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            巻末脚注(9)

 (2012年1月7日現在)


(第四部   満州侵攻)

 第十六章 追放国家(1932年-1933年)

 (1) この節は、Brocade Banner, 40-44、室伏、237-41 に基づいている。
 (2) 原田、2: 200, Rappaport, 127-29, Crowly, 162-64。
 (3) 木戸 『日記』、134 。
 (4) Rappaport, 127-29。
 (5) 原田、2: 201-6, 208, 木戸 『日記』、136。
 (6) 木戸 『日記』、135 に記録されているその朝の裕仁との謁見となにがあったかについての、著者による要約。
 (7) このパラグラフは、Brocade Banner, 42、および、原田、2: 204 に基づく。
 (8) 、1: 40 によると、他界した司令官は、皇居の大学寮の卒業生。
 (9) Zumoto, 142。
 (10) 木戸 『日記』、136-37。
 (11) 原田、2: 208。
 (12) 木戸 『日記』、136-37。
「ダーウィンの説」 の引用については、新聞報道された後の松岡の演説からとった。
 (13) 原田、2: 208。
 (14) 木戸 『日記』、137。
 (15) Byas, Govt. by Assassination, 57; A.M.Young, Imperial Japan, 190。
 (16) 渡辺、118。
 (17) 室伏、237。
 (18) 同書、240。
 (19) 同書、237-38。
 (20) Brocade Banner, 42。
 (21) 同書。
 (22) 同書、43。
 (23) 木戸 『日記』、137 の木戸の井上準之助の暗殺についての記述は短く、原田のものはもっと短い。また、Fleisher, 66-69 は、井上は、その夜、原田とある晩餐会に参加していて暗殺されたと述べている。東京駐在の外交官団もそこに同席していた。暗殺のニュースは、上司への緊急の知らせとして、次々とその戸口に駆けつけた大使館員らの口で急速に広まった。原田は、居合わせた者の眼前で、その部屋を歩いて横切り、宮内大臣の一木喜徳郎にその報を伝えた。一木は、誰もが予想するような右往左往する行動は一切とらなかった。
 (24) 原田、9:351-52。他の箇所で述べられている徳川と大谷の詳細を補足。
 (25) 原田、2: 209。
 (26) 同書、213。
 (27) O. D. Russel, 251-52.。
 (28) 木戸 『日記』、169 に、ある銀行家とのインタビューによる情報で補充。
 (29) 本庄, 75、 梶浦とのインタビュー
 (30) 木戸 『日記』、140。
 (31) 同書、140-41 (具体的には、浦松論文への特別な閲覧)。
 (32) 原田、2:219。
 (33) Scalapino, 242, Crowly, 169。
 (34) 原田、2: 219-21。
 (35) 原田、2: 221-36 および同書他の箇所からの著者の解釈。
 (36) 同書、2: 230-31。
 (37) 同書、2: 225。
 (38) 同書、2: 226。
 (39) 同書、2: 227。
 (40) Rappaport, 141。
 (41) 原田、2: 230 を田中とのインタビューで補強。団への他の脅迫に関しては、A.M.Young, Imperial Japan, 719 を参照。
 (42) 室伏、243。
 (43) 原田、2: 231-33 を、西園寺に親しい銀行家の残した記録への仲介者を通じての閲覧で補強。
 (44) 原田、2: 232-33。
 (45) この節は、Zumoto, 163-66 および図3、Yanaga, Since Perry, 557-59, IMTFE "Proceedings", 28135-138 によっている。
 (46) 例えば、Vaughn, 325、 A.M. Young, Imperial Japan, 142-42 参照。
 (47) Vaughn, 326。
 (48) Zumoto, 163, 167 および 藤沢とのインタビュー
 (49) 田中、 『芳子』 および 『太平洋戦争への道』、2巻138。
 (50) この節は、IMTFE "Proceedings", 1713, Rappaport, 180, New York Times, Feb. 29-Mar. 7, 1932 によっている。
 (51) A.M. Young, Imperial Japan, 265。
 (52) Yanaga, Since Perry, 177, Fleisher, 68, Byas, Govt. by Assassination, 30。
 (53) O. D. Russel, 253-55。
 (54) Brocade Banner, 42。
 (55) Fleisher, 66-69。
 (56) Brocade Banner, 42。
 (57) 原田、2: 234。
 (58) O. D. Russel, 256-57。
 (59) 室伏、242-44。
 (60) 原田、2: 234-35。
 (61) 原田、1、写真3。
 (62) 原田、2: 235-36。
 (63) 同書、2: 236-39。
 (64) 同書、9: 346-47。また、、 『軍』 29, 大谷、 『落日』 63、IMTFE "Proceedings", 1416 参照。
 (65) 原田、2: 236。
 (66) 同書、2: 237。
 (67) Brocade Banner, 43。
 (68) これ以下6パラグラフは、原田、2: 238-48, 木戸 『日記』、151-52 にもとづく。
 (69) 原田、2: 256-57, 327-28, 9:138。
 (70) 同書, 2: 306。
 (71) 木戸 『日記』、153-54, 原田、2: 253-53。
 (72) Rappaport, 179。
 (73) 原田、2: 312-13。
 (74) 本庄, 98、IMTFE "Proceedings",1713。
 (75) Tanaka Tokichi, 木戸 『日記』、161-64を参照。原田、2: 284、本庄, 90, 92, 93, 98, 102。
 (76) 梶浦とのインタビューおよび本庄, 47, 98。 「先発隊」 との表現はたぶん誤り。1931年11月24日、米国務省のスティムソンは、調査団の案を支持する電報をジュネーブに送った。その後、11月28日、渡は満州の本庄を訪ね、取るべき対応を助言した。その後、渡はリットン卿の後を追い、1932年4月の調査団が来るまで、彼は満州には戻らなかった。要は、渡の立場は、 「一行案内者」 がふさわしい表現だろう。
 (77) Pigott、266。
 (78) Pernkkoff, 120-23, Vespa, 147-64

 (79) 本庄, 98 (1932年4月20日付け)、96 (4月15日付け)、インタビューで補強。
 (80) 木戸 『日記』、157-58 、インタビューで補強。
 (81) 木戸 『日記』、158-59、原田、2: 270。
 (82) 原田、2: 273。
 (83) 同書、274。
 (84) このセクションは、原田、2: 307 と多数のインタビューを参考に、本庄, 101-5 に基づいている。
 (85) この節は、以下をもとにした再構成である。Byas, Govt. by Assassination, 22、木戸 『日記』、279、、 『軍』 54、および、1966年の著者自身の土浦への旅行。また、原田、2: 234, 349、木戸 『日記』、187-90 (ことに189 の最後の行)。この木戸の記入は、東久邇親王が橘とその宿屋に来なかったかもしれない疑問を抱かせる。
 (86) 原田、2: 306。
 (87) 室伏、253-54 を参照。
 (88) 木戸 『日記』 161-2。
 (89) 原田、2: 283-84。
 (90) 木戸 『日記』、162。
 (91) Brocade Banner, 44。
 (92) これを含む以下4パラグラフは、Byas, Govt., 22-24, 28 を Ponsonby-Fne, Vicissitudes of Shinto, 130-32 と Terry,Terry's Guide (1920 ed,.), 155-57 で補強した。126,363 の英雄という数字は、Ponsonby-Fne, Vicissitudes of Shinto, 1125 と Studies in Shinto, 526 より。
 (93) Brocade Banner, 45。
 (94) Akimoto, Japanese Ways, 154-68、Terry,Terry's Guide (1920 ed,.), 186-87。
 (95) この暗殺現場での会話は、室伏、247-50、Byas, Govt., 24-26、木戸 『日記』 162、原田、2: 286-87。 【著者注記】 原田は、暗殺者が官邸の平面図をもっており、彼らの侵入は憲兵がそうさせるよう用意していたと報告している。
 (96) 室伏、251。
 (97) 。同書、251-52、木戸 『日記』 162、Fleisher, 73。
 (98) これを含む以下4パラグラフは、Brocade Banner, 44-46、Byas, Govt., 26、30、N Y Times, May 16-18,1932。
 (99) 木戸 『日記』 162-63。
 (100)
同上。
 (101) 原田、2: 283-8。西園寺によるいっそうの情報と翌朝の原田による木戸への電話(木戸 『日記』 163)からの解釈。
 (102) 木戸 『日記』 162-63。
 (103) 同上。
 (104) このセクションは、、 『軍』 、59, n.8、馬島、19-21、Byas, Govt., 27 に基づいている。
 (105) インタビューによる。
 (106) 木戸 『日記』 162。
 (107) 室伏、252。
 (108) 木戸 『日記』 162-63。
 (109) Brocade Banner, 45-46。
 (110) このセクションは、木戸 『日記』 163-65、原田、2: 284-85 に基づいている。
 (111) このセクションは、原田、2: 285-97、木戸 『日記』 164-70、 原田、9: 138-39 からの引用。
 (112) 原田、9: 138、最後の二行は、原田の意味不明な記述からの解釈。
 (113) 木戸 『日記』 169 に引用。次のパラグラフの 「飾り立てた」 文書は原田、2: 288。
 (114) 木戸 『日記』 168 に引用。
 (115) Ogata、155 の限りでは、犬養を殺した理由は、彼が5月1日に行ったラジオ演説で政党政治をいかなる犠牲を払っても維持すると宣言したこと。。
 (116) William Shirer, The Rise and Fall of the Third Reich (New Yourk: Simon & Schuster, 1960; Fawcett Crest Book, 1962), 266; 206.
 (117)日本の大学教育と同等なものを受けた西洋人はいない」 とは断定的表現だが、おそらく、何人かの西洋人は日本の大学で学位を得ただろう。しかし、日本人の卒業生に比べれば、その流暢さ文化的理解は比較にならない。
 (118) Vaughn, 345。
 (119) New York Times, May 19, 1932。
 (120) 本庄, 106。
 (121) 原田、2: 305-6、Brocade Banner, 38。
 (122) 同書。
 (123) 原田、2: 312-3。
 (124) 同書、310, 312-13。
 (125) Byas, Govt., 69、Brocade Banner, 46。
 (126) 原田、2: 332。
 (127) 同書、369。
 (128) Brocade Banner, 47、Grew, Ten Years, 69。
 (129) U.S. Army Far East, Intelligence Rept. "Left Wing, Rught Wung, " 27-、
 (130) A.M. Young, Imperial Japan, 189。
 (131) Brocade Banner, 54-56。
 (132) 小泉とのインタビューおよび木戸 『日記』 271。
 (133) 退役海軍司令官とのインタビュー
 (134) 木戸 『日記』 188。
 (135) 原田、2: 344, 349。
 (136) 同書、8:305。
 (137) 大谷、 『憲兵隊史』 85、および、室伏、261-63。
 (138) Brocade Banner, 38。
 (139) Vaughn, 341-42。
 (140) Brocade Banner, 54、木戸 『日記』 844, 849, 861, 869、Japan Biog. Encl. (1958), 384。
 (141) Brocade Banner, 54、Asahi, June 5, 1961、Feb 26, 1965。
 (142) 田中、 『芳子』、McAleavy, 213-14、Tsuji, Underground Escape, 233-34。木戸 『日記』 238-39 (1933年5月23日および30日)では、木戸は本当にその劇的な物語の教訓につて語っているのか、それとも、東洋の宝石(金璧輝)、川島義之大将、そして高砂という関取について語っているのか。


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