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            巻末脚注(12)

 (2012年10月22日現在)


(第六部   アジアの枢軸国)

 第二十二章 対ソ中立化工作

 (1) この節は、Deakin and Storry 207 に引用されている調書におけるクラウゼンの見解に基づいている。
 (2) Johnson、第7章、ことに 153-55。
 (3) Johnson, 69。
 (4) Deakin and Storry 350。
 (5) Johnson, 71-72。
 (6) 同書、73-74。
 (7) Deakin and Storry 75。
 (8) 同書、91-92。
 (9) 同書、95-103。
 (10) Johnson, 140-42。
 (11) 同書、94-95, 105。
 (12)
同書、101-102。
 (13) Johnson, 111-13。
 (14) 若い西園寺の役割についての私の説明は、ここでも、後でも、最初、松本重治によって示されたものである。私は彼に、西園寺はゾルゲのソ連諜報団との関わりに対する彼への処罰をどのように逃れたのかと尋ねると、松本は、近衛は常に西園寺に政界の影の人物との接触を維持するよう求めていたので、彼がそれに応えようとして行ったことのために西園寺が罰せられるのは不公平なことだったからだ、と返答した。後に、私が小泉信三に若い西園寺の赦免について尋ねると、日本の上流階級はスパイ行為を西洋人とは違った風にみているとの見解をくれた。すなわち、自分の仲間を売国奴とは見られず、西園寺や尾崎のゾルゲ諜報団との関係も、スパイや叛逆行為というより、一種の国際的取次ぎ、あるいは、社交行為と受け止められていた。
 さらにその後、私の情報源のもっとも貴族階級の人物に西園寺のことについて尋ねると、彼はいかにも率直に、彼らの内部社会では、西園寺はスターリンとの貴重な人脈と見られていた、と返答した。
 木戸日記の分析は、こうした見解を支持している。1930年から1945年までの全期間、木戸は、若い西園寺との面会を22回にわたり、記録している。すなわちそれらは、1932年の7月10日と8月1日、1933年の3月25日、6月3日、6月10日、7月22日、9月16日、1934年の3月16日、11月1日、1936年の3月10日、1937年6月13日、8月31日、9月2日、9月16日、10月25日、1938年の4月25日、7月23日、1939年の6月9日、1940年11月24月12月2日、1941年の3月3日、11月24日であった。こうした会見についての木戸の記録や、インタビューの情報を加味して、私は、木戸と西園寺の関係の歴史を再現してみた。最初に、二回の会合で、木戸は西園寺の英国人とオックスフォードとのコネクションを通じ、有名な報告書をまとめていたリットン調査団の姿勢についての情報をえた。第三の会合では、木戸と西園寺は、国際連盟を脱退した日本に対する英国の態度について話し合った。それに続く四回の会合では、いずれもが、荒木の赤攻撃と、逆脅迫用の材料発掘を木戸は試みていた。この件では、西園寺は皇位のためのスパイとしての忠義と力量を発揮し、1933年12月26日と1934年1月10日、木戸は原田と若い西園寺を近衛親王への左翼問題での助言者として長期的にあてがうことを話し合った。八番目の会合では、1934年3月、木戸は西園寺の配置について話した。九番目では、その後の11月、西園寺は11人倶楽部の何人かと会い、貴族院の近衛のライバルである徳川家智の中傷と追放が成功したことを祝った。次の十番目の会合まで、の1936年3月に、西園寺は左派のサークルに浸透し、彼がヨセミテにのぞむ方向について指示された。1937年の次の五回の会合は、対中国戦が始まり、西園寺が近衛首相の顧問団の一員である時に行われた。その中で、ゾルゲへの尾崎の報告や中国における日本の意図についてのゾルゲのスターリンへの報告が取り上げられた。1938年の16番目の会合は、日本の動員についての説明のスターリンへの効果についてであった。1938年7月の17番目の会合は、クハサン湖事件は戦争へ発展するものではないだろうとのスターリンの確証の中で行われ、1939年の18番目の会合では、11月事件についての同様な情勢下でなされた。そしてその後の1940年の11月、12月には、木戸と西園寺間ではわずか二回の社交的な会合のみで、老西園寺親王の死と葬儀に関する純粋に公式事項で終わっている。最後に、1941年3月3日、木戸は若い西園寺に会い、松岡の欧州旅行に随行する彼の任務について指示している。その最後の会合は老西園寺の死の一周忌の墓地で行われた。ゾルゲ諜報団の一味が逮捕されたため、それは木戸と西園寺の関係の死ともなった。その後、木戸は西園寺に他者を交えたり、西園寺に代わる影響者におよんだが、彼との会合との記録はない。
 (15) Johnson, 22-23、台湾における日本人を背景とした小泉とのインタビュー、および Jansen, 83 を参照。
 (16) Johnson, 26。
 (17) 同書、32。
 (18) 同書、34: 40。
 (19) Deakin & Storry, 70-71。
 (20) Johnson, 67、思想傾向については、Deakin & Storry, 1-4。
 (21) Deakin & Storry, 67, 87。
 (22) 同書、11。
 (23) 小尾、2: 137。
 (24) Johnson, 79,-80, 90, 109。
 (25) 同書、115-20。
 (26) Deakin & Storry, 187。
 (27) Johnson, 120。
 (28) 藤田勇については、第17章、脚注 (36) およびその段落を見よ。
  (29) この節は、田中、 「芳子」、IPS Documents, 724, 1634 にもとづいている。
 (30) N. Y. Times, Dec. 10 1936。
 (31) 同紙、Dec. 12 1936。
 (32) この節は、特記ない限り、Ekins & Wright, 155-76、Snow, 397-431、Chang Kai-shek, A Summing Up at Seveny: Soviet Russia in China (London: George C. Harrap, 1957), 72-79 にもとづいている。
 (33) AbendLife in China, 233-35 にある蒋介石の視点。
 (34) 同書、226-31。
 (35) 到着の日付に関しては、N. Y. Times, Dec. 14, Dec. 21, 1936 にもとづく。
 (36) 蒋介石の側近である James Chen と私との間の私的書簡による。
 (37) この節は、特記ない限り、Presseisen, 87-119、Ikle, 21-50 にもとづく。
 (38) Ikle, 28。
 (39) Presseisen, 68。
 (40) Deakin & Storry, 101, 138, 、 『ノートブック』 およびインタビュー
 (41) 原田、4:413、木戸 『日記』、459-60、田中とのインタビュー
 (42) Presseisen, 69 に要約。
 (43) Ikle, 38-39。
 (44) Deakin & Storry, 185-。
 (45) 同書、138。
 (46) 同書、185。
 (47) この節は、特記ない限り、木戸 『日記』、537-40、原田、5:235-47, 248-59, その他、、 『軍』, 184-91。
 (48) IMTFE "Proceedings", 15797- に引用されている梅津の文書と証言より。
 (49) 大谷 『憲兵』、250-51。
 (50) この節は、特記ない限り、木戸 『日記』、540-44, 559 を、銀行家の息子とのインタビューで補強。
 (51) 原田、5:279。
 (52) 朝日新聞(大阪版)1937年3月19日。もらした言葉については、 伊藤金次郎、1: 284。
 (53) この近衛親王についての概要は、矢部の近衛についての権威ある伝記にもとづいている。。
 (54) この歴史上、有名な事件の記録には事欠かないが、私は梨本と東条の話を付け加えた。私は、後に日本の新聞に報じられた梨本の旅行と、東条の電報の発信が同時であることに注目した。そこで、私は退役した梶浦銀次郎少将に梨本の長春での宴席について尋ねた。彼は、私が事前に IMTFE の公式記録で、 〔彼が〕 その宴席に出席していたことを知っていると仮定して、彼は躊躇することなく、私がここに記した詳細を述べてくれた。東条の電文は IMTFE Exhibit, 672 より。
 (55) 朝日新聞(大阪版)、1937年6月10日。
 (56) 同紙、1937年6月9, 18, 19日。
 (57) 木戸 『日記』、575-78、原田、6:25-28、および、田中とのインタビューをまとめた、私による解釈。
 (58) 第1章脚注 (5) を参照。
 (59) 大谷 『憲兵』、274-75 を参照。
 (60) 木戸 『日記』、595-91。
 (61) Presseisen, 129。
 (62) IMTFE "Proceedings", 30836-37 によると、裕仁は、 「条件を抽象的にする」 ように仕組んできた木戸よりそう勧められていた。
 (63) 1938年1月11日に採用された 「中国事変に関する基本政策」 については、杉山、2: 327 を参照。
 (64) 町尻軍務局長の役割については、堀場, 109-11 を参照。
 (65) 臼井 『現代史』, 9:841、原田、6: 203-8。
 (66) 大谷 『憲兵』、278、老閑院の引き続いた行動や影響の他の例については、同書、282-84 を参照。
 (67) 原田、6: 207-8 に、 「なぜ参謀本部はそれほどこの戦争を停止したいのか」 と裕仁が訪ねたとあり、同書、193, 209-10 には、裕仁は木戸から大きく影響を受けていたとあり、同書、7: 97-100 には、参謀本部に同意していた秩父と石原の扱いが述べられている。。
 (68) 臼井 『現代史』, 9:842。
 (69) 、 『日中』、291。
 (70) 池田源治、 『東久邇司令官宮』 (東京、鱒書房、1943年)を参照。
 (71) Van Wie Bergamini 〔父親の建築家で聖路加病院を設計〕 、秦、田中とのインタビュー
 (72) この節は、Johnson, 148-49、Deakin & Storry, 199-203、田中とのインタビューをもとにしている。
 (73) 太平洋戦争、4: 47 を参照。
 (74) この節の軍事的詳細については、IMTFE "Proceedings", 38290-, 22575-638, 7773- に基づく。
 (75) 原田、6: 300-55, 7: 1-47 と 5月2−18日の秩父の中国旅行(朝日新聞、1938年6月20日)は、裕仁がハサン湖事件を北進派に不信感を抱かせる材料として用いることができたように、私には受け取れる。
 (76) 角田, 『現代史』 10: 4。
 (77) この3つのパラグラフは、角田, 『現代史』 10: xxxiv-vi、および、原田、7: 50-54、61 にもとずく。 「お前ぐらい頭の悪い者はいない」 は、原田、8: 13 にあるインタビュー内容による。同じような場面は、一年後にもみられる。
 (78)
小尾 『現代史』、2: 165 および 85。
 (79) Deakin & Storry, 101, 138、、 『ノートブック』、木戸 『日記』、638。ゾルゲによる任命については、Johnson, 140, 148。
 (80) Deakin & Storry, 197-99。
 (81) この節の軍事的詳細については、IMTFE "Proceedings", 38290-, 22575-638, 7773- に基づく。
 (82) 田中とのインタビュー田中 「裁かれる」、、 『ノートブック』 および 原田、7: 61 からの私の創作。
 (83) 伊藤金次郎、2: 274 および 1: 43。
 (84) Johnson, 146-49、Deakin & Storry, 200。
 (85) 臼井 『現代史』, 9 624-25、IPS Documents, No 1005。Mikawa Kimitada, "The Wang Ching-wei Regime and Japanese Efforts to Terminate the China Conflict." in Studies in Japanese Culture, edited by Joseph Roggendorf (Tokyo: Sophia University Press, 1963) を参照。
 (86) USAFEE "Left Wing, Right Wing: Japanese Proletarian Politics" に引用。Johnson, 120。
 (87) 原田、7: 250-59 参照。
 (88) 朝日新聞(大阪版)1939年3月1日。
 (89) Ikle, 78-88。 
 (90) 同書、711-15、87-102、田中および小泉とのインタビュー
 (91) 木戸 『日記』 710-11。
 (92) この節は、IMTFE "Proceedings", 7854、同書, 38359-の Afimogen Erastovich Bykov の証言をもとにしている。また、同書、22594-718, 23011-, 23025- を参照。
 (93) Ikle, 113-14。
 (94) IMTFE "Proceedings", 38359-385 の Bykov の証言。 
 (95) 、 『ノートブック』 および角田, 『現代史』 10: 81,および 朝日新聞1942年3月20日。
 (96) Deakin & Storry, 249。
 (97) 小尾、1: 50、2: 86, 169-70。 また、Deakin & Storry, 202-03、Johnson, 150-52 参照。
 (98) Georgy K. Zhukov, Marshal Zhukov's Greatest Battles, intro. by Harrison E. Salisbury (New York: Harper & Row, 1969), 7-8。
 (99) 角田, 『現代史』 10: 81。また、木戸 『日記』 1105 (1944年5月9日の日付)。
 (100)
Zhukov、Great Battles, Intro., 7-8、 IMTFE "Proceedings", 7854, Johnson, 150。
 (101) Zhukov、Great Battles, Intro., 8。
 (102) 木戸 『日記』 741-42。
 (103) Ikle, 133。
 (104) IMTFE "Proceedings", 22594- の石原莞爾の証言。
 (105) 今井, 「ノモンハン」 76-。


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