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巻末脚注(15)
(2013年4月22日現在)
(第七部 世界終末戦争)
第二十七章 南 進
(1) 本章においては、脚注した出典や参考文献以外に、以下の諸文献をその背景資料として用いた。
David Bernstein, The Phillipine Story (New York: Farrar, Straus & Co., 1947), (フィリピンの攻落と国外追放の間のマニュエル・ケゾン大統領の慎重だが興味深い見解).。
Russell Braddon, The Naked Island (London: Werner Laurie, 1952), (Braddon の有名な同僚捕虜、Ronald Searle によるシンガポールとタイ・ビルマ鉄道の実話)。
Eugene Burns, Then There Was One: The U.S.S. Enterprise and the FIrst Year of the War (New York: Harcourt, Brace & Co., 1944),。
Paul Carano and Pedro C. Sanchez, A Complete History of Guam (Rutland, Vermont, and Tokyo: Chas. E. Tuttle Co., 1964)。
Don Congdon, ed., Combat: Pacific Theater, Warld War II (New York: Dell Publisshing Co., 1958)、(戦争体験の直話集)。
Frank Wesley Craven and James Lea Cate, eds., Plams and Early Operations: January 1939 to August 1942, The Army Air Force in Warld War II, Vol. 1 (Chicago: University of Chicago
Press, 1948)。
Ralph Coodwin, Passport to Eternity (London: Arthur Barker, Ltd., 1956), 香港の攻落。
John Hersey, Men on Bataan (New York: Knopf, 1942)。
Stanley Johnston, Queen of the Flat-tops: The U.S.S. Lexington and the Coral Sea Battles (New York: E. P. Dutton & Co., 1942)。
Edgar McInnis, The War, Third Year (London, Tronto, New York: Oxford University Press, 1942)。
Ronald McKie, Proud Echo (Sydney: Angus and Robertson Ltd., 1953, (スンダ海峡戦とパースの沈没の体験談)。
John F. Moyes, Mighty Midgets (Sydney: N.S.W. Bookstall Co., 1946), (オーストラリア北部の海域においての小規模艦艇による行動)。
棟尾松治、平櫛孝、冨永謙吾、 『大東亜戦日誌』、第1巻、1941年12月8日―1942年4月7日、第2巻、1942年4月8日―1942年8月7日 (東京、朝日新聞社、1942年)。
Ronald D. Rivett, Behind Bamboo: An Inside Story of the Japanese Prison Camps (Sydney: Angus & Robertson Ltd., 1946), (スンダ海峡戦についての記述を含む)。
R. W. Volckmann, We Remained (New York: W. W. Norton & Co., 1954)。
Robert Ward, Asia for the Asiatics? The Techniques of Japanese Occupation (Chicago: University of Chicago Press, 1945), (1941年、香港の米国領事による)。
Osmar White, Green Armour (Sydney: Augus and Robertson Ltd., 1942), (ニューギニアのオーストラリアによる防衛の体験談)。
W. L. White, They Were Expendable (New York: Harcourt, Brace & Co., 1942)。
Malcom Wright, If I Die: Coastwatching and Guerrilla Warfare Behind Japanese Lines (Melbourne: Landsdown Press, 1965), ニューブリテン島での対抗)。
(2) 木戸 『日記』 932-33。
(3) Tsuji, Singapore, 82-88。
(4) 同書、95。
(5) Sakai Sabro, 71。
(6) Allison Ind, Bataan: The Judgement Seat (New York: The Macmillan Co., 1944): 91-105。
(7) Brereton、38-39。
(8) Sakai Sabro, 71。
(9) Morrison, 3: 170-71, , Ind 〔3行上参照〕, 91-105。
(10) Sakai Sabro, 72-73。
(11) 同書、85。
(12) 杉山, 2: 26。
(13) Wigmore, 180。
(14) Morrison, 3: 185-86。
(15) Kawagoe Moriji, Statements, 2: 155-、Nakajima Toshio, 同書, 638-41。
(16) この節は、Gill、476-83、Grenfell, 109-36、Wigmore, 141-45、に O. D. Gallagher, Retreat in the East (London: George C. Harrap & Co., 1942) .からのいくらかの詳細を加えたもの、に基づいている。
(17) Gallagher (上記)、45。
(18) 同書。
(19) 同書、49。
(20) CBS 特派員 Cecil Brown, in Don Congden, ed., Combat: The War with Japan (New York: Dell Publishing Co., 1962), 49。
(21) Gallagher、60。
(22) 同書、70。
(23) 木戸 『日記』、933。
(24) 同書。
(25) Tsuji, Singapore, 207-9。
(26) Tsuji, Underground Escape, 77。
(27) 朝日新聞、1942年11月20日。
(28) 朝日新聞、1940年9月6日。
(29) ATIS Document. No.7396。
(30) この節は、Wigmore, 137-52、Tsuji, Singapore, 107-25 に基づく。
(31) Tsuji, Singapore, 183-85 に述べられている作戦。
(32) この節は、Morrison, 3: 223-54 に基づいている。
(33) この節は、Wigmore, 170-76、Strategicus, The War Moves East (London: Faber & Faber, 1942)、James Bertram, Beneath the Shadow (New York: John Day Co., 1947), 78-96、に基づいている。
(34) IMTFE "Proceedings". 13112-, のJames Barnett の証言より。
(35)この節と次の節の「マニラ」およびその次の節の「バターン防衛」は、特記のない限り、服部, 278-83 (に付録の折り込み地図)、Statements、1:315-90 の服部(彼は陸軍一般参謀作戦部長)、と他の将官の証言、同書、2:115-36, 393-96, 576-77, 627-30,
638-44, 657-60, 661-68, 同書、3:80-97, 110-17, 152-59, 同書、4:369-82, 544-51,
552-57、Agoncillo, 1:124-62, および、Toland, But Not in Shame, 124-93 に基づく。
(36) 川越もりじ、Statements、2:122-33、大前としかず、同書、3:60-63。
(37) 数値と理由に関しては、川越もりじ、大矢部、おのむ、とわたり、Statements、2:117, 578, 3:81, 153, 4:375。
(38) これと、後の二つのパラグラフは、筆者が父親の J. Van Wie Bergamini, との会話や、母親の Clara D. Bergamini
の日記を参考にしている。
(39) Agoncillo, 1 巻、87 の反対側の折り込み。
(40) もりおか すすむ, Statements、2:576-77。
(41) 大矢部 しょうぞう, Statements、3:81。
(42) 川越もりじ, Statements、2:117 および、藤沢とのインタビュー。
(43) 奈良晃, Statements、2:662。
(44) Agoncillo, 1:79 。前田まさみ、Statements、2:393 は、本間中将は12月25日までに、スパイを通じてその決定について知っていた、とある。
(45) 脚注 6、7、8、9 を見よ。
(46) 小島、1; 182-85。
(47) はば ひかる、Statements、1:195、中山まこと、同書、2:657-60。
(48) 木戸 『日記』、936、Agoncillo, 1:358。
(49) 服部、Statements、1:315-16。
(50) 前田まさみ、Statements、2:393、中島よしお、同書、2:638-44。
(51) あらお おきかつ、Statements、1:44-46、石井まさみ、同書、587、前田まさみ、同書、2:393-96。
(52) 朝日新聞、1942年1月20日、石井まさみ、Statements、2:588。
(53) 石井まさみ、Statements、2:588 を退役中将とのインタビューで補強。
(54) "Honma Trial Transcript" (National War Memorial, Canberra) 3:225-27、前田、Statements、2:393-96
(55) 小泉とのインタビュー。
(56) 服部、Statements、1:383 によると、攻撃の正式命令は、大本営陸軍命令第1076号。予備役中将藤沢しげぞうによると、この辞職は大命で、天皇に侍従武官を通じて報告されるだけでなく、裕仁自身による国璽が押されていた。この命令文書の中の第1076号は、1941年12月8日の多種の命令のものである。言い換えれば、裕仁は、一ヶ月少々のうちに、陸軍だけで、自分で千以上の命令をだしたいたこととなる。
(57) 小島、1; 182-85。
(58) 藤沢とのインタビュー。
(59) Lee, 99 に引用。
(60) Long, MacArther, 74-75。
(61) この節は、Percival, Tsuji, Singapore, Wigmore, 337-81, Attiwill, のそれぞれに基づく。
(62) 高橋ちかや、Statements、4:34-37 参照。
(63) 同書、4:50-51。
(64) この節は、Percival, 272-301, Tsuji, Singapore, Wigmore, 337-81, Attiwill, 随所、に基づいている。
(65) 退役海軍司令官とのインタビュー。
(66) 杉山、2: まえがき、11-13。
(67) 退役海軍司令官とのインタビュー。
(68) 杉山、2: 22。
(69) 閻の行動の詳細についての見解は、George E. Taylor, The Struggle for North China (New York: Institure of Pacific Relations, 1940) を参照。
(70) 田中隆吉とのインタビュー。
(71) 田中隆吉とのインタビュー。最初の 「閻錫山作戦」 ――航空機から閻の兵士の捜査――は、原田、2:36 に描かれている。
(72) 木戸 『日記』、843, 847, 886, 901, 902, 907, 920 の1940−41年の 「閻錫山作戦」 についての参照文献を参照。。
(73) 杉山、2: 22-23。
(74) 退役海軍司令官とのインタビュー。
(75) Tsuji, Singapore, 258 を藤沢とのインタビューで補強。
(76) この太原での残虐行為への閑院親王と竹田親王の関わりについては、朝日新聞、1942年3月20日を参照。
(77) Tsuji, Singapore, 259-65。
(78) 木戸 『日記』、943-44。Kido Koichi, Statements, 2:195 の 「天皇は、あたかも 『木戸が彼の言っていることを知っているのかもしれない』 と言わんかの表現をした。」
(79) 木戸 『日記』、945。
(80) 同書、946。
(81) 同書、944。。
(82) 服部, 『大東亜』 およびStatements, 1:357-58、退役海軍司令官とのインタビュー。
(83) 杉山、2: 30-33。
(84) 杉山、2: 32。
(85) 杉山、2:12。
(86) 木戸 『日記』、921。
(87) 杉山、2: 60。
(88) 木戸 『日記』、950。
(89) Akiyama Monjiro, Statements, 1:18-20、Nara Akira, 同書、2:661-68、Onyma Kiyoshi, 同書、3:152-59、Ohyaba Shozo,
同書、3:80-97、Oishi Hiromi, 同書、3:110-17、Yoshida Motohiko, 同書、4:544-51。
(90) この節は、Agoncillo, 1:198-231,Dyess, 61-132 他随所、IMTFE "Proceedings". 12578-738, Toland, Not in Shame, 70-104, Tsuji, Guadarukanaru に基づく。
(91) 米国退役准将 Steve Mellnik はその Phillipne Diary, 1939-1945 (New York: Van Nostrand Reinhold Co., 1969) の中で、コレヒドール陥落後、日本の一人の大佐――明らかに、あなどり難い辻自身かに受け取れる――にガイドとして行動したことについて書いている。
(92) 今井武夫、184-。
(93) 。木戸 は『日記』に、是松との100回以上の会合を記録している
(94) 木戸 『日記』、956 を小泉信三とのインタビューで補強。
(95) James Merrill, 随所、を参照。
(96) IMTFE "Proceedings". 114387-402, の証言のうち、ことに東条の好敵手の田中隆吉のものを見よ。
(97) USAFFE. "Japanese Monograph" No. 71, 86-87, see also 37-118。
(98) James Merrill, 160。
(99) ドーリトル空襲とミッドウェイ攻撃との関係については、阿川, 249-53 を見よ。
(100) この節は、Yoshida Motohiko, Statements, 4:552-57、 Steve Mellnik 〔脚注(91)〕、Philippine Diary, 135-55 に基づく。
(101) 朝日新聞、1942年5月17, 27日。
(102) この節は、Morrison, 4: 21-64、Ito Masanori, 52-53、Toland, Not in Shame, 369-73 に基づく。
(103) この節は、Morrison, 4: 69\159、Lord, Incredible Victory、Fuchida et al、Tuleja、Toland, Not in Shame, 373-98 に基づく。。
(104) 誰が何を爆撃したかは議論の余地がある。筆者はここでは、Lord, Incredible Victory, 289-95 による再現記録を採用している。私はそれを、日本とアメリカの双方の目撃者の見解の詳細をもっとも多く取り入れた最良のものであると見ている。
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