず、日本人は桂を非難してきたと私は結論する。以下の文献を参考にされたい。Bushu, Land of Dragonfly, 93; Beasley,182; Borton, 251; A. M. Young, Recent Times, Ch. 2; Faribank et al, 559-63; Mosley, 21-22.
 (25) 原田、4: 334-35。
 (26) 原田、4: 38。
 (27) 田中惣五郎、 『天皇の研究』 (東京、河出書房、1951年)、232-37、時代研究会、Rising Japan (Tokyo 1918), section II 。
 (28) 小泉とのインタビュー、甘露寺受永(かんろじおさなが)の話の伝聞。
 (29) これは、 『杉山メモ』 や 『本庄日記』 が出版されるまで、認識されていなかったこと。
 (30) 田中惣五郎、 『天皇の研究』 (東京、河出書房、1951)、232-37。
 (31) 原田、1: 11-13。
 (32) この節は、James William Morley, The Japanese Thrust into Siberia, 1918 (NewYork: Columbia University Press, 1957)、および、A. M. Young, Recent Times, 128-42, 177-87、に依っている。
 (33) Omura Bunji, 351。
 (34) 松本清張による東久邇とのインタビュー。 『文芸春秋』 1968年1月号、160-。
 (35) この節は、室伏、158-60、Koyama、22-35、Mosley, 35-51、鶴見、6: 259-261。
 (36) 時代研究会、Rising Japan, section III。
 (37) 矢吹一夫、 『文芸春秋』、特別号、1956, 149。〔原文には矢吹でなく「やつじ」とあるが著者の誤りと思われる〕
 (38) 室伏、158-60。
 (39) Futara、13-36、および随行員の自伝情報で補強。
 (40) この節は、Futara、36-182 による。
 (41) Pigotto, 129 に引用されている、Lord Riddle, Intimatee Diary of the Pease Conference and After, 1918-1923 (London: Victor Gollancz), 298 による。Pigotto は裕仁と英国皇太子についての話も、Pigotto, 126 に述べている。
 (42) Vining, Crown Peince, 114。
 (43) 毎日新聞、1921年7月9日号。
 (44) Le Temps, June 26, 1921。
 (45) 退役アメリカ陸軍諜報部大佐、Eugene Prince とのインタビュー。
 (46) A. M. Young, Recent Times, 249-50。
 (47) 原田、1:220-21。
 (48) 最も皇族に近い著者の情報源から引き出された著者の見解で、著者がそう尋ねた際、田中(面会者)からも小泉(面会者)からも否定はされなかった。東久邇、 『私の・・・』 19 もその根拠のもととなっている。
 (49) 高宮、 『軍国・・・』 に引用されている、高橋、142-。この会議は英語ではそれまで扱われていなかったが、筆者がそれについて触れた時、その開催について知らなかった日本の将官はいなかった。ここに述べた詳細は、インタビューと、バーデン・バーデンについての知識によるものである。
 (50) Le Temps, Oct. 22, 1921。
 (51) 伊藤金次郎、1: 136-38。ペタンと陰謀者の外貌は写真をもとにした著者の印象である。
 (52) 同上、1: 356 を藤沢との面会で補強。
 (53) 伊藤金次郎、2: 310。
 (54) 毎日新聞、1963年3月21日号。
 (55) この節の主要事件である自動車事故については、朝日新聞(大阪版)1923年4月3、4、7日に拠っている。幾つかの詳細と軽微な食い違いについては、La Temps、1923年4月3, 4, 5, 7, 8日、および、Illustration、1923年4月7日、5月5、12日、参照。
 (56) 例えば、原田、7: 234 参照。その引用によると、1938年、裕仁は、「陰謀はきわめて信頼性を欠く。鉄則は、それはみな失敗するもので、ひとつでも成功すれば、それは奇跡というものだ」、と語っている。


 第八章 摂政裕仁(1921-1926)
 (57) この章では、注記ある場合を除き、その根拠を以下の文献に拠る。J. Ingram Bryan, Japan from Within: An Inquiry into the Political, Industrial, Commercial, Financial, Agricultural, Armamental and Educational Conditions of Modern Japan (New York: Frederik A. Stokes, 1924); 藤原 彰、 「宇垣一成と陸軍の近代化」 ( 『中央公論』 、80, No.8, 372-); 鎌田澤一朗、 『宇垣一成』 (東京、中央公論社、1937年); 中山まさる、「大川周明とのこと」( 『流れ』 1958年2月); 栗原 健、 『天皇: 昭和史覚書』 (東京、有信堂文化新書、1955); Barclay Moon Newman, Japan's Secret Weapon (New York; Current Publishing Co., 1944)。
 (58) Price, 22; Mosley, 70-71; および、そのパーティーに出席していた人との面会
 (59) 原田、4: 331。
 (60) Mosley, 29、本庄, 254。
 (61) 西園寺は、1913年、大正天皇によって非公式に元老の地位が与えられていた。木戸 『日記』 207、原田、4: 333-34。
 (62) 注記のない限り、この節は、Brocade Banner, 14, 23、大谷, 『憲兵史』 71-72 に拠っている。
 (63) 大谷, 『憲兵史』 71。
 (64) 田中、 『大川周明博士』。
 (65) 大谷, 『憲兵史』 71、および、鶴見、4: 99。
 (66) 大谷, 『憲兵史』 71、Brocade Banner, 38、田中、 『大川周明博士』。
 (67) Brocade Banner, 11-16、林房雄、148。
 (68) Brocade Banner, 13。
 (69) 林房雄、148。
 (70) Brocade Banner, 12-13。大谷, 『憲兵史』 71, 89-91。
 (71) Nishida Chikara。
 (72) 「昭和を震撼した北一輝」、文芸春秋、特別号、1956年2月、148。
 (73) IPS Documents Nos. 687 と 689 は、大川が学長の間の著作の抜粋を表わしている。そのひとつに、彼は大学寮を「植民地大学」と呼んでいる。別のところでは、1924年2月20日付で農業経済学者・思想家の佐藤信淵を評価している。そこで大川は、「佐藤の考えによると、最初に創造された国は日本である。従って、日本はすべての他の国の基礎である。その初めより、すべての人々に平和と満足を与えることは、この帝国を治める者の使命であった。それゆえ、その者は最も具体的な地政学的思想を確立し、そこにもとづく方法は、世界を支配する日本の天与の使命を説明している」、と記述している。 大川は続いて、東シベリア、南海諸島、および世界貿易の支配の確保として、最初のステップが何かに言及している。
 (74) 木戸 『関係文書』、630-32 にある1945年3月6日付けの原田から木戸への手紙。
 (75) Bush, Land of Dragonfly, 140-43、A. M. Young, Recent Times, 295-306。
 (76) Scientific American, Supplement No. 1293, May 26, 1900。
 (77) 木戸 『日記』 507。
 (78) Kido, "The Circumstances Before and After the Resignation of the Third Konoye Cabinet," IPS Document No. 2 (Library o Congress microfilm WT6)。
 (79) 大谷, 『憲兵史』 60-、室伏、191-93。
 (80) 鶴見、5: 119、室伏、191-93。
 (81) Bush, Land of Dragonfly, 144、A. M. Young, Recent Times, 307、Yanaga, Since Perry, 403-。
 (82) 田中惣五郎、 『天皇の研究』 (東京、河出書房、1951)、232-37。
 (83) 武田、1。
 (84) Koyama, 10-34。
 (85) Koyama, 42。
 (86) Mosley, 87-90, Koyama, 41-49。頭山の出席については Bush, Land of Dragonfly, 133。
 (87) 大谷, 『落日』 82-83。
 (88) 著者による陸軍削減についての見解は当時の毎日新聞よりえた退役大将のリスト、および、の配属転換についての 「私的記録」 にもとづく。これとは別の根拠による同様な見解は、、大谷, 『憲兵史』 15、Kennedy, Japan and Her Defence Forces, 104-25, 169-73、Crowly, 87-88、武田、7 にもとづく。
 (89) 大谷, 『憲兵史』 15。
 (90) 特記ない限り、この節は、Ekins and Wright, 16-23, Clubb, 144, Liu, 5-35 による。
 (91) IMTFE "Prideedings," 35172-185 の鈴木証言、および鈴木 『秘められた』、23-24 の 「北伐」。
 (92) IMTFE "Prideedings," 35158-。
 (93) 田中、 『大川周明博士』。

 第九章 天皇裕仁(1926-1929)
 (94) 鈴木貫太郎、 『今生』、13-、Enthronment of the Emperor, Futara Yoshinori, "The Life of the Emperor," 47-51、Byas, Govt. by Assasination, 300-301, 313-17、Fleisher, 17-20、Price, 17, 19-20。
 (95) Enthronment of the Emperor, Futara の記事、50、Japan Year Book, 1944-45, 7, 118。
 (96) Ponsonby-Fane, Studies in Shinto, 1-136 の至る所に散見、Enthronment of the Emperor,, Hoshino Teruouki, "Ceremonies Throughout the Year", 66-70, Japan Year Book, 1944-45, 581-86, Byas, Govt. by Assasination, 313-317。
 (97) N. Y. Times, Jan. 12, 1927.
 (98) 小泉とのインタビュー大谷, 『憲兵史』 563。
 (99) Yanaga, Since Perry, 452-53, Abend, Life in China, 49-50, IMTFE "Prideedings," 1349 の幣原喜重郎証言。
 (100)
ことに上海については、Murphey, 1-66。
 (101) たとえば、Boake Carter and Thomas Healy, Why Meddle in the Orient? (New York: Dodge Publishin Co., 1938), 173-75 を参照。
 (102) Ekins and Wright, 43-57, Liu, 36-52, Clubb, 135-37。
 (103) Liu, 48。
 (104) Ekins and Wright, 54-55。
 (105) A. M. Young, Imperial Japan, 46-47, Scalapino, 232, 235, Shimada, 53。
 (106) Yoshihashi, 14。
 (107) 原田、9: 3、鈴木研究会の上部団体は永田クラブ。研究会の面については、 “Brocade Banner,” 22 に引用されている田中きよしを見よ。Takahashi, 142-46 によると、その研究会の後の名前は「無名会」とか「一夕会」とかと呼ばれた。その他の詳細については、秘められた, 180 および Ogata, 26 を見よ。
 (108) Shigemitsu, 47。
 (109) Shigemitsu, 47, Yoshihashi, 21, Clubb, 140。
 (110) 特記ない限り、この節は、『太平洋戦争への道』、1巻289-90、Ogata, 15, 196-98、Yoshihashi, 21-26 による。
 (111) 山浦貫一 『森格』 (東京、1941年)、599-601。
 (112) Yoshihashi, 26 に引用されている、山浦 『森格』 636-37。武藤の「もの言わぬ将軍」という評判は、毎日新聞、1933年2月28日の彼の死亡記事より。
 (113) Crow, 36-38。
 (114) Crow, 22-112 の文中から。また、Shigemitsu, 45-46、K. K. Kawakami, Japan Speaks on the Sino-Japanese Crisis (New York: The Mcmillan Co., 1932), 145-46、および、犬養毅、まえがき、xi-xii を参照。
 (115) 。特記ない限り、この節はEkins and Wright, 58-66、Clubb, 141、Jansen, 199-201, 254, note 54、Yoshihashi, 34 および注記による。
 (116) 高倉徹一編  『田中義一伝記』 (東京、1960年)、2巻、740。
 (117) Yoshihashi, 30-31。
 (118) 『太平洋戦争への道』、2巻207、および、東久邇、 『私の・・・』 60、写真は当書に再録されているもの。
 (119) ことの性格柄、原著者がここに記したような、蒋と日本との間の理解についての根拠を示す公的な資料はない。しかし、 『日本外交年表ならびに主要文書』 (東京、国会図書館、1955年)、第2巻105頁は、1927年11月5日の田中首相と蒋介石の会見を記録している。この記録によれば、蒋は田中に、日本の利益は充分に尊重され、日本は国民党革命の達成を支援すべきである、と確約している。Ogata, 196。
 (120) Yabe, 1:118-20, 154, 168。
 (121) 島田、 『関東軍』 63。
 (122) 大谷、 『憲兵隊史』 21-22。
 (123) Yanaga, Since Perry, 455-56、A. M. Young, Imperial Japan, 39-40, 44、Abend, Life in China, 83、(123a)、根津まさし 『大日本帝国の崩壊』 (東京、1961年)、2: 64、(123b)原田、2: 64、皇室関係者とのインタビューによる補強。
 (124) 秘められた, 29 の臼井かつみ。Clubb, 143、Yoshihashi, 37-38 参照。
 (125) 『太平洋戦争への道』、1巻 306-8、および、Yoshihashi, 39-40、“Brocade Banner,” 19-20。
 (126) Yoshihashi, 45 に引用されている、平野れいじ 『満州の陰謀者』 (東京、1959年)、79-8.。
 (127) 渡辺、89-93。
 (128) 室伏、209。
 (129) Shimada,Kantougunn, 64。
 (130) Shimada,Kantougunn, 65。
 (131) 『太平洋戦争への道』、1巻 308-9、インタビュー、田中。
 (132) 室伏、210-13。
 (133) Shimada,Kantougunn, 73-。
 (134) 鶴見、4: 297-302。
 (135) Koyama, 98。
 (136) 毎日新聞(大阪版)、1928年6月14日。
 (137) 原田、1: 3-4 に、貴族との面会(非公開面会者)で得た話で補強。
 (138) 大谷、 『憲兵隊史』 563、島田、 『関東軍』 73-、 IMTFE "Prideedings," 1945-50 のTanaka Takayoshi 証言。
 (139) 毎日新聞(大阪版)、1928年8月22日。
 (140) たとえば、原田、1: 94-95 を参照。
 (141) Price, 16 や Fleisher, 20 は、この誤った見方の例。
 (142) Yanaga, Since Perry, 463-64, A. M. Young, Imperial Japan, 264。
 (143) 原田、1: 5-11、 『太平洋戦争への道』、1巻 319-27、島田、 『関東軍』 73。
 (144) IMTFE "Prideedings," 22170-180。
 (145) Ponsonby-Fane, Imperial House, 34-69 の Enthonement of the Emperor, passimMosley, 101-3; および、Vaughn, 181-90 参照。
 (146) 木戸は1932年2月の日記(木戸 『日記』 136-37) に、 「張学良、複雑な性格、繊細、冷静、容赦なさ、毅然」 と書いて張の強さを認識している。
 (147) IMTFE "Prideedings," 19151。
 (148) Clubb, 152。
 (149) Vaughn, 118-19。
 (150) Ogata, 198 に 「満蒙対策の基調」 として引用されている。
 (151) 原田、1: 4。
 (152) 木戸 『日記』 22, 26, 27, 68。
 (153) 小泉とのインタビュー
 (154) 原田、1: 8-9。
 
(155) 原田、1: 9-11、 『太平洋戦争への道』、1巻 327、A. M. Young, Imperial Japan, 46-47、田中の扱いについての思いへの言及に関しては、本庄、160-61。
 (156)Brocade Banner,” 19。
 (157) 儀我についての話は現存のものである。ここに述べられたものは、子息の儀我荘一郎――大阪大学教授で、父が残した記録とメモ書きを所有〔2009年12月17日死去〕――によって確認されたものである。その子息との接触には、儀我の甥である、上村かずひこ氏に負っている。
 (158) Shigemitsu, 49 および注記。


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