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は じ め に



私の手元にあるこの著作は、私もかつて司法の領域において取り組んだことのある、ある歴史についてのさらに詳しい再調査である。オーストラリアのクイーンズランド州の主席判事であり、後にオーストラリア最高裁判所の判事を勤めた私は、19465月から194811月まで、東京に設置された、極東国際軍事法廷とよばれた11ヶ国からの11人からなる判事団を率いた。日本の新聞ですらその公平さを認める、その2年半にわたる審問の後、日本人指導者25人に対し、侵略戦争をくわだて、その部下によってなされた残虐行為という戦争犯罪の責任において、死刑ないし投獄刑が科された。
 デービッド・バーガミニが著した『天皇の陰謀』の原稿が私のもとに郵送されてきた時、私はすぐさまにそれを紐解いたのだが、著者のジャーナリスティックかつ学研的な資質や資料文献の幾年にもわたる調査を発見し、その著者に多くの期待をいだいた。今、彼の努力の結晶を読み終え、私は、期待をはるかに上まわるものを発見している。
 『天皇の陰謀』は、偉大な作品である。私はこれまで、込み入った状況を興味深いストリーに仕上げたものや、論理性と明晰性をもって、歴史的経緯についての斬新な論文にまとめたものといった、いくつかの歴史物語を読んできた。人々の営為としての歴史を扱う上での本著者の主張は新たなスタイルのもので、複雑な社会的、経済的圧力による陰鬱な作用という視点とは対極に位置する。この著書に、関係者による適正な評価が定まるには、しばらく年月を要するだろう。この著作にあらわされた半分を越える情報は、英語圏の世界には初めて公開されるもので、そのいくつかの解釈については、物議をかもすものとなろう。しかし、この著書は、もっとも重要で、かつ、東洋史における西洋人の視野に大きな見直しを与えるものとなることは疑いない。
 かなりの程度、『天皇の陰謀』は、私が率いた極東法廷における発見を補完するものである。つまりこのことは、そうした発見が、検察側によって示されたものよりいっそう確かに、有罪の証拠になりうることを表している。これは、審問が日本の降伏のわずか8ヵ月後の194653日に始まり、著者の資料の大半は1960年以前には入手不可能であったことを思えば、当然のことである。法廷の判事は、存在する証拠の多くが、検察側によっても弁護側によっても提示されえず、検察側も弁護側も未発見なものがあることを認識していたが、法廷は、調査や取調べを命ずる自身の力を持っていなかった。
 本書は、天皇が果たした役割を掌握した法廷がつかんだ事実から口火をきっている。裕仁の取り巻きの日記より得られた見事なばかりの詳細をもって、バーガミニ氏は、天皇が、1941年の米国への攻撃ばかりでなく、その内部的扇動の許可にも責任を負うと考えた。私は、この点について、天皇がその法廷の審問対象とはなっていなかったがゆえに、判事としての権限に抵触することなく、コメントをつけることができる。
 その法廷は、英米式の審問方式をとっていた。その方式は、数世紀にわたって、英語圏の国では有効に機能しており、公正な結果が期待されていた。しかし、英米式の法理論においては、告発をおこす権利は、検察側のみに属していた。法廷の検察は、日本の指導者を絞り込んで告発したが、ことに天皇は、その法廷の審問対象からは除外されていた。
 審問が開始される前、私は、専制君主である天皇は、一見して明らかに、戦争の許可に責任があるとする見解をもち、私の政府の要請にもとずき、そのように意見をのべた。そして、もし天皇が告発されたら、そのような予断の持ち主であるがゆえ、私は判事の地位を辞さねばならない、と付け加えた。審問で明らかにされた証拠は、私の事前の判断を支持しており、天皇は戦争に許可を与え、したがって、それに責任を負うことを示していた。
 天皇についての疑問は、被告への処罰を与える段となった際、重要な問題となった。被告が命令に服従する部下でしかない限り、そして、その指導者が審問を逃れている限り、処罰の決定にあたっては、強く、酌量すべき情状が考慮されなければならない。検察側の証拠には、天皇は戦争を不承不承に承認したと解釈するよう余地が残された。私は、こうした証拠の解釈に完全に納得してはいなかったが、それは何がしの検討の価値は持っていた。
 天皇の内大臣、木戸侯爵の日記の、19411130日の箇所に、天皇は戦争をいくらかの躊躇をもって許可したと記録していた。それはまた、この躊躇は、彼の平和への固執によるものではなく、敗戦への恐れによるもので、天皇は、海軍大臣と海軍参謀長による「全面的保証」を求めることによってその恐れを晴らしていた。
 1941年当時の首相で、また同法廷の被告の一人、東条元帥は、最初、天皇の意思には決して反したことはないと証言し、そしてさらに証言席に立ち、戦争を許可するよう天皇を最大の努力をはらって説得したと付け加えた。だがこのいずれの発言も、木戸侯爵の日記の趣旨に、大きな付加を与えるものにはならなかった。
 1936年当時の首相で、軍部過激派による暗殺をかろうじてまぬがれた岡田海軍大将は、天皇は平和の人だとする趣旨の証言を行った。被告席に天皇がいたなら、岡田の証言は、天皇の本来の性格に触れるものとして、刑の軽減に役立ったであろう。
 天皇が有罪か無罪かについての判断は、この法廷の対象外のことであったので、そうした断片の証拠は付随的なものだった。それでも、検察側は、告発されている犯罪を始めるにあたっての被告の権限について、疑問をなげかけるきっかけとなった。不公正の根を取り除くため、私は、どの被告にも極刑を科さず、代わって、日本国外のしかるべき場所での、厳しい条件での投獄を求めた。しかし、被告のうちの七人には絞首刑がくだった。
 私は、死刑が明らかな過剰とは判断できなかったので――オーストラリアの最高裁で採用される上告の審査基準にてらし――、自分の異論を主張せず、死刑あるいは投獄との判断が決まった。
 『天皇の陰謀』は、松井石根の絞首刑がありえた除外として、そうした判決のいずれもが誤判決ではなく、死刑となった者らは、ほしいままの殺人や野蛮行為の防止を怠ったことを悔いていたとしても、その責任があったことを再び確証したものである。天皇自身については、米国と連合軍それぞれの政府の高度な政治レベルにおいて、審問せずという判断に達した。天皇のケースに関するオーストラリア政府よりの求めにも、私は、政治的、外交的レベルにおいて取り扱われるべきであると助言した。
 民主的政府の連合軍が、生命や資産を費やして専制政府に対する戦争をおこし、その結果、その政府の専制の主をいまだその指導者の地位に残すというのは、実に奇異なことと思われる。しかし、裕仁は、単に個人であるばかりでなく、象徴であった。個人的にはとがめられるべきではあったが、しかし、彼は、その国全体の精神的体現であった。1945年、日本人の大多数は、宗教的信条として、天皇と日本は不可分で、共に生きるか、共に死すべきであると信じていた。
 私が東京法廷の席にあった30ヵ月の間、日本の君主を案じそして尊敬する証言と、そのケースを弁護する熱心さと正直さに、私はたびたび感動させられた。私は幾度となく、1941年に日本が戦争にうったえたことを告発することが正しいのかと自問した。日本は九千万人の人口をかかえる小国で、しかもその15パーセントしか耕地はなく、まして、外からの厳しい経済封鎖をうけていた、という弁護側の主張に、私は、おおくの正義と酌量の余地を覚るようになった。米国や英国なら、そして米国や英国の国民なら、そうした状況に、どう反応したであろうかと考えた。そして私は、一世紀前、ロンドンの法曹協会で、ダニエル・ウェブスターが行った演説を思い出した。この著名なアメリカ人法学者は、小国イギリスが偉大な帝国に拡大したことに、以下のような言葉をもって喝采をおくっていた。

英国の朝の鼓動は太陽の栄光とともに始まり、時の女神を友とし、軍事的威風もつ英国の不断の血統は地球をおおう。

拡大は、そのすべてが、平和的交渉の結果によるものではないのである。
 20世紀になるまでは、戦争に訴える権利は、敗戦の恐れによる抑制はあるものの、あらゆる国家によって実行される主権のひとつであった。敗戦国は、金あるいは領土による賠償を払い、勇猛果敢という荒々しいルールが、国際的な正悪の判断に持ち込まれていた。しかし、第一次世界大戦の後、列強国は、誰が戦争を開始したかを判断するさいに用いられる、戦争行為の基準や国際法の原則にそうよう努力するようになった。そして1928年には、63カ国が、自衛を除き、手段として戦争に訴える政策を有罪とするパリ条約に調印した。日本は、こうした諸国のひとつであった。しかし、日本政府は、署名国に、日本は帝国君主の名において署名するのであって、他国のように、国民の名においてするものではない、と断言したのであった。
 パリ条約は、もしある国が同条約を犯して戦争を始めた場合、署名国の戦争指導者が個人として責任をもつと明確に規定はしていなかった。著名な国際的法律家の幾人かは、この条約は個人的責任を科すものではないとの見解を示した。しかし、私は、違反しても個人は罰せられない国際法に署名したという無益を63カ国に帰させることはできなかった。ともあれ日本は、194592日、裕仁天皇に代わって署名された降伏文書のなかで、連合国が国際法に反する犯罪として、日本の戦争指導者を個人として訴追する権利があることを明確に認めた。天皇の内大臣、木戸侯爵の19458月の日記には、裕仁は、「戦争犯罪」が戦争にかかわる、彼を入れたすべての人を含むことを理解していた、と記している。
 簡潔に言って、以下が東京法廷が始まった段階での法的位置であった。つまり、もし日本に、パリ条約および署名した降伏文書に言う侵略戦争の罪があるとするなら、政治的、軍事的、およびその外の指導者は、個人的に責任が問われうる。その際の唯一の弁護は、それが「自衛」であったかどうかである。同法廷は、この弁護を取り調べ、それを拒否し、自衛は不成功に終わった。日本は、タイやフィリピンといった国を、日本によって脅かされたわけではなかったと反論した。要するに、日本がおこした戦争は、その当然たる目的が賠償や領土割譲であるものとしての、単なる国の行為ではなかった。それは、その国の指導者が犯罪者として罪をおう、国家の不法行為であった。
 2年半にわたる、賛否両方の証言の後、同法廷もそのように判断した。温情ある判決として、情状酌量された25ケースのうちの18ケースに、投獄のみが科された。そのほかの7ケースには、証拠にのっとり、被告は、侵略戦争ばかりでなく、よく統制のとれた日本軍部隊を、戦闘区域以外の場所での、略奪、強姦、殺人に加担することを許す指導を行ったという面でも責任を負うとの理由で、極刑が下された。
 文章上の表現はないものの、天皇の訴追なくして、日本の指導者の死刑判決をすべきでない、というのがバーガミニ氏の見解である。私は、たとえそれに同意しないにせよ、その見解に共感を抱く。バーガミニ氏の見方では、天皇は、現実に対する、理論的で、科学的で、研究没頭的な理解力を持っていた。氏が言っているように、天皇はあやつり人形ではなく、有能でエネルギッシュな人物で、力強く、知的な指導者であった。しかし、天皇は、彼に仕える大臣たちの上にそびえる世界に暮らしていた。彼は、善良な国民のために、国を愛し、自己犠牲の精神をもって行動しているかのようであった。彼は、タカ派の役を演じて、1941年以前の数十年間、西洋に対する戦争を企てたかもしれなかった。しかし、私は、裕仁が1946年から48年の間に被告席にあったとしても、他のほとんどの日本の指導者のもつ人格より、より高いものを見出していたかは疑わしい。いみじくも、裕仁の価値は、今日のこの国の地位より出てきているもので、彼の治世のもと、戦争と敗戦を克服し、世界第三位の産業国となったのである。
 共犯者に不利な証言をする犯罪者、あるいは逆に、法秩序を守ろうとする犯罪者は、常に寛大な扱いを受ける。同じことが裕仁にも言える。彼は、告発の淵からのがれ、日本の敗戦の屈辱を、アジアの安定した国家へと変えることによって生き延びた。彼は、最終的には核攻撃へと至った敵意を終了させた絶対君主として、自らの権威を意義付ける。だが、広島と長崎での原子爆弾の炸裂による衝撃にうろたえた日本であるがゆえに、彼はそうあれたが、バーガミニ氏が白日のもとにさらしているように、1945814日から15日の夜間、皇居でおこった奇妙な出来事があばかれた場合には、彼はおおいに個人としての危険に遭遇しただろう。
 バーガミニ氏は、裕仁が、日本をアジアを征服する構想と謀略に導いたと見るに充分な論拠を提示している。今日の環境のもとで、天皇は救済するに値するとする私の見方は、シニカルで手段優先的なものだ。氏の、天皇への根拠ある賞賛も同様であろう。また、トルーマン、チャーチル、アトリー、スターリンという政治家たちの異質な見解が一致して天皇に免罪を与えたのも、同様であろう。
 裕仁は日本人である。彼は、他の国民からは孤立した、数世紀にわたって引き継がれてきた、奇異に狭量な世界で育った。人類学者、詩人、牧師、外交官、それぞれがその専門の分野で、日本の社会が独自の論理と審美感をもっていることを発見してきた。今、バーガミニ氏が、長期の資料調査の後、そうした世界の政治的側面を提示している。彼は、それを明晰な西洋用語で行っているが、日本的価値観を表現することに成功している。氏の本を読み終えて、私は、宮中で成長したどの日本人も、裕仁がしたことをしようとしても、それをうまくは成し遂げられなかっただろうと、確信を持たされた。端的にいって、戦争をこころみ、ほぼそれに成功しかかった裕仁は、敗戦の教訓から利益を得るにも、また、彼の人民を新たな方向に率いるにも、他のどの日本人よりも秀でていた。
 読者をこうした理解へと導きながら、バーガミニ氏は、私の知る限り、新しい日本についてのリアリズムを提示している。一方で、氏は、冷血で抜かりのない策謀者という戦時下の日本人への嫌悪を否定している。その他方、氏は、狂信的で感情的な失敗者としての日本人という戦後の弁明を遺憾としている。バーガミニ氏の見解では、日本人はつねに理性的で、所有するわずかな物的資源を活用して、世界を恐れさせることに成功してきた。また同時に、日本人は両親と子供を愛し、生活の平安と快適をもたらす生き方のために奮闘してきた。そうして、床に畳をしき、熱い風呂に入り、障子を通した照明を用い、大根の漬物と炊いたご飯を食してきた。東京に何年もいたが、私は、こうした日本式慣習を何も取り入れなかったが、バーガミニ氏は、私にそうすればよかったと、ほとんど思わせるばかりとしてくれた。氏の著作を読みながらそれに釘付けとなり、私は自分が彼の物語の主唱者となっていることを発見していた。
 氏の日本人の価値観とその業績を評価する主張がゆえに、判断の曇りや弁明を抜きに、バーガミニ氏は日本の歴史を再解釈しなければならなかった。氏の著作は、紀元50年の出来事についても、1945年のそれについても、同じく新鮮な考えを提供してくれている。私は、氏の洞察力が、極めて首尾一貫しており、強い説得力を持っていることを発見した。一言だけ言っておきたい。「読者の諸君、読み進みたまえ」。

 W.F.ウェッブ
  オーストラリア、ブリスベンにて



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