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            巻末脚注(13)

 (2012年12月7日現在)


(第六部   アジアの枢軸国)

 第二十三章 枢軸国への加盟

 (1) 『ノートブック』 。
 (2) Grew, Ten Years, 251-56。
 (3) 同書、258-59。
 (4) Yanaga, Since Perry, 543-44。
 (5) 木戸 『日記』 783。
 (6) 同書、744-83。
 (7) 同書、784。
 (8) 同書、784-86。
 (9) 同書、787-88。
 (10) 同書、788。また、原田、8:250-1 参照。この中で、西園寺は木戸への任命式を行うことを拒否している。
 (11) IMTFE "Proceedings", 6975-7001、IPS Documents, No.1987。
 (12)
木戸 『日記』 791-92。
 (13) 同書、792。
 (14) 同書、792。
 (15) IMTFE "Proceedings", 6869-75、Frederic Whyte, Japan's Purpose in Asia and the Pacific (Melbourne: Oxford University Press, 1942)
 (16) 木戸 『日記』 792。
 (17) IMTFE "Proceedings", 6875-6924、原田、8:266-67。
 (18) 木戸 『日記』 802-3, 808, 810-11, 816-17, そしてその後の各所。
 (19) 梶浦銀次郎とのインタビュー(彼は戦争中のほとんどを、揚子江最上流の最前線で指揮に当たった)。
 (20) 木戸 『日記』 795。
 (21) 同書、797-98。
 (22) 同書、799。
 (23) 同書、805-7。
 (24) Butow, Tojo, 142。
 (25) 当時の論説記事にみられる政策スローガン。
 (26) 原田、7:366。
 (27) 近衛の政策は、原田、8:338-45 にその詳細が述べられている。
 (28) Fleisher, 46-47。
  (29) Grew, Ten Years, 279-80。
 (30) 杉山, 1: 7-10。
 (31) 木戸 『日記』、811。
 (32) 原田、8:299-302。
 (33) 杉山, 1: 6。
 (34) 太平洋戦争、8: 322-24。
 (35) 木戸 『日記』、812。
 (36) 同書、812-13。
 (37) Grew, Ten Years, 284。
 (38) たとえば、東久邇 『私』、59、 および 『文藝春秋』 1938年1月号、160- を参照。木戸と遠山との接触については、たとえば、木戸 『日記』、844, 849, 861, 867, 869。
 (39) 原田、7:282。
 (40) Fleisher、123, 308-9、Morin, 60、Craigie, 111-12,、 IPS Documents No. 1533、小尾 『現代史』 1: 192。
 (41) Ikle, 154。
 (42) 同書、167。
 (43) Grew, Ten Years, 283。
 (44) Ikle, 168。
 (45) 木戸 『日記』、816、IMTFE "Exhibit", 548。
 (46) この締結は、8月20日に行われたと思われるが、私は誤ってその日に署名されたとしたが、署名が行われたのは8月30日(木戸 『日記』、818、Grew, Ten Years, 286-87)。長勇中佐がインドシナに派遣されたのは8月末で、富永恭次中将は9月初め (田中とのインタビュー、『ノートブック』 )。フランスの名誉を維持しようとした日本の勇敢な努力という私の解釈は、田中と小泉とのインタビューに基づいている。9月20日の仏休戦委員会のボイエン大将から独同委員会のストルップナゲル大将への電話の独語文書は、フランスの見せかけの抵抗がドイツに先だって報告されたことを明らかにしている(IMTFE "Proceedings", 6968-75)。フランスと日本の交渉の詳細については、議会図書館マイクロフィルムWT-26にある IPS Documents No. 985 と IMTFE "Proceedings", 6801-6965 を見よ。ことに後者の 6875- は、交渉の精神を完璧に表すやり取りを含んでいる。
アルセーヌ・アンリ大使は 「日本の要求は一方的」 と言うと、日本の交渉団長の外務次官谷正之(11人倶楽部メンバー)は 「それは当たり前なことで、だから我々がこうして交渉ができている」 と返答している。
 (47) 原田、8:330。西園寺は、交渉にあたった松岡を、 「それは松岡を狂気に向かわせたが、だが彼にとって不運なことは、彼は正気を取り戻すことがよりありえたことだ」 と、もっと穏やかに語った。
 (48) 原田、8:331。
 (49) 原田、8:330 (および335)、および、小泉とのインタビューで補強された木戸 『日記』、819 。またその日、裕仁は陸軍士官学校の卒業式に参列した際、まだ若い北白川永久親王が飛行機墜落で死んだことを知った。
 (50) 木戸 『日記』、820。
 (51) 原田、8: 348-49。
 (52) Ikle, 171。
 (53) 小泉とのインタビュー および 木戸 『日記』、821 参照。
 (54) 木戸 『日記』、823-24。
 (55) 原田、8: 369。
 (56) 木戸 『日記』、822。
 (57) 杉山、1: 41-55、Ikle, 171。
 (58) IPS Documents No. 985。
 (59) 今井清一 『密室の』、78-。
 (60) 条約の手続き、日付、条文は、9月19日、裕仁により御前会議で渡された。 杉山、1: 42-43。条約の英文版は、F. C. Jones, 460-70 参照。
 (61) 木戸 『日記』、854。 「実際のところ、我々は、他が弱まっているこの時期に、あたかも火事場泥棒のことく、食い物にすべきでない。個人的に、私はそういうのは好きでない。私の原則に即していない。しかし、いまのような危機に瀕している時、私に選択肢はない」 と裕仁は言った。
 (62) Grew, Ten Years, 300
 (63) 原田、1: 3-9 (Introduction) 及び 297-303 ――文書の高松邸への移動の記述を含む――の私による解釈。
 (64) ゆえに裕仁は作家の里見敦――日誌を書くにあたってのの文体を助言――に言った。その場は1948年9月の Bells Letters Society の夕食会だった。阿部能成編集、 『天皇の印象』 (東京、創元社、1949年)、24-25 参照。
 (65) 木戸 『日記』、830。
 (66) 原田、8: 380。
 (67) ByasGovt. by Assasination, 296。
 (68) 原田、8: 393-94。
 (69) この節は、原田、8: 394-99 を基にしている。
 (70) 木戸 『日記』、838。
 (71) 同書。
 (72) Deakin & Storry, 223
 (73) Johnson, 12, 171。
 (74) 同書、172。
 (75) Deakin & Storry, 314。
 (76) Johnson, 172。
 (77) 原田、8: 325。
 (78) 木戸 『日記』、840。
 (79) 原田、8: 365-66。

 第二十四章 受動的抵抗

 (80) Farago, 106-07。
 (81) 木戸 『日記』、836。私の匿名情報提供者である元海軍司令官(インタビュー)の説明の通り。その説明は、阿川、206-8 の記述の微妙な言い方で裏付けされている。阿川は、研究をするようにとの源田への 「内命」 は山本のところには1941年1月7日まで 「公式」 に届けられなかった、と述べている。阿川はまた、この遅れの原因は、日本が真珠湾を攻撃しようとしているとのうわさを、ペルー大使館職員に告げた一人の 〔日本の〕 下士官の無思慮に関係していたらしい。グリュー大使は、その警告を1月末に聞き、それをワシントンに通報した(Grew, Ten Years, 318、Farago, 135-37)。しかしその間に、源田は自分の研究課題を受け取った。 〔ということは〕 高松親王の周囲の参謀たちは明らかに、機密違反は影響ないだろうと、すでに決定していた 〔ことを物語っている〕 。無思慮な下士官の処遇は不明である。山本と高松親王の親密な関係のさらなる詳細については、阿川、108-9 を参照。また、真珠湾計画についての英語文献による見解については、Potter, Yamamoto, 53-57 および Farago, 136 を参照。
 (82) 杉山、1: 370、 「一月、山本連合艦隊長官に対すハワイ攻撃の研究を大西少将に下命す」。アメリカのテレビ局のために源氏物語を翻訳した秋山たかおが、この翻訳を私に与えた。宮廷日本語の研究者であり、1941年の言葉使いの解る年齢の者として、彼は、 「下命す」 という表現は、この文脈においては、明瞭に 「天皇が命じた」 との意味であると、きっぱっりと語った。
 (83) この節は、ATIS 〔Research〕 Rept. No.131 ("Japan's Decsion to Fight")、Tsuji, Singapore, 3-71、Farago, 119-23 に基づいている。 
 (84) 大谷の家族とのインタビューによる。
 (85) 原田、5: 127-28。
 (86) Who's Who in Japan, 1936 の大谷の項を参照。
 (87) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131。
 (88) 松本重治とのインタビューによる。Potter, Yamamoto, 41, 43。この山本の心境については、1940年夏から1941年秋まで、おおむね同様な語句で、いくつかの機会において述べたとするいくつかの一次文献がある。
 (89) 小泉とのインタビューによる。
 (90) 木戸 『日記』 850。
 (91) 、 『ノートブック』。これらのノートは、師団司令官および参謀長が最初に師団の命令系統に就任した期日が示している。その本部が置かれてから数カ月間も骨格だけの場合の師団もあるが、日本の軍部組織は、いずれの師団も、戦闘命令を受け取ってから六週間以内に出動し、戦場に配置される。私は、師団の司令構成の設立の期日および数については、秦のノートによった。 “Report Concerning the Expansion of the Japanese Ground Forcus from 1921 to 1941” (Translations, 2, No. 29, National Archives Microfilm 8-5.1 CA) に詳しい歴史家は、戦後の尋問のなかで日本の将官によって認められた場合には、その公式の動員の前であっても、実際の師団として私はそれを数えていることを発見するだろう。しかし、秦のノートによる数え上げのほうが、より現実的と思われる。
 (92) Tolischus, Tokyo Record, 83-86。
 (93) 同書。
 (94) 原田、8: 377-78、また、361-63 参照。 
 (95) 木戸 『日記』 835、また、原田、8:387-88 も見よ。
 (96) 杉山、1: 173-77。
 (97) Deakin & Storry, 223。
 (98) 木戸 『日記』 855。
 (99) 同書、859、松本重治とのインタビューで補強。
 (100) Deakin & Storry, 224、
Johnson、152、大畑, 57-59, 小尾, 『現代史』、第1−3巻は、松岡の歴訪についてのゾルゲの報告のよい情報を含む。ことに、検察による30回と40回のゾルゲの尋問。
 (101) 木戸 『日記』 861。
 (102) Feis, Pearl Habor,180-84, Tolischus, Tokyo Record, 106-7, Presseisen, 289-93、Deakin & Storry, 224。
 (103) Feis, Pearl Habor,183 に引用されている、Basic Army Order No. 24, March 5, 1941,。
 (104) Presseisen, 289。
 (105) 木戸 『日記』 861。
 (106) Shirer 1144。
 (107) Presseisen, 289-91。
 (108) Shirer、1146。
 (109) 特記ない限り、この節は、Feis, Pearl Habor,186-87 と Presseisen, 293-95 に基づく。
 (110) Foreign Relations, U. S.: Japan, 1931-1941, 2: 143-45. telegram from Steinhardt to Secretary of State, March 4, 1941。
 (111) Johnson、152、Deakin & Storry, 224。
 (112) 杉山、1: 201、Ikle, 20-23、1941年4月22日の連絡会議報告。松岡がモスクワ訪問の見解を提示。
 (113) Kase、159。
 (114) 条約のお祝いの松岡とスターリンのやり取りの詳細はTolischus, Tokyo Record, 106-7 のモスクワから帰国の途の松岡一行の報告による。
 (115) メーノル教会の牧師の努力についての記述は、Taiheiyo, 8 の、交渉を始めた井川忠雄とドラウト神父によって書かれたメモの最終文書を見よ。残りの私の記述は、Farago, 172-88, Robert J. C. Butow, "The Hull-Nomura Conversations: A Fundamental Misconception, " American Historical Review, 65: 4 (JUly 1960), 822-36; Konoe Memoirs, IPS Document No. 3 (Library of Congress Microfilm WT6, 329 ff.); Bishop Walsh to IMTFE, Exhibit 3441; による。また、Ikle, xx-xxiii を見よ。
 (116) 木戸 『日記』 870。近衛、『日記』 は、松岡は単にお辞儀をするため二重橋で止まったとしているのを参照。
 (117) 木戸 『日記』 871。木戸と近衛もまた、同時に気乗りがせず、そして裕仁は使いを木戸によこし、助言をえるために来てほしいと求めている。
 (118) 杉山、〔1:〕 203-5。
 (119) 同書、〔1:〕 205-7、Ike, 27-31。Ike 教授の著書、Japan's Decision for War 〔1967年〕、は、1941年4月から12月の連絡会議と御前会議の翻訳を含んでいる。この翻訳は、 『太平洋・・・』 第8巻〔1963年〕 所収の 「杉山メモ」の日本語文を基礎にしたものである。 Ike 教授がこの仕事を始めた時、 『太平洋』 の中に引用されている資料はまだ出版されていなかった。逆に、私は、Ike の本に注目する前に、『杉山メモ』〔1967年〕を読み、この原稿と以後の章を書いた。だが、私の最終的な文章は主に Ike 教授によるものに従っており、正確さと翻訳の推敲は彼に多くを負っている。ただ、一、二の箇所では、原文の粗野さがよく表れていると感じ、私は自分の訳を用いている。
 (120) 木戸 『日記』 873。
 (121) 杉山、〔1:〕 213。
 (122) 近衛、『日記』

 
(123) この節は Farago, 191-201 による。
 (124) 松本重治とのインタビューによる。木戸 『日記』 873 も参照のこと。
 (125) 例えば、松岡のモロトフへの彼のメッセージについては、杉山、1: 295 を見よ。
 (126) Ike, 31。
 (127) Foreign Relations, U.S.: Japan, 1931-1942, 2: 146-48。また、Grew, Ten Years, 337 を見よ。
 (128) 杉山、1: 207-11、Ike, 31-36。Ike は第23回連絡会議の日付を5月13日としているが、杉山〔1: 207 および、 『太平洋・・・』 第8巻, 416 は、それを5月12日としている。
 (129) 杉山、1: 211-15、Ike, 36-43。
 (130) 「某」 を高松親王と特定する根拠は、小泉および田中とのインタビューによる。小泉の唯一の反応は、彼が同じ見解を告げたことであり、田中は、高松は海軍関係者であり、ゆえに彼の専門領域外のことであるとの理由で、その説明は辞退した。
 (131) 杉山、1: 215-17、Ike, 43-46。
 (132) 木戸 『日記』 877-78。
 (133) 同書、879。
 (134) 同書、および、杉山、1: 218 を見よ。
 (135) 杉山、1: 218-20、Ike, 46-47。
 (136) 杉山、1: 220-22、Ike, 52-53。
 (137) Ike, 51。
 (138) 杉山、1: 222-25、Ike, 53-56。
 (139) 木戸 『日記』 884-85。
 (140) 杉山、1: 228-31。
 (141) 同書、231-40。
 (142) 同書, 225-28、Ike, 56-60。
 (143) 杉山、1: 240-50, 251-52、Ike, 60-77。
 (144) 杉山、1: 250-51。
 (145) Feis, Pearl Habor, 206。
 (146) 杉山、1: 254-64、Ike, 77-90。
 (147) 木戸 『日記』 890。
 (148) Ike, 93。
 (149) 杉山、1: 269-73、Ike, 98-103。
 (150) Ike, 103-4。
 (151) 木戸 『日記』 890。
 (152) 同書、891。
 (153) 同書、891-92。
 (154) 1945年9月、松岡は彼の落胆をあらわにした英文による半ば筋の通った声明を作った(手書き、IPS Document No. 491, Library of Congress Micrlfilm WT4).。その中で、彼は天皇の意志に脱帽し、対米戦を 「その情況では不可避」 と呼んだ。

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