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            巻末脚注(14)

 (2013年1月22日現在)


(第六部   アジアの枢軸国)

 第二十五章 近衛の最後の機会

 (1) 杉山, 1: 273-74、Ike, 103-7。
 (2) 木戸 『日記』 894。
 (3) 東京における反応は、Tolisghus, Rocord, 173。
 (4) 杉山, 1: 276-84。
 (5) 同書。
 (6) 木戸 『日記』 895-96。
 (7) 同書、899-900。
 (8) 7月22日から29日までの引用は、杉山, 1: 276-84。
 (9) Tolisghus, Rocord, 172。
 (10) 木戸 『日記』 897-98。
 (11) 杉山, 1: 370。
 (12)
TsujiSingapore, 21-22。
 (13) 杉山, 1: 291 参照。
 (14) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131。
 (15) Johnson, 139。
 (16) 同書、157。
 (17) 同書、158。
 (18) Farago 211-12。
 (19) 退役海軍司令官とのインタビュー
 (20) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131。
 (21) 同書。
 (22) 杉山、1: 297、Ike, 121-24。
 (23) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131、退役海軍司令官とのインタビューTranslation, 1: No. 11 and No. 21, "Naval War Games of Sep. 1941 at Naval War College," (National Archives Microfilm 8-5.1 CA) よりの詳細。
 (24) 杉山、1: 303-5、Ike, 129-33。
 (25) 杉山、1: 309-11、Konoe, Memories、および Tiedeman, 142-44 から総合した著者の見解。
 (26) 杉山、1: 306-9, 311-30、Ike, 133-63。
 (27) FeisPearl Habor, 271、Grew, Ten Years, 367。
 (28) Grew, Ten Years, 368-69。
  (29) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131。
 (30) 木戸 『日記』、906。
 (31) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131 は、山本は9月6日と7日を、彼の計画は、いくつかの可能な真珠湾攻撃計画のうちで最適なものであることを、同僚将官に納得させようとしたことを表し、9月9日から12日までのものは、彼の計画の詳細を提示したことを示している。提示の最後の三日間は、Tomioka Sadatoshi, Statements, 4: 300-307 に詳しく描写されている。。
 (32) 杉山、1: 331。
 (33) 同書。
 (34) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131。
 (35) 同書。
 (36) この下士官――彼の記憶からATIS 〔Research〕 Rept. No.131 は組み立てられた――は、中国・日本語の筆記システムの訓練によって形成された頭脳によく見られる、驚異的な記憶力の持ち主の一人だった。戦後、山本の大海令第一号の黒焦げになった断片が東京のゴミ捨て場から回収された時、その下士官の記憶が、幾つかの枝葉の部分や関係代名詞を除いて、一字一句完全なものであったことが解った。(この注記は
オーチス・ケーリーの協力による)
 (37) 木戸 『日記』、906-7。
 (38) Brocade Banner,102。
 (39) 杉山, 1: 334-41、Ike, 173-76。
 (40) 木戸 『日記』、909。
 (41) 同書、910。
 (42) Hattori Takushiro, Statements, 1; 341、木戸 『日記』、911、退役海軍司令官とのインタビュー。
 (43) Grew, Ten Years, 283、木戸 『日記』、911。
 (44) 木戸 『日記』、912。
 (45) 同書、913。
 (46) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131。
 (47) 木戸 『日記』、914。
 (48) Farago, 222。
 (49) 木戸 『日記』、914-15、Konoye, "Memories"。
 (50) 木戸 『日記』、913-14。これは明らかに公式の閣議ではなく、出席者は、首相、外相、陸相、海相、鈴木内閣企画院総裁、富田官房長官。会議は近衛の荻窪の邸宅で行われた。
 (51) 杉山、〔?〕: 350-51。
 (52) 木戸 『日記』、915、Konoye, "Memories"(section entitled "On the Resignation of the Third Konoye Cabinet," Library of Congress Microfilm WT6)、木戸 3 (関係文書)、488-92。
 (53) 安藤、 『戦争』、その1、松本清張、 『文藝春秋』 、1968年1月号、161-。
 (54) 木戸 『日記』、916。午後3時の東条と木戸との会話は裕仁とのそれと同じであったろうと仮定した。。木戸 (関係文書)、488-92 を参照。
 (55) 木戸 『日記』、917-18、木戸 (関係文書)、481-88、Kase、53-56。
 (56) Brocade Banner,109、Tolischuusr,Record, 227-28。
 (57) Kase、53-56。
 (58) 杉山, 1: 332。
 (59) 木戸 『日記』、918、杉山, 1: 353 参照。

 第二十六章 真珠湾

 (60) 本章では、引用あるいは参考文献として挙げたもの以外に、以下の文献をその根拠としてもちいている。A. J. Barker, Pearl Habor (New York, Ballantine Books, 1969), Fujisawa Chikako, Kotonarism: An Introduction to the Study of Japanese Global Philosophy or Kotonarism (Tokyo, The Society for the Advancement of Global Democracy, 1954), 大橋ひでお、「私はゾルゲを捕えた」 ( 『サンデー毎日』 1961年7月2日)(戦前煽動家による戦後の特異な見解)、前田みのる(編)、 『南方と国民の覚悟』 (南方問題研究所、1941年)、Sakamaki Kazuo, I Attacked Pearl Habor (New York, Associated Press, 1949)、
杉森ひさひで、「東条英機:人われを上等兵と呼ぶ」 『文藝春秋』 特別号、No 95、1966年4月、p. 116-。
 (61) この節は、Johnson, 168-99、および、Deakin & Storry, 248-80 を基礎にしている。
 (62) Johnson, 175-77
 (63) Deakin & Storry, 252 によると、刑務所で書かれた記述で、尾崎は、逮捕の 「予感」 と準備を描写している。
 (64) 同書 253 にクラウゼンの引用。
 (65) 同書 254。
 (66) 杉山、1: 353-54、Ike, 184-87。
 (67) 杉山、1: 354-62、Ike, 187-99。
 (68) 杉山、1: 336-62、Ike, 194-99。
 (69) 木戸 『日記』、920-21 を、松本重治とのインタビューで補強。
 (70) 杉山、1: 370-72。
 (71) 杉山、1: 372-86、Ike, 199-207。
 (72) 杉山、1: 386。
 (73) 同書。
 (74) 同書、386-87。
 (75) 木戸 『日記』、921。
 (76) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131。
 (77) 同書。
 (78) 同書。
 (79) 杉山は自分のメモを11月1日付の記述の頭で、海軍の件と関連つけている。杉山、1: 370 参照。
 (80) Butow, Tojo, 375, n. 24。ブトー教授の結論は、ATIS No.131 によると、大海令第一号の300部のうち2部のみが陸軍に配布されたという事実に符合する。その二冊とは、おそらく、寺内と杉山用のものであろう。これら二人の将官はそれを最も知る必要があった。
 (81) 杉山、1: 387-88。
 (82) 主要な軍事命令の写しは、常に、関連する侍従武官を通し、両参謀総長のいずれかと話し合う際は事前に、裕仁に提出されていた。この場合では、裕仁は大海令第一号の一冊を、11月1日の遅くに、翌朝早く、海軍の弟の高松親王に米国に対する計画について電話するために、明らかに受け取っていた。木戸 『日記』、921。
 (83) Potter, Yamamoto, 68-69。 
 (84) この節は、全ての引用を含め、 杉山、1: 388-406 に基づく。
 (85) この節は、 杉山、1: 406-30 に基づくが、Ike, 208-39 で補強。
 (86) 木戸 『日記』、921。
 (87) Moore 253。
 (88) 田中は、そのインタビューの中で、最初に、天皇は真珠湾の前に、艦隊を秘密に検討したと言われたことを説明した。小泉は、そのインタビューの中で、そのうわさを否定しなかった。私は、木戸日記からその日付けを推測し、また、その話を退役海軍指令官との面会のなかで、あたかも良く知られ、確証されたかのように描写した。後の 『杉山メモ』 の出版は私に、天皇の検討が記述した期間に実際に実施されたことに確信をもたせた。
 (89) 杉山、1: 431。
 (90) 木戸 『日記』 922-23 および前述の
御前屏語についての注記
 (91) 杉山、1: 433-516。
 (92) この節における資料は、ATIS 〔Research〕 Rept. No.131、Farago, 267-68, Hashimoto, 1-5, Potter, 〔?〕, 78, 退役海軍司令官とのインタビューによる
 (93) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131、Hashimoto, 1-5。
 (94) 同書。 
 (95) 同書。
 (96) Farago, 267-68, Hashimoto, 1-5、 Potter, 〔?〕, 78。
 (97) Trefousse, 304-6。
 (98) 引用は、"Land Disposal Plan in the Great Co-Prosperiity Sphere," IMTFE Exh. 1334 より。文章は Storry, Double, 317-19 より。
 (99) 杉山、1: 525-28、Ike, 249-53。
 (100)
IMTFE "Preceedings" 10399。
 (101) Feis Pearl Habor, 314 の 1941年11月25日の項より。
 (102) 同書 315。
 (103) Trefousse, 141 に再録されている スティムソン の日記の1941年11月26日付記録より。
 (104) 木戸 『日記』 925 および 杉山、1: 532。
 (105) Hashimoto, 5
 (106) Millis 244 に引用。
 (107) Trefousse, 141 に再録されている スティムソン の日記の1941年11月27日付記録にあるハルの言葉。
 (108) IMTFE "Proceedings". 10425。
 (109) Trefousse, 142 に再録されている スティムソン の日記の1941年11月27日付記録より。
 (110) Millis 244 に引用。
 (111) Trefousse, 35 のJont Comittee へのキンメルの証言。
 (112) Millis 244 に引用されているキンメルの証言。
 (113) Trefousse, 36 に再録されている証言。
 (114) 同書、65。
 (115) 同書、62。
 (116) Millis 63。
 (117) Millis 33-34 に引用されている Grew, Ten Years, 318。
 (118) 同書、34。
 (119) IMTFE "Proceedings". 10430-。
 (120) Trefousse, 133 のJont Comittee へのスティムソンの証言。
 (121) ButowTojo, 344, n. 58。
 (122)
IMTFE Exhibit,.1966の木戸、および、Trefousse, 250-51。
 
(123) 杉山、1: 535-38、Ike, 260-62。
 (124) 木戸 『日記』 927-28。
 (125) 同書。
 (126) 同書。
 (127) 同書。
 (128) 同書。
 (129) 同書。
 (130) 杉山、1: 5339-44、Ike, 262-83。
 (131) 杉山、1: 544。
 (132) ATIS 〔Research〕 Rept. No.131。
 (133) Millis 297 に引用されているレイトンの証言。
 (134) Trefousse, 271 からの抽出。
 (135) 同書、272。
 (136) Farago, 303 のJont Comittee へのフーテの証言。
 (137) Tsuji, Singapore, 72-78。杉山、1: 5-6。辻は自分の計画の最後の修正をさせないため、その週に東京へ空路出かけた。
 (138) 杉山、1: 565 は、12月6日の会議を、第75回連絡会議としている。その563-65ページにおいて、彼は別の会議も、第75回連絡会議としている。 『太平洋戦争』 8:611-13 では、両会議を第75回連絡会議と呼ぶことに賛同している。しかし、 『太平洋戦争』 の記述は、不可解な植字(◎印)の省略がある。それは杉山の原本では、12月6日の会議の後半のほぼ終わりの部分で、膠着を破った発言の主を特定するために用いられている。内部資料から判断すると、第75回連絡会議は、12月4日に約2時間にわたり開かれ、満州の傀儡皇帝溥儀への戦争を宣言するために用いる公式様式を除き、何の議題の合意にも失敗したままに散会した。2日間の根回しの後、12月6日の会議は午前10時から行われ、残った議題について討議された。ハルへの文書のタイミングに関しては、大した議論もなく認められたが、陸海両軍の将官が、論議上の戦争についてヒットラーに何と言うかをめぐって長々とした疑問を表明した。陸軍は、常にロシア恐怖症で、日本が、米国と戦争することで、米国によるロシアへの援助をウラジオストックで食い止めることをヒットラーに確約することを望んだ。海軍は、米国のロシアへの援助を切断することでロシアを敵にする可能性は、日本が南進している間の危険を増すため、何もできないと主張した。午後3時、口論はいったん休息し、それから6時30分までの討議が始まった。午後遅く、◎印で特定された人物が賀屋蔵相の意見とヒットラーにはただ 「理解されることを期待するが、ロシアとの敵対を回避する限りにおいて、我々が南方への作戦を実行している間は、貴殿には充分には協力できない」 と言うことをを採用する 「決定」 を行った。この簡単な発言をすることで、その発言者は、議事の進行を迅速な結論へと持って行く手柄をあげた。
 (139) Millis 322。
 (140) 同書、219-20。
 (141) Grew, Ten Years, 421-23。
 (142) Millis 319。
 (143) Trefousse, 196-200 Joint Committtee への Kramer の証言。
 (144) 同書、Joint Committtee への Shulz の証言。
 (145) Millis 331。
 (146) Zacharias、250。
 (147) Grew, Ten Years, 420。
 (148) 木戸 『日記』 932。
 (149) Feis Pearl Habor, 341。
 (150) Trefousse, 196-200 Joint Committtee への Marshall の証言。
 (151) Grew, Ten Years, 420-21。
 (152) Togo、891。
 (153) 木戸 『日記』 932。
 (154) IMTFE "Proceedings". 10608-38 の Frederick Charles Parr の証言。
 (155) 木戸 『日記』 932。
 (156) 同書、を1941年に大本営に配属されていた退役中将とのインタビューで補強。他の情報提供者、小泉信三は 「宮中のほとんどの人たちのように、天皇もラジオを聞いたと思う。彼は執務室に短波受信機を持っており、マレーからの実際の通信を聞いたと聞いた」 と話した。
 (157) Davis and Lindly, 4。
 (158) Togo、221。
 (159) 同書。
 (160) 木戸 『日記』 932。
 (161) この節は、Lord, Day of Infamy, Karing and Kelley, 22-96、MillisMorison、3: 80-146 に基づく。
 (162) Potter, Yamamoto, 98。.
 (163) 木戸 『日記』 932。
 (164) Morison、3: 126 に基づく。James O. Richardson 提督が IMTFE に与えた集計では、水兵1,999名、海兵隊109名、兵士234名、および118機の米軍航空機。
 (165) Morison、3: 101.。
 (166) Davis and Lindly, 5。
 (167) 同書、15-18。
 (168) IMTFE "Proceedings". 11311-。
 (169) Morison、3: 212。

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